第13話 天平神護元年の事 其の漆 腐れ縁の始まりと行幸
八月半ば、主犯の二人、
間もなく主犯が流刑地に発ったのに続き、
上道正道は四位なので、本来ならば飛騨守になるような階位ではない。この者も天平宝字元年の政変で、密告者として異例の昇進をした類だ。人柄的にも能力的にも、世辞にも良い評価は得ていない。関係者としては、この者に居て欲しくはない。これ幸いと都の外に追い出した。だが、事情通が気にするのは、粟田道麻呂との間に個人的な確執が存在する事だ。何らかの意図、むしろ圧力があっての人事ではあるまいか。噂はこのように囁かれる。
この後、他の者も護送同様に任地へと向かった。そして一連の赴任から何日も経たない頃、
伊豆国へ和気王を護送途中の事、滞在地の
都の外で起きた事なので、対処は
こちらも山背介からの知らせだが、先の早馬に比べれば、焦った様子は殆ど見られなかったらしい。山背からの使者が言う。
駅で食料や物資を補給し、馬も換えて出発した直後、複数の賊徒に襲撃された。殺傷された者はいないが、馬と荷を奪われた。荷の内には護送中の罪人も含まれるという、何やら呆れた報告だ。捜査はすぐさま行われ、間もなく賊は捉えられた。馬や荷も取り返したものの、罪人の女は殺された後だったと続く。
和気王の殺害が故意かは分からない。しかし益女に関しては、船守も私も、口を塞がれたのだと確信する。山背守、藤原南家の
既に冬の初めで夜も寒い。それなのに、悪い夢見に目を覚ました私は汗をかいている。月は西に傾き切り、夜明けまではかなり間があるようだ。東向きの寝室の内は、自分の手も見えない程に暗い。
「まったく、俺に何を言いに来るのだ、
益女が夢に現れたのは初めてではない。別に恐怖も何も感じないが、正直なところ、かなり鬱陶しい。これまでに同様、はっきりした内容は覚えていないし、他に誰が出て来たかも定かではない。ところが、最後に益女が言った、奇妙な言葉は覚えている。そして私は、思わず怒鳴りつけた。
同じ言葉を聞いたのは、生前の益女からだった。あれは近衛府で尋問が行われた時だ。兵部卿の屋敷で拘束した時の証人として、
証言を引き出すのは、驚くほど容易だった。こちらの質問以上に、あの女なりの主張があるようだ。
「
「どういう意味だ、それは」横柄な物言いに私は問い返す。
衛門少尉や舎人らは、私に奇異の目を向ける。女は無表情のまま体ごと顔を背け、舎人らに促されて部屋を出て行った。
「どういう意味とは、何の事なのだ」衛門少尉が小声で問う。
「御身は聞かなかったのか。龍がどうのこうのと、今しがた、あれが言うただろう」
「御身の方を見た時にか。私は何も聞いておらぬよ。大体、あの女、口も開いておらなんだと思うが」
「何だと……では、俺の空耳か」
空耳にしては異様な内容に思えたので、適当に話を切り上げる。衛門少尉は尚も怪訝な顔を向けて曖昧にうなずく。
この後、最初に益女が夢に現れたのは、和気王の遠流が決まった直後だった。そして次は、山背国で殺害されたと知った後だったか。いずれの夢にも、他に何人かの女が現れたが、それが誰で何をしていたかは覚えていない。ただ、最後に益女の告げた、龍の争い云々の言葉だけが記憶に残っている。
九月半ばを過ぎ、紀伊国への行幸が具体化する。その準備に忙殺され、夢の事などしばし忘れていた。それをよりによって、明日が出立という十月十二日の晩に、思い出したように現れる。怒鳴りつけたくなる気持ちも分かれと言いたくなる。
そして十三日、ようように明るくなる
騎馬隊の将軍は民部卿の藤原
騎馬隊に続く御前の列は、総責任者である
この日は、かなり早い内に旧都の飛鳥に到着した。女帝や大臣禅師、僧形の側近らは
翌日も女帝は飛鳥周辺を巡察し、小墾田宮に宿る。翌々日の十五日、紀伊街道を南に取る。曽祖父の眠る
紀伊国に入ったのは十六日の事、翌十七日は朝から天気が思わしくない。昼を待たずして降り出した雨に、追い立てられるように
この後は
このように女帝や側近は気楽なものだが、役付きの者や警備に当たる我々は、行く先々で勝手が分からずに右往左往する。騎馬隊の内では、私のような軍曹の立場が一番負担が大きい。夕餉の宴席などさっさと終えて、明日に備えて休ませて欲しい。同僚らと愚痴の一つも零し合う。
帰路に着いたのは二十五日、この日は
御前将軍の民部卿が列を停止させ、使者の報告を聞く。その後、御前次第司長官の中納言宮と共に御駕(天皇の輿)に向かう。
行宮を発った時には日が射していた。日が傾き始めた今は、にわかに西の空が暗くなり、黒い雲は見る間に上空に広がる。先程まで殆どなかった風も吹き出し、いつ降り出してもおかしくない空模様だ。騎馬兵も歩兵も空を見上げ、早く行宮に入りたいと囁き始める。
列を乱すなと兵士らに命じながら前方に顔を向けると、大きな青毛の馬に乗る黒い鎧姿が来るのが見える。あれは山部王の愛馬だ。馬首をそちらに向けた途端、前方の空を覆う雲が光る。
「やはり、都からの早馬ですか」私は騎馬のまま問いかける。
「ああ。右大臣からの書簡を持って来たらしい」並ぶように馬を近づけて来た山部王が答える。その背後に再び電が光る。
「何か不測事態でもあったのでしょうか」私の言葉に遠雷が重なる。
「
「では、淡路国で何かがあったと」
「
西空を覆う雲全体が光る。何度目かの雷鳴が轟くが早いか、大粒の雨が乾いた道に落ちて細かく埃が立つ。それを抑え込むように、更に多くの雨粒が降り注ぐ。
「降り出しましたな、厄介な」私は左手を上げて、顔にかかる雨を避けながら言う。
「民部卿が戻って来られた」少将宮は列の後方に顎をしゃくる。
民部卿は速足で馬を進めながら、列を進めろと大声で命じる。少将宮と私は慌てて本来の位置に戻り、兵士らに出立の合図をする。
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