第16話 天平神護三年 女帝を取り巻く噂の事
年が明けても
悔過や行幸はまだ序の口に過ぎない。右京の北端では、大寺の建立が始まっている。東大寺に対し西大寺と呼ばれ、それを凌ぐ規模の計画が進められる。この現場にも度々足を運び、工人らに位を与え、夥しい喜捨をする。ここまでの寺院優遇は、側近らの尊い勧めだろうと官人たちは陰でささやく。
女帝は尊い教えとやらに従っているが、世の情勢は芳しくない。尊い行いを無視するように、この何年かは天候に恵まれず不作が続く。春には種籾どころか食べる米とて無く、各地で
三月、定例の
日が少し傾き、近衛府も
「種継が言うていたのだが、
「だが従五位上、一階上がる普通の昇進だった。何故だ」私は椅子の背にもたれて腕を組む。
昨年の冬、私が五位になったのと同日の叙位で、山部王も昇進した。その後の臨時の
「宮様自身が辞退されたそうだ」船守も窓辺の椅子に座り、机上に頬杖をつく。
「それでは、御方の機嫌を損ねたのではないのか」
「特にそのような話も聞いてはおらぬが、無きにしも非ずか」
「しかし、宮様に四位を賜る理由はあるのか、気に入りという以外に」
「そうだな、先日、
弓場には、幸いにして人影はない。窓辺の日なたで話をしていれば、誰かが遣って来てもすぐに分かる。
「開成王というと、異母兄だったな」私は心持ち声を潜める。
「ああ。御方は当分の間、
「
山部王にとっては異母弟、女帝から見ても甥になる。
「まあ、そういう事だ。御方としては、他戸王が成人するのを待って立太子させ、時を置かずに譲位したい。そして
「粟生江女王とは」
「山部王の御息女だ。直々に命じたらしい、息女を皇后に相応しいように育てよと」
女帝の要求は至極当たり前の事だ。本来、皇后を出せる家筋は皇族だけだ。聖武皇帝の時には、大昔の事例を強引に出して、藤原太政大臣の息女の光明子を立后させた。これに時の左大臣が異を唱え、失脚の末に自死に追い込まれたという、良からぬ事件まで起きた。
「二人とも六つか七つだったか、十年は待たねばならぬ話だな。その間に何があるやら、分かったものではなかろうに」私は小さく溜息をつく。
「それゆえに、山部王や近親者には心得ていて欲しいという事だ。種継も知っておるゆえ、叔父御らも先刻承知という事だろう」
「皇后の父親、つまりは外戚か。相応に権力を握るやも知れぬ。だが藤氏にしても、他の権門にのさばられるよりは、マシと考えておるやも」
「そうも生易しい相手ではあるまい、あの父親や祖父は。楽観視はしておらぬと思うぞ、俺は」船守は少しばかり楽しそうに笑う。
「そうやも知れぬな。十年後に立后が現実になったとして、祖父の白壁王は七十近いか。太政大臣にでも祭り上げられるだろう。父親は四十を過ぎた程度、参議を通り越して中納言くらいになっても不思議はない」
「当然ながら、厄介なのは父親の方だ。今でも、同世代の皇族官人の内では抜きん出ている。藤氏としても懐柔したいと思うておる」今度は憤慨気味に息を吐く。
「では、娘を内室に送り込むか。御身の懸念は、藤氏の横槍という訳だな」
外戚のそのまた外戚に納まり、権力に相乗りする。それどころか乗っ取る事も辞さないだろう。
「藤氏や権門だけではない。ここ最近、成り上がって来た輩の、形振り構わぬ醜態も懸念しておるわ」
「醜態か。確かに目下のところは、そちらの方が鬱陶しかろうな」
「皇家との共存も分かっておらぬ田舎者だ。何をするやも知れたものではない」
付き合いが長くなって気付いたのだが、船守という男は時々、中央氏族としての矜持を露わにして
形振り構わぬ田舎者どもは、益々、中央で成り上がり、世間もどこか落ち着かない。
七月に
そして八月八日、
このように慶事が続いても、不平をこぼす者は多々いる。船守と種継は本日、我が家へとやって来て、酒に任せて何やら気怠い愚痴を並べる。
「まあ確かに、
ちなみに不破麻呂というのは、山部王の後任として近衛少将になった者で、先の
「若翁は戻らぬが、
「それは大いに阻止して欲しい。御身、
「あれを嫌うているのは、若翁だけではなかろう。俺が聞くところでは、近衛府にいた頃よりも態度が横柄になっている。父親の権威を笠に着て、言いたい放題、したい放題だ。まったく、評判の悪い者はどこに行っても目立つ」種継は首を振る。
「ああ、俺も聞いた。何でも宮様が侍従の仕事に忙しく不在がちなのを良い事に、博士らの職務にも口を出して、好き勝手な振舞いだとか」私はうなずく。
助に員外の定員が出来たのも、頭が寮での仕事に専念できず、助への負担が多くなっているためだ。ところが、この誤った人選が、更に仕事を滞らせている。
「さすがに度が過ぎたか、ようように若翁も状況を知った。若翁にしてみれば、泉は近衛府でも大学寮でも部下だ。
今では泉の権限の大方は取り上げられて、他の役付きの者に振り分けられている。右大臣の息子の横槍に、遠慮して委縮気味だった博士らも、ようやく自由に物を言えるようなった。それでも問題を起こすようならと、すぐに報告に走れと、伝令役を何人か任命した。こうして山部王は、常日頃より中務省と大学寮を往復している。
「しかし、あの方が頭になってから、大学寮への注目度が随分と上がったようだな」私は言う。
「殊に
「その割には、泉の事は放置している。宮様の仕事は減るどころか増えている」
「まあ、
「泉にしても御前では、大人しゅう振舞う位の分別はあるのやも知れぬな」私もつられて笑う。
「何れにしても泉は添え物だ。御方の御目に入るのは、大学宮様なのだからな」
船守は
「御身ら、春の大学寮行幸の様子を聞いておろう」酒が進まない私は、坏を折敷に伏せる。
三人の真ん中に置いた燈台の火に、小さな蛾が寄って来る。風のない晩、蛾の羽ばたきにも燈火は揺れて、二人の表情が動いたように見える。
「御方と宮様が親子のように見えた云々の噂か」船守は箸を置いて問い返す。
寮での様子を知る者が言う。右大臣が
「博士や助教も言うていたな。おまけに御方が、大学宮に気を使うているようにも見えたの何の」種継はうなずく。最近では、種継も女帝の事を御方と呼ぶようになった。
「半端な皇族が天皇に
「年寄りらの昔話に聞いた事がある。御方は皇太子になるよりも、一人の
「要するに、妻や母親になりたかったのか。確かに、大学宮や俺達ならば息子の年だな」船守は首を傾げつつ言う。
「そういえば以前に
「ああ。後宮の古女らから聞いたのだろうな。かつての許嫁とは白壁王、若翁の父親だ」
「つまりは、聖武皇帝は白壁王に何かを期待し、阿倍女帝は山部王に何かを課そうと思う。そんなところか」私は二人を見回す。
「思うに、女帝としては、自らを
氷高太上天皇(元正天皇)は聖武皇帝の伯母で、女帝には大伯母となる。聖武皇帝は
「要するに、甥はおられぬ故、かつての許嫁の子息に目をかけているという事なのか」船守は相変わらず疑問の体で言いながら、折敷を脇に寄せて脚を伸ばす。
「御方の意識の上では、若翁が最も皇太子に近いのだろう。だが、生まれや立場がそれを許してくれぬ。それが不満なのやと思う」
二人の女帝に共通のするのは、未婚のままで即位した事だ。かつての女帝らと違い、位を譲るべき実子がいない。氷高女帝は甥の首親王を我が子と呼び譲位した。阿倍女帝も一時は、大炊親王を息子と思おうとしたが、結果は惨劇に終わった。
「それ故に十年先を見据えて、六つか七つの
私も腰と背中が痛くなり始めたので、座り直して背筋を伸ばす。
「その十年の保証が、どれほどあろう。御方は実のところ、かなり迷うておられるのではないか」種継が声を落とす。
「他戸王を
「あの
「まあ確かに、一時とはいえ、御方も呪女を信頼して位も与え重用していた。言葉に影響はある、否定もしきれぬやも知れぬ」私はうなずく。
「我が子と呼びたいのは、山部王様か、やはり」溜息混じりの船守の言葉は、口の中に消える。
下弦を過ぎた月は、いつまで待っても昇らない。燈火に寄り来る虫を眺めつつ、呪女こと
『
何とはなしに分かる、人を喰らう龍とは、皇嗣を争う
酒は進まずとも、酔いはそれなりに回っているようだ。
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