第16話 天平神護三年 女帝を取り巻く噂の事

 年が明けても女帝みかどの御仏への帰依は続く。正月にも各国の国分寺で吉祥天悔過けかを行わせ、自らは昨年来の寺社への行幸を繰り返す。その都度、多大な喜捨を行い、同行する大臣らや側近の僧尼もそれにならう。私の姉の法均ほうきん尼も例に漏れない。

 悔過や行幸はまだ序の口に過ぎない。右京の北端では、大寺の建立が始まっている。東大寺に対し西大寺と呼ばれ、それを凌ぐ規模の計画が進められる。この現場にも度々足を運び、工人らに位を与え、夥しい喜捨をする。ここまでの寺院優遇は、側近らの尊い勧めだろうと官人たちは陰でささやく。

 女帝は尊い教えとやらに従っているが、世の情勢は芳しくない。尊い行いを無視するように、この何年かは天候に恵まれず不作が続く。春には種籾どころか食べる米とて無く、各地で賑給しんごうに蔵が開かれる。周辺諸国の窮状を知ってか知らぬでか、都の内では浮かれたように、寺社への施しに邁進する。

 三月、定例の司召つかさめし(人事異動)に続き、法王宮職ほうおうぐうしきの設立が発表になる。道鏡法王のために置かれた令外りょうげの司(法律で定められた以外の役所)だが、官人らの向ける目は当然ながら白い。新たな役職が増えれば、またも人事や予算の遣り繰りが必要となり、仕事も増える。


 日が少し傾き、近衛府も宿直とのいを残し、殆どの者は帰宅している。私は紀船守きのふなもりと共に、中庭の弓場を臨む曹司ぞうし(執務室)に残っている。つい先ほどまで、人事異動や昇級に関わる雑多な仕事に追われていた。船守は将監しょうかん、私は将曹しょうそうの役職付きなので宿直には着かないが、夕刻近くまでの残業は日常茶飯事だ。

「種継が言うていたのだが、御方おんかた少将宮しょうしょうのみや四位しいを賜るつもりだったらしい」船守は最近、女帝みかどの事を御方と遠回しに呼ぶ。

「だが従五位上、一階上がる普通の昇進だった。何故だ」私は椅子の背にもたれて腕を組む。

 昨年の冬、私が五位になったのと同日の叙位で、山部王も昇進した。その後の臨時の司召つかさめしで、近衛少将から大学頭だいがくのかみにという異例の転身をしたが、それ以上の昇進はなかった。

「宮様自身が辞退されたそうだ」船守も窓辺の椅子に座り、机上に頬杖をつく。

「それでは、御方の機嫌を損ねたのではないのか」

「特にそのような話も聞いてはおらぬが、無きにしも非ずか」

「しかし、宮様に四位を賜る理由はあるのか、気に入りという以外に」

「そうだな、先日、唐律招提とうりつしょうだい開成王かいじょうのみこから聞いた事が関係するのやも知れぬ」そう言って船守は、窓の外に目をやる。

 弓場には、幸いにして人影はない。窓辺の日なたで話をしていれば、誰かが遣って来てもすぐに分かる。

「開成王というと、異母兄だったな」私は心持ち声を潜める。

「ああ。御方は当分の間、皇太子ひつぎのみこは定めぬと言われたが、心内では既に決めている。その事は御身おみも知っているだろう」

他戸王おさべのみこだな。やはり、その関係で親兄弟を優遇したい訳か」

 山部王にとっては異母弟、女帝から見ても甥になる。

「まあ、そういう事だ。御方としては、他戸王が成人するのを待って立太子させ、時を置かずに譲位したい。そして皇后おおきさきには粟生江女王あおえのひめみこを定めるつもりだ。そのように開成王は言われていた」

「粟生江女王とは」

「山部王の御息女だ。直々に命じたらしい、息女を皇后に相応しいように育てよと」

 女帝の要求は至極当たり前の事だ。本来、皇后を出せる家筋は皇族だけだ。聖武皇帝の時には、大昔の事例を強引に出して、藤原太政大臣の息女の光明子を立后させた。これに時の左大臣が異を唱え、失脚の末に自死に追い込まれたという、良からぬ事件まで起きた。

「二人とも六つか七つだったか、十年は待たねばならぬ話だな。その間に何があるやら、分かったものではなかろうに」私は小さく溜息をつく。

「それゆえに、山部王や近親者には心得ていて欲しいという事だ。種継も知っておるゆえ、叔父御らも先刻承知という事だろう」

「皇后の父親、つまりは外戚か。相応に権力を握るやも知れぬ。だが藤氏にしても、他の権門にのさばられるよりは、マシと考えておるやも」

「そうも生易しい相手ではあるまい、あの父親や祖父は。楽観視はしておらぬと思うぞ、俺は」船守は少しばかり楽しそうに笑う。

「そうやも知れぬな。十年後に立后が現実になったとして、祖父の白壁王は七十近いか。太政大臣にでも祭り上げられるだろう。父親は四十を過ぎた程度、参議を通り越して中納言くらいになっても不思議はない」

「当然ながら、厄介なのは父親の方だ。今でも、同世代の皇族官人の内では抜きん出ている。藤氏としても懐柔したいと思うておる」今度は憤慨気味に息を吐く。

「では、娘を内室に送り込むか。御身の懸念は、藤氏の横槍という訳だな」

 外戚のそのまた外戚に納まり、権力に相乗りする。それどころか乗っ取る事も辞さないだろう。

「藤氏や権門だけではない。ここ最近、成り上がって来た輩の、形振り構わぬ醜態も懸念しておるわ」

「醜態か。確かに目下のところは、そちらの方が鬱陶しかろうな」

「皇家との共存も分かっておらぬ田舎者だ。何をするやも知れたものではない」

 付き合いが長くなって気付いたのだが、船守という男は時々、中央氏族としての矜持を露わにしてはばからない。それは藤氏の面々にも多少なりと共通する。私としては備前国よりも都での生活が長いのだが、あくまでも地方出身者だ。ところが船守にしても種継にしても、この事を都合よく忘れて同調を求める。おかげでしばしば、返答に窮している。


 形振り構わぬ田舎者どもは、益々、中央で成り上がり、世間もどこか落ち着かない。

 七月に内竪省ないじゅしょうという新たなつかさが置かれる。衛府ではなく省として独立し、職務は内舎人うどねりや近衛と重複する部分がある。誰もが、法王のために置かれた司だと理解する。その証拠として、かみには弓削御浄ゆげのみきよ朝臣浄人が就任した。

 そして八月八日、参河国みかわのくにから『慶雲けいうん現る』の言上がある。これにより神護景雲じんごけいうんと改元が行われ、大赦が発令され、諸国の田租を半減せよとのみことのりまで出る。

 このように慶事が続いても、不平をこぼす者は多々いる。船守と種継は本日、我が家へとやって来て、酒に任せて何やら気怠い愚痴を並べる。

「まあ確かに、不破麻呂ふわまろ下総介しもうさのすけになったからと言うて、若翁わかぎみが近衛府に戻る道理もない訳だが」最近では、船守も山部王の事を若翁と呼んで憚らない。

 ちなみに不破麻呂というのは、山部王の後任として近衛少将になった者で、先の県召あがためしで関東へと下る事になった。

「若翁は戻らぬが、吉備泉きびのいずみは戻って来るやも知れぬと、もっぱらの噂だぞ。何せかみが追い出したがっておられる」種継が珍しく溜息をつく。

「それは大いに阻止して欲しい。御身、大学宮だいがくのみやを説得できぬか」私は思わず、身を乗り出す。

 大学頭だいがくのかみとなった山部王は大学宮と呼ばれている。そして右大臣の息子、吉備泉は近衛将監だが、この二月に大学寮の員外すけを兼任となった。我々としては厄介払いが出来たと喜んでいる。

「あれを嫌うているのは、若翁だけではなかろう。俺が聞くところでは、近衛府にいた頃よりも態度が横柄になっている。父親の権威を笠に着て、言いたい放題、したい放題だ。まったく、評判の悪い者はどこに行っても目立つ」種継は首を振る。

「ああ、俺も聞いた。何でも宮様が侍従の仕事に忙しく不在がちなのを良い事に、博士らの職務にも口を出して、好き勝手な振舞いだとか」私はうなずく。

 助に員外の定員が出来たのも、頭が寮での仕事に専念できず、助への負担が多くなっているためだ。ところが、この誤った人選が、更に仕事を滞らせている。

「さすがに度が過ぎたか、ようように若翁も状況を知った。若翁にしてみれば、泉は近衛府でも大学寮でも部下だ。曹司ぞうしの内で偉そうに大演説を打っている泉を見つけ、衆目の前で平然と罵倒したとか何とか」この類の噂は種継の好みらしく、妙に嬉しそうだ。

 今では泉の権限の大方は取り上げられて、他の役付きの者に振り分けられている。右大臣の息子の横槍に、遠慮して委縮気味だった博士らも、ようやく自由に物を言えるようなった。それでも問題を起こすようならと、すぐに報告に走れと、伝令役を何人か任命した。こうして山部王は、常日頃より中務省と大学寮を往復している。

「しかし、あの方が頭になってから、大学寮への注目度が随分と上がったようだな」私は言う。

「殊に女帝みかどが常より一目置くようになった事は大きいだろう」

「その割には、泉の事は放置している。宮様の仕事は減るどころか増えている」

「まあ、御方おんかたにしてみれば、皇太子ひつぎのみこの頃よりの恩師の嫡男だ。父親が優れた学者ならば、息子にもおのずと期待がかかる。しかし実態がどうなのか、耳に入れる者はおらぬ様子だが」船守が苦笑する。

「泉にしても御前では、大人しゅう振舞う位の分別はあるのやも知れぬな」私もつられて笑う。

「何れにしても泉は添え物だ。御方の御目に入るのは、大学宮様なのだからな」

 船守はつき折敷おしきに置くと、残っていたさかなを口に運ぶ。種継の膳はとうに空になり、脇には空の酒瓶しゅへいが幾つも並ぶ。それにも拘らず、相変わらずこの男は酒が顔に出ない。

「御身ら、春の大学寮行幸の様子を聞いておろう」酒が進まない私は、坏を折敷に伏せる。

 三人の真ん中に置いた燈台の火に、小さな蛾が寄って来る。風のない晩、蛾の羽ばたきにも燈火は揺れて、二人の表情が動いたように見える。

「御方と宮様が親子のように見えた云々の噂か」船守は箸を置いて問い返す。

 寮での様子を知る者が言う。右大臣が大唐もろこしより持ち帰った、釈奠せきてんの儀式に女帝も参列した。この儀式に右大臣と共に熱心だったのは、他でもない大学頭だった。女帝はその様子に喜び、頭宮かみのみやにたいそう親しく接しておられた。同じ皇族というよりも家族同然に見えた云々。

「博士や助教も言うていたな。おまけに御方が、大学宮に気を使うているようにも見えたの何の」種継はうなずく。最近では、種継も女帝の事を御方と呼ぶようになった。

「半端な皇族が天皇にへつらうのは常だが、これでは立場が逆だ。御方としては個人的に、宮様に思うところがあるのか」私も二人に倣い、御方と呼んでみる。

「年寄りらの昔話に聞いた事がある。御方は皇太子になるよりも、一人の内親王ひめみことして、誰ぞの伴侶になりたかった」種継は腕を組み、少しばかり顔を上げる。

「要するに、妻や母親になりたかったのか。確かに、大学宮や俺達ならば息子の年だな」船守は首を傾げつつ言う。

「そういえば以前にしつが言うていた。聖武皇帝に親王みこが生まれた時、長女の井上内親王いのえのひめみこは伊勢斎宮さいくうに選ばれ、次女の阿倍内親王あべのひめみこには許嫁が選ばれた。しかし、親王は赤子の内に亡うなり、阿倍内親王が皇太子となった」

「ああ。後宮の古女らから聞いたのだろうな。かつての許嫁とは白壁王、若翁の父親だ」

「つまりは、聖武皇帝は白壁王に何かを期待し、阿倍女帝は山部王に何かを課そうと思う。そんなところか」私は二人を見回す。

「思うに、女帝としては、自らを氷高ひたかの太上天皇おおきすめらみことなぞらえたいのやも知れぬ」やや断定的に種継が答える。

 氷高太上天皇(元正天皇)は聖武皇帝の伯母で、女帝には大伯母となる。聖武皇帝は首親王おびとのみこと呼ばれていた頃から、母親に等しい存在として敬っていた。そのため、女帝にも実質の祖母として慕われたと聞く。

「要するに、甥はおられぬ故、かつての許嫁の子息に目をかけているという事なのか」船守は相変わらず疑問の体で言いながら、折敷を脇に寄せて脚を伸ばす。

「御方の意識の上では、若翁が最も皇太子に近いのだろう。だが、生まれや立場がそれを許してくれぬ。それが不満なのやと思う」

 二人の女帝に共通のするのは、未婚のままで即位した事だ。かつての女帝らと違い、位を譲るべき実子がいない。氷高女帝は甥の首親王を我が子と呼び譲位した。阿倍女帝も一時は、大炊親王を息子と思おうとしたが、結果は惨劇に終わった。

「それ故に十年先を見据えて、六つか七つの他戸王おさべのみこを我が子と呼ぶおつもりか。まあ、実の甥ではあるのだが」

 私も腰と背中が痛くなり始めたので、座り直して背筋を伸ばす。

「その十年の保証が、どれほどあろう。御方は実のところ、かなり迷うておられるのではないか」種継が声を落とす。

「他戸王を日嗣ひつぎとする事にか」伸ばした脚を叩きながら船守が問う。

「あの呪女まじないめが、皇嗣に相応しいみこがいるなどと言うた。勿論、和気王わけのみこなどではない。それが御方の耳にも入ったのやも」種継の口から、忘れかけていた存在の名が出る。

「まあ確かに、一時とはいえ、御方も呪女を信頼して位も与え重用していた。言葉に影響はある、否定もしきれぬやも知れぬ」私はうなずく。

「我が子と呼びたいのは、山部王様か、やはり」溜息混じりの船守の言葉は、口の中に消える。

 下弦を過ぎた月は、いつまで待っても昇らない。燈火に寄り来る虫を眺めつつ、呪女こと紀益女きのますめの言葉を久々に思い出す。

いましはこの後、龍の争いに巻き込まれる。いずれも人を喰らう龍だ』

 何とはなしに分かる、人を喰らう龍とは、皇嗣を争う諸王みこだ。喰らわれるのは私だけではあるまい。この二人も巻き添えを食うだろう。

 酒は進まずとも、酔いはそれなりに回っているようだ。

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