第19話 神護景雲三年 遠出の予感と勅命

 六月に入ってすぐ、若い僧侶が近衛府にやって来た。法王宮ほうおうぐうが出来て内道場の権限が増したためか、最近では宮城を平然と僧侶が歩き回る。応対に出た下士官は、不似合いな僧衣を伴って私の曹司ぞうしに声をかける。姉の法均尼ほうきんにから言づけを預かって来たと言う。


 同日の夕刻、私が屋敷に戻ってしばらくすると、数人の舎人とねりを伴い、姉は輿こしを仕立ててやって来た。家族にも聞かせたくない話があると、挨拶も持て成しも辞退して、厳重な人払いを命じる。そして私たちは、藤原種継の家よろしく、誰が来ても見通せる中庭の真ん中に席を置かせ、二人きりで話を始める。

「近い内に、女帝みかど御身おみを御召になると思います」開口一番に姉は言う。

「何のためにです」私はといえば、正直に面食らい、つい問い返す。

「御身にしてみれば、訳の分からない任務だと思うでしょう。私にも分からないのですから」何やら勿体ぶった前口上で姉の話は始まる。

 少しの間は大人しく聞いていたが、やはり途中で訳が分からなくなって口を挟む。

「神の御使みつかいという者が、尼僧をつかわせと命じたのですか」

「そこが分からないのです。尼僧におのずから告げさせよ、その様に聞いた気もすると仰せになられましたし」

 数日前の事、女帝の夢枕に神の使いを名乗る者が立った。その者の言うには、皇嗣について迷うている事を大御神おおみかみが知り、みずからを遣わせた。大御神の御言葉を賜りたく思うのなら、尼僧を云々と言葉は続いたらしい。

「それで、尼僧とは姉上の事なのですか」

「残念ながら、それもはっきりしておられない御様子です」

「少なくとも、御自身の事ではないと、女帝は思うておられる訳ですか」

「他にも側近くに仕える尼僧は、何人かいます。けれど、いくら考えても、その者らではない。それ故に私ではないかと……」

 その様な言い分では、姉でなくとも困惑の上に溜息もつくだろう。

「そもそも、使いを寄こした大御神とは、伊勢の大御神なのですか」

 皇嗣云々というのだから、皇家の祖先神の伊勢大御神だと思うのが普通だ。

「それを女帝も問われたところ、今は都のすぐ東にすと答えられたとか。では、春日の大御神かと問えば、違うと……故に、東大寺の毘盧遮那びろしゃな仏の御前みまえ勧請かんじょうされた、宇佐うさの大御神に間違いないと仰せになられるのです。宇佐大御神だと言い出したのは、どうやら法王様のようですよ」またも、あからさまな溜息をつく。

 女帝の父、聖武皇帝は大仏の建立に当たり、宇佐より八幡神を勧請した。大仏開眼の時、既に即位していた女帝にしても、八幡神との関わりは浅いものではなかろう。

 そして道鏡法王は、東大寺の良弁僧正の弟子だったと聞く。だから藤氏の信奉する春日明神よりも、宇佐八幡神だと思いたいのかもしれない。いずれにしても、わが師と仰ぐ法王が断言すれば、迷うことなく信じるだろう。

「要するに、女帝におかれては、何を置いても法王に相談をされた。そして、宇佐大御神の御言葉を賜うために、尼僧の代表として姉上が選ばれた。つまりは、精進潔斎して、毘盧遮那仏の御前の社に籠れと」かなりぞんざいに私は言う。

「東大寺ではありませぬ、宇佐へ下れと」

「宇佐へ……とは。行くだけで半月、往復では一月以上かかる。それを命じられたのですか」再び、私は正直に驚く。

 宇佐は筑紫つくし豊前国ぶぜんのくににある。陸路にせよ水路にせよ、まずは難波に向かう。これだけで一日や二日は費やされる。難波津より出港し、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防といった国々の港を経て、豊前国の草野津かやのつに到着する。ここまでは十日前後を見ておいた方が良かろう。草野津からは陸路で一日というところか。

「私では無理だと、女帝も法王も思われたのでしょう。弓削ゆげ大納言らとも話し合うて、誰か代わりの者、できれば身内の者を遣わせるのが妥当かと」

「それで、私を召す云々……」三度驚いたが、口先だけは冷静な振りをする。

「法王も大納言も、御身が相応しかろうと言うています」

「しかし、御使いは尼僧をどうのと言うのに、私のような俗体の武官で良いのですか。大御神の御言葉を賜るという事は、神仏の御前に参上するのでしょう」

「女帝も法王も、私では不適切だと御思いなのですよ。身内と言われて、葛城にいる子らを遣わす訳にも行きませぬし」

「確かに私が一番、相応しいと。いずれ、勅命が下る訳ですね、とっとと宇佐へ下れと」

 ぞんざいに言えば姉は無言でうなずく。私も半ば以上自棄になってうなずき返す。既に逆らう事は許されない事態だ、四の五の考えるのも無駄だ。


いまし、この後は、龍の争いに巻き込まれよう。いずれも人喰いの龍ゆえに、油断をすれば喰らわれようが、忠を誓えば大きな支えとなろうよ」

 久々に現れた呪女まじないめは、この度も同じ言葉を繰り返す。心なしか表情が嬉々として見えるのが、やたらに癪に障る。

「この後、俺が忠誠を誓える龍が現れる、そういう事だな」夢の中だと分かっていながら問いかける。

「龍を見つけるのは汝だ。判断を誤れば命取り、龍に喰らわれるやも知れぬぞ」そう言って笑う。

 死んだ後も、気味も性根も悪い女だ。更に腹が立ってきて、何か言い返そうかと思う内に夢が覚める。寝覚めはすこぶる悪い。

 その日は出仕しても上の空で終わる。この忌まわしい女の事を誰かに相談すべきか。鬱々と考えている内に、更に憂鬱な命令が下る。


 姉がやって来た日の二日後の事、出頭を命じられたのは中宮院の前殿まえどの、まかりなりにも五位をもらっている私は、昇殿しょうでんを許される。

 前殿の中央には、御簾みすの掛けられた玉座がある。空の玉座に対面する位置に私は座る。縁には舎人や内侍ないしの姿があるが、御簾の両脇には、左大臣と大納言宮だいなごんのみやが座しているだけだ。右大臣や他の大納言、中納言は勿論、法王の姿までが見えない。

 この二人は、先にあった不破内親王ふわのひめみこ呪詛ずそ事件の尋問に当たっていた。私の宇佐八幡宮行きと、先の事件は関わりがあるのか。女帝は皇嗣についてを迷っているらしいが、神託には内親王や子供らも関わって来るのか。

 殿の外より内侍の声が、女帝の御出座おでましを告げる。私は座り直して低頭する。衣擦れや御簾を上げ下げする音を、床を眺めたまま聞く。大納言宮の声が、舎人や内侍に退出を命じる。そして女帝の声が、面を上げよと私に命じる。

 言葉に従って一度顔を上げ、下がった御簾と女帝らしき影を確認し、再び頭を下げる。その頭上で、先日に姉から聞かされたのと同じ内容が、大納言宮によって語られる。

「いずれもが、法均尼を宇佐に遣わすのは無理と判断をした。故に法均尼の要望を入れ、御身に代役を願いたいという結論だ」ごく親しい者への頼み事のような口調で大納言宮が言う。

「御身は宇佐大御神に何を伺いに行くのか、姉御から聞いておられようかな」これまた老人らの世間話のように左大臣が聞く。

「今しがた、大納言の言われた程度の事しか聞いておりませぬ。皇嗣の定まらぬ状況ゆえ、大御神が御言葉を賜ろうと仰せになられた。その言葉を聞いて参れとの事にございましょうか」心なし顔を上げて私は答える。

「端的に申せば、そういう事だ。御身には神前で奏上する文を持参させるゆえ、それを読み上げれば良い」左大臣が言う。

「答えが得られるか否かは、誰にも分からぬ。得られぬのなら、それも神の御意思だ。御身は不必要に構える必要はない」当事者の一人の大納言宮は、口元に笑みさえ浮かべる。

「痛み入る御言葉です」私は再度、低頭する。


 御前での会見は、この程度で終わった。

 それにしても疑問に思うのは、託宣を受けに行く命令の場に、左大臣と大納言宮しかいなかった事だ。宇佐の八幡神だと言い出した、道鏡法王すらいないのは何故なのか。皇嗣問題なので、立ち入らせたくないと太政官が考えているためなのか。それならば、弟の弓削大納言がしゃしゃり出て来てもおかしくない。

 この疑問に追い打ちをかける呼び出しが、同日の午後にある。

 近衛府に残っていると、衛門舎人が一人やって来て、かみの元に来いとの伝言を伝える。衛門督えもんのかみといえば、大納言も兼任する弓削御浄朝臣浄人ゆげのみきよのあそみきよひとだ。


 衛門督の曹司ぞうしは人払いされているが、この暑い時季に戸もしとみも閉め切っている。密談は密室で行う、藤原種継の家とは逆の発想だ。

「大宰府の主神かむつかさで、中臣習宣なかとみのすげの阿曾麻呂あそまろという者が、宇佐の八幡宮に来ておるはずだ。その者から書状を受け取って参れ。子細は阿曾麻呂より聞くがよい。首尾よう果たせば、いましにも相応の恩賞を用意する」単刀直入に衛門督は命じる。

「書状を受け取るだけで良いのですか」何やら解せない命令に問い返す。

 首尾よくなどと言うところが、実に胡散臭い。そもそも、豊前国の宇佐八幡宮に、筑前国の大宰府の役人が来ている事も不自然に思える。

「つまらぬ詮索は無用、そして他言も無用だ」

 背の低い衛門督は、下からねめつけるように見る。

「果たせぬのなら汝だけでのうて、周囲の者にも咎が及ぶと心得よ」常套句ともいえる脅しが加わる。


 私が衛門督と交わした会話は、この程度だった。これだけで充分に、裏で何かの企みが動き出していると知れる。恐らくは、左大臣らの命令とは別物、もしかしたら相反する事なのかもしれない。

 龍の争いと呪女は言った。争うのは龍だけなのか。むしろ龍は静かに座すだけではないのか。御簾の向こうの女帝や二人の高官の姿を思い出す。戦いを仕掛けて来るのは眷属どもだ。


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