第18話 神護景雲三年 呪詛騒ぎ
五月二十四日の正午前、久々に招集命令が出る。今朝方に
近衛府と右兵衛府に下された命令は、内親王の屋敷を包囲し、母子の身柄を捕らえよ。呪詛の証拠も改修せよと続く。
夏の盛り、日の高い時間は当然ながら暑い。武装を整えるに当たり、誰もが口に出さずとも嬉しい顔はしない。
指揮を取るのは中将、その下に少将、そして
昼日中の都大路を近衛と右兵衛の兵士三百が行く。周辺の住人は何の騒動かと怯え、門を閉ざして行きすぎるのを待つ。指揮官らの乗る馬の蹄の音、続く兵士らの足音と兵仗の触れ合う音が、道々に響く。
これらは明らかな見せつけだ。不破内親王には、帰京時に空いていた、五位程度の官人の屋敷が与えられた。格外に広い訳ではない。三つ程度しかない門に、一小隊ずつを配せば事は足りるだろう。
間路や小路を堰き止めるように、屋敷の門前に兵士が立ち並ぶ。門は予想していた通り、固く閉ざされている。
「速やかに開門せよ。従えば事を荒立てぬ。従わねば急行突破するのみ」
少将の呼びかけが二度繰り返されたところで、正門の脇の潜り戸が開く。
主が内親王で子息も年若いためか、抵抗する者もないままに任務は終了する。しかし、屋敷内の探索では、呪具と思しき証拠が見つからない。引き続きの探索と、情報提供者や屋敷の者らへの詰問が始まる。
その結果、有ろう事か、呪具は内裏で見つかった。持ち込んだのは
弓場を臨む
「はっきり言って、太政官での取り調べの様子は、殆ど分からない」最近、眉間の皺が深くなった左中弁が不機嫌な声で言う。
「尋問に当たっているのは、どなたなのですか」私は少し遠慮気味に問う。
「左大臣と大納言宮だ」
「
「他にはどなたがおられます」船守が問う。
「参議も侍従もおらぬ。書記官はおるだろうが、いずれも永手の子飼いの輩だ。おかげで
参議民部卿の藤原縄麻呂は南家の出身だが、式家の雄田麻呂とは若い頃から仲が良いらしい。左大臣で北家の主長たる永手とは、二人とも反りが合わないと聞いている。この様子では、山部王も情報を得ていないのだろう。
「近衛府も弾正台も、太政官への報告は定期的にしている。ところがその詳細は、私程度の者にまでは開示してくれぬ。それでだ、近衛府での状況は如何なものか。大きな声では聞かぬ。余程、不都合な事でもあるのか」悪びれた様子もなく、真顔で左中弁が問いかける。
要するにこの人は、詳しい情報を得られない者の代表として、ここに乗り込んで来た訳だ。
「喜べとは言いとうないが、出るべき名前が出て来たというところです」船守がウンザリとした表情で答える。
弾正台での証人尋問に加わっているのは、この面子の内では船守だけだ。
「もしかして、あの女か、もはや死人に口なしの」種継が鼻先で笑う。
ここで間が悪い事に、曹司の外から声がかかる。客人の左中弁が、この暑い最中に熱い薄荷湯を所望したので、宿直で残っていた舎人に用意させ、我々も相伴に与る。
「証人は女だったな、確か」左中弁は舎人が出て行ったのを見計らって小声で聞く。
「
「その者は呪詛の現場や証拠を見たのか」
「主と県犬養姉女が話しているのを聞いたと証言しています」
「県犬養姉女は一応、女帝直属の内侍だったな。丹比乙女はその女を知っていた訳か」
「姉女は以前から訪ねて来ていたそうです。姉女が、髪の毛を手に入れたのどうのと、言うのを聞いたと証言しています。そして翌日に、忍坂女王と石田女王も訪ねて来た。人払いをした後、姉女も交えて四人で何やらしていたと言うています」
「髪の毛を呪詛に使うのか」私は聞く。自慢にもならないが、そちらの方面には殆ど知識がない。
「呪具の一つだ。相手の髪や爪を
「土器などではない、
「髑髏だと……そのような物を内裏に持ち込んだのか」種継は眉を顰める。
「姉女の亭主が河原で拾って来たと言うて、渡しているのを見たと証言している」
「丹比乙女とやらがか」
「その辺りは、内裏で見つかった証拠と一致する。現物は見ておらぬが、髑髏に長い髪の毛が、何本か巻き付けてあったそうだ」左中弁が、薄荷湯の椀を手にして呟く。
「髑髏ならば、兵部卿の屋敷を捜索した時にも見つかった」私も椀を手にして口を開く。
「その報告は俺も覚えている。御身は、それを見たのか」船守が問う。
「ああ。髪の毛は巻き付けてなかったが、あの
「その事件を覚えている者が、関連を追及したところ、姉女と呪女は以前より親交があったと、乙女は答えている」
「髑髏を使う呪いは、紀益女から教わったという訳なのか」種継が首を傾げながら言う。
河原で拾った、誰の物とも知れぬ骨が呪具になるのだろうか。私も考えながら首を捻る。
「何れにしても、髑髏を見て呪詛だと証言したという事は、乙女とやらも紀益女を知っている訳だ。乙女は昔から、不破内親王に仕えていたのか」左中弁が聞く。
「いえ、内親王の元に上がる前は、後宮の
県犬養夫人とは聖武皇帝の夫人で、不破内親王や
「県犬養姉女も同じ氏の故か、元々は夫人に仕えていた。乙女と姉女は、かなり以前からの知り合いと考えられます」
「夫人が亡うなった後、女帝の元に配属になった訳か」私は聞く。
「いいや、一時は井上内親王に仕え、その後に女帝の元に上がったらしい。そして例に漏れず、八年の変の時に待遇を受けた。弟の内麻呂と共に、県犬養大宿禰を名乗るようになった」
「噂ではあの姉弟は、他者の手柄を横からさらうようなかたちで女帝に報告した。当然、周囲の恨みを買ったようだ」種継が至って冷静に言う。
「目をかけた者が呪詛の片棒を担いだとあっては、女帝の怒りも尋常ではあるまいな。本来ならば極刑も免れぬが、さて、あの坊主がどのような口出しをするものか」左中弁は何故か笑う。
道鏡法王が横車を押せば、実行犯とされる女たちも内親王に同様、遠流で済むのかもしれない。しかし、あの益女らの末路を考えれば、都より遠ざけられた後の事は分からない。敵を消す行為など、皇家や権門は言葉一つでやってのける。
不破内親王らを都に戻した大赦の時にも『思う所あるに縁りて』という言葉で詔は出された。そしてこの度の勅命にも、同じ言葉が掲げられる。内親王は八虐に値するが、その罪を減じて新たな名前を与え、都の外に追放する。
雨が上がり外は炎天下になったので、近衛舎人らは空いている室内で武具の手入れをする。
「
「人を食った名前だ、
私のいる曹司の隣室でも、十人程度の者が手を動かしながら、噂話にも花を咲かせている。罪人とはいえ皇族を誹謗する内容は、あまり関心出来るものではない。この様子では、監視役の上官は不在なのだろう。
「いかんな、右脇の糸が切れ始めている」
「ああ、俺のもだ。早めに修理を頼んだ方が良かろう。自分で修理すると、後が面倒な事になりそうだから」
雨季は終わっているが、蒸し暑いこの頃、少し油断をすると皮や木の鎧や冑は、すぐに悪臭を放ちカビも生えて来る。
「
不破内親王は厨真人、息子は氷上真人をそれぞれ賜姓され、厨女に志計志麻呂という奇妙な名前に改められて配流となった。
「しかし、本来は皇族でも、八虐を犯せば死罪だろう」
「この度も、清く有り難い御教えに従うて罪を減じる、そういう事だ。ともあれ、この話は切り上げろ。番長が戻って来て聞かれでもしたら、後々が厄介になるぞ」
一同から乾いた笑いが漏れる。隣の曹司に将監がいるなど、考えもしていないようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます