第19話 神護景雲三年 遠出の予感と勅命
六月に入ってすぐ、若い僧侶が近衛府にやって来た。
同日の夕刻、私が屋敷に戻ってしばらくすると、数人の
「近い内に、
「何のためにです」私はといえば、正直に面食らい、つい問い返す。
「御身にしてみれば、訳の分からない任務だと思うでしょう。私にも分からないのですから」何やら勿体ぶった前口上で姉の話は始まる。
少しの間は大人しく聞いていたが、やはり途中で訳が分からなくなって口を挟む。
「神の
「そこが分からないのです。尼僧に
数日前の事、女帝の夢枕に神の使いを名乗る者が立った。その者の言うには、皇嗣について迷うている事を
「それで、尼僧とは姉上の事なのですか」
「残念ながら、それもはっきりしておられない御様子です」
「少なくとも、御自身の事ではないと、女帝は思うておられる訳ですか」
「他にも側近くに仕える尼僧は、何人かいます。けれど、いくら考えても、その者らではない。それ故に私ではないかと……」
その様な言い分では、姉でなくとも困惑の上に溜息もつくだろう。
「そもそも、使いを寄こした大御神とは、伊勢の大御神なのですか」
皇嗣云々というのだから、皇家の祖先神の伊勢大御神だと思うのが普通だ。
「それを女帝も問われたところ、今は都のすぐ東に
女帝の父、聖武皇帝は大仏の建立に当たり、宇佐より八幡神を勧請した。大仏開眼の時、既に即位していた女帝にしても、八幡神との関わりは浅いものではなかろう。
そして道鏡法王は、東大寺の良弁僧正の弟子だったと聞く。だから藤氏の信奉する春日明神よりも、宇佐八幡神だと思いたいのかもしれない。いずれにしても、わが師と仰ぐ法王が断言すれば、迷うことなく信じるだろう。
「要するに、女帝におかれては、何を置いても法王に相談をされた。そして、宇佐大御神の御言葉を賜うために、尼僧の代表として姉上が選ばれた。つまりは、精進潔斎して、毘盧遮那仏の御前の社に籠れと」かなりぞんざいに私は言う。
「東大寺ではありませぬ、宇佐へ下れと」
「宇佐へ……とは。行くだけで半月、往復では一月以上かかる。それを命じられたのですか」再び、私は正直に驚く。
宇佐は
「私では無理だと、女帝も法王も思われたのでしょう。
「それで、私を召す云々……」三度驚いたが、口先だけは冷静な振りをする。
「法王も大納言も、御身が相応しかろうと言うています」
「しかし、御使いは尼僧をどうのと言うのに、私のような俗体の武官で良いのですか。大御神の御言葉を賜るという事は、神仏の御前に参上するのでしょう」
「女帝も法王も、私では不適切だと御思いなのですよ。身内と言われて、葛城にいる子らを遣わす訳にも行きませぬし」
「確かに私が一番、相応しいと。いずれ、勅命が下る訳ですね、とっとと宇佐へ下れと」
ぞんざいに言えば姉は無言でうなずく。私も半ば以上自棄になってうなずき返す。既に逆らう事は許されない事態だ、四の五の考えるのも無駄だ。
「
久々に現れた
「この後、俺が忠誠を誓える龍が現れる、そういう事だな」夢の中だと分かっていながら問いかける。
「龍を見つけるのは汝だ。判断を誤れば命取り、龍に喰らわれるやも知れぬぞ」そう言って笑う。
死んだ後も、気味も性根も悪い女だ。更に腹が立ってきて、何か言い返そうかと思う内に夢が覚める。寝覚めはすこぶる悪い。
その日は出仕しても上の空で終わる。この忌まわしい女の事を誰かに相談すべきか。鬱々と考えている内に、更に憂鬱な命令が下る。
姉がやって来た日の二日後の事、出頭を命じられたのは中宮院の
前殿の中央には、
この二人は、先にあった
殿の外より内侍の声が、女帝の
言葉に従って一度顔を上げ、下がった御簾と女帝らしき影を確認し、再び頭を下げる。その頭上で、先日に姉から聞かされたのと同じ内容が、大納言宮によって語られる。
「いずれもが、法均尼を宇佐に遣わすのは無理と判断をした。故に法均尼の要望を入れ、御身に代役を願いたいという結論だ」ごく親しい者への頼み事のような口調で大納言宮が言う。
「御身は宇佐大御神に何を伺いに行くのか、姉御から聞いておられようかな」これまた老人らの世間話のように左大臣が聞く。
「今しがた、大納言の言われた程度の事しか聞いておりませぬ。皇嗣の定まらぬ状況ゆえ、大御神が御言葉を賜ろうと仰せになられた。その言葉を聞いて参れとの事にございましょうか」心なし顔を上げて私は答える。
「端的に申せば、そういう事だ。御身には神前で奏上する文を持参させるゆえ、それを読み上げれば良い」左大臣が言う。
「答えが得られるか否かは、誰にも分からぬ。得られぬのなら、それも神の御意思だ。御身は不必要に構える必要はない」当事者の一人の大納言宮は、口元に笑みさえ浮かべる。
「痛み入る御言葉です」私は再度、低頭する。
御前での会見は、この程度で終わった。
それにしても疑問に思うのは、託宣を受けに行く命令の場に、左大臣と大納言宮しかいなかった事だ。宇佐の八幡神だと言い出した、道鏡法王すらいないのは何故なのか。皇嗣問題なので、立ち入らせたくないと太政官が考えているためなのか。それならば、弟の弓削大納言がしゃしゃり出て来てもおかしくない。
この疑問に追い打ちをかける呼び出しが、同日の午後にある。
近衛府に残っていると、衛門舎人が一人やって来て、
衛門督の
「大宰府の
「書状を受け取るだけで良いのですか」何やら解せない命令に問い返す。
首尾よくなどと言うところが、実に胡散臭い。そもそも、豊前国の宇佐八幡宮に、筑前国の大宰府の役人が来ている事も不自然に思える。
「つまらぬ詮索は無用、そして他言も無用だ」
背の低い衛門督は、下からねめつけるように見る。
「果たせぬのなら汝だけでのうて、周囲の者にも咎が及ぶと心得よ」常套句ともいえる脅しが加わる。
私が衛門督と交わした会話は、この程度だった。これだけで充分に、裏で何かの企みが動き出していると知れる。恐らくは、左大臣らの命令とは別物、もしかしたら相反する事なのかもしれない。
龍の争いと呪女は言った。争うのは龍だけなのか。むしろ龍は静かに座すだけではないのか。御簾の向こうの女帝や二人の高官の姿を思い出す。戦いを仕掛けて来るのは眷属どもだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます