第17話 神護景雲二年-三年 有頂天の顛末と内親王の事
大方の者が忘れた頃、
先の
今日も今日とて、右京四条の種継の屋敷にいる。少し前まで、奥で子供の泣きわめく声が聞こえた。二年前の謀反騒ぎの後も、正室とは別れずに同居しているようだ。
「ようように、坊主らの化けの皮が剝がれ始めた」楽しそうな種継は、手酌で何杯目かをあおる。この酒豪には、勝手に飲ませておくに限る。
「あまり大声で言うな」船守は嗜めつつも、注げと言わんばかりに
「
「実のところ、件の坊主は、
「弟子だと言うのだから、その可能性は大きかろう」こちらにも
件の坊主と呼ばれているのは、勿論、道鏡法王だ。そして弟子の基真禅師は、二年前に仏舎利出現を予感した功績により法参議の地位を得た。元々、
「だが、基真の行為で、坊主らが利を得たとは思えぬな」私は坏を上げながら言う。
「弊害を被ったのではないのか、むしろ」船守が笑う。
法参議に就任後の基真禅師の評判は、すこぶる悪い。例えばある時、ある五位の官人に、往来で道を譲らなかったと言いがかりをつける。更には、それに対する謝罪がないと、いずれの
「まるで坊主の皮を被る
「兄が家を継ぎ、自らは小作としてこき使われるのに納得が行かなんだ。では、役人になるか、僧侶になるか。いずれも田舎者には楽な道ではなかろう」何故か種継が真面目な面持ちで言う。
「幸いにして、出来は悪うなかったようだが」田舎者ではない船守には、他人事のようだ。
「なまじ、頭が切れる分、悪事も覚えたのか」田舎者の私には、少しばかり笑えない。
被害を恐れて、誰もが基真禅師を避ける。姿を見ければ、野獣でも避けるように道を変える。最初は追従していた者も、災いを恐れて関わりを断つ。弟子らも逃げ出す始末となり、
「最大の悪事は、隅寺の宝珠やら仏舎利の件だな。まったく、騙し通せると思うていたのか」つい、溜息が出る。
「いたのであろう、本人だけは」酒が入ると、船守は辛辣になる。
「御方を有頂天にさせたのが、かえって仇になったな」種継は素面同然の顔つきで、軽蔑するように鼻先で笑う。
「まあ、狙いは間違うてはおらなんだ。母親の
結局のところ、悪事を吐露したのは弟子の一人だった。隅寺の毘沙門天の宝塔に珠を入れたのは、自らだと名乗り出た。師に命じられて行い、見返りに位階を得た。今は軽はずみな行いを悔いている、このままでは仏罰が下るのではないかと恐れている。すべてを正直に告白し、賜った位階は返上したい。
これに反論や弁明をしたのは、果たして基真禅師一人だけだった。女帝や道鏡法王が欺かれたと嘆く様子を見て、同族の者も口を閉ざした。こうして、禅師は法参議の位を剥奪され、飛騨国の寺へと追いやられた。同族が賜った、
「だが、奇跡の奇瑞のとたきつけるのは、件の坊主も同じだ。また似たような騒ぎが、起きるやもしれぬぞ」尚も刺のある口調で船守が言う。
「あの坊主、東大寺にいた頃は、秀才で通っていたと聞くが、今の様を見ていると疑問だ」私はつい笑う。
「気は利くのではないのか。
種継が大殿と呼ぶのは、
「いつ頃の話だ」
「
「なるほどな。大納言宮様にしてみれば、このような騒ぎは序の口と思うておられるのやも。更に大事が起きても不思議ではないと」
「ああ。この後、皇嗣問題は嫌でも出て来る。その渦中に巻き込まれる家として、大殿も若翁も身構えておられるのは確かだ」
「そうなると、御身にも俺にも他人事では済まぬ」今度は神妙な顔つきで船守が呟く。縁戚関係のある紀氏としても、正念場というところか。
「人を喰らう龍だな、まさに」久々に思い出した言葉が口をつく。
「皇家の争いがか」種継が目を上げて笑う。
「言い得て妙だな。もしも龍に睨まれたならば、河内の田舎坊主など、一たまりもあるまい。龍より先に、恐ろしい眷属どもが喰らいついて来ようから」船守も笑う。
「御身らの事か、眷属とは」
「さてな、眷属にも様々おるであろうが」妙に上機嫌そうな種継は、船守に目配せをする。
反応に戸惑う船守は、小鼻の脇にしわを寄せて更に笑う。
明けて三年、元旦は雨に始まる。
二月には伊勢大神宮に
最近の傾向として、我々くらいの中間管理職の数は増加している。しかし、その上の重要な職務は極端な兼任が多い。この偏りによる弊害も、少しずつ見え始めているのは確かだ。
三月二十八日、唐突に大赦の
「あの
「その皇子の処遇にかかわるのか、今回の処置は」
「だが、父親は謀反人のままだろう」
「将監、的は如何致します」隣で弓に
「ああ、八寸に替えてくれ」休憩をしていた私は、立ち上がりながら答える。
舎人らが話題にするのは、先の大赦で帰京を許された
塩焼王は何度か皇嗣候補に名が挙がった。しかし、聖武皇帝も阿倍女帝も不適切と退け、ついには八年の変で、謀反人として命を落とした。
「やはり、立太子の可能性はないのか」
「当分、
的方が先程よりも一回り小さい的を置く。私は控える舎人らから
「井上内親王にも皇子はおられる。大納言宮が父親なのだから、本命はこちらではないのか」
「しかし、そちらの皇子はまだ、十にもなっていないのだろう」
「だから、当分の間、
既に舎人らにも、
弓弦から放たれた矢は緩い弧を描いて、地面近くに置かれた的へと落ちて行く。真ん中とは言い難い位置に何とか命中したのを確かめ、次の矢をつがえる。どうも、低い的を射るのは苦手だ。
「将監は如何思われます、帰還される方々の事は」
弓を置いて下がると、番長が話を振って来る。不破内親王や皇子の事で、私が何か知っているのか探りたいのだろう。
「そうだな、もしかしたら皇子に、氏姓を賜るつもりではないのか。父親がかつて賜った
「確かにありそうな事ですね。内親王共々、皇籍からも外され、身分も曖昧なままですからね」
女帝は塩焼王を皇嗣から遠ざけるだけではなく、氏姓を賜り臣籍降下させた。それでも臣下としては優遇し、中納言にまで任命した。それを再び担ぎ上げたのは、あの
「まあ、俺が勝手に思うているだけだ。ここだけの話として、外へは吹聴しないでくれ」
「分かっています」番長が言えば、舎人らも後ろでうなずく。
「藤原将監や紀将監にも、意見を聞いてみたいですね」舎人の一人が言う。
「似たり寄ったりの事を言うのではないか。あの二人も、他戸王に期待をかけているのだから」
実のところ舎人らにとって、皇嗣問題などは気軽にできる話ではない。相手が都出身の種継や船守では尚更だろう。やはり地方出身の私には、上官とはいえ気が易いのかもしれない。
そしてこの若者らは、天平宝字元年の事変は勿論、八年の変の時にも任官はしていない。これらの謀反の詳細は、大して知らないだろう。
身をもって知る世代には、若い者らのように噂話で済ませない事も多い。
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