第12話 天平神護元年の事 其の陸 腐れ縁の兆し

 首謀者らの尋問が始まる。私も右兵衛督うひょうえのかみと共に、尋問官の一人に任命された。監督官は若い頃から女帝派として知られる、藤原北家や南家の当主たちが当たる。

 官人の多くは、八年前に橘奈良麻呂たちばなのならまろが謀った皇位転覆を知っている。あの時も最初こそ穏やかな聞き取りが始まったが、尋問官が変わるに従い熾烈なものとなって行った。まさかこの度も、罪人に処分を下す前に死に至らしめるのではあるまいかと危惧した。ところが主犯の和気王わけのみこが、いともあっさりと罪を認めた。それに倣うように共謀者らも自白し、罪人らの罪状は短日で決した。

 みことのりが言う。罪人らに正しく清い心を持たせ、惑える心を救うのは女帝の師、大臣禅師の道鏡師である。その教えに従い罪人らの罪は問わぬが、官職は剥奪する。主犯である和気王と紀益女きのますめは、本来の死罪を減じて遠流に処する。

 この結果に安堵する者もいれば、甘すぎると陰に批判する者もいる。それでも八年前のように多大な連座者を出さなかった事に、大方の者は胸をなでおろす。尊い教えとやらも、まんざら捨てた者でもない。


 近衛府も一段落ついたようで、紀船守きのふなもりが珍しく我が家にやって来る。しつと息子も挨拶に出て夕餉を共にしたが、日が暮れきった頃には女部屋に退散した。それを機に使用人らも引き揚げさせ、酒を前に恒例の仕事の愚痴が始まる。

「自ら主を選ぶという事は可能なのか」私は酔いに任せて、ふと口に出す。

「何を言うておる、御身おみ」潜めた声で問い返す船守を見れば、細い目を更に細くして眉根にしわまで寄せて顔を近づける。

「俺の事ではない。先日まで紀命婦きのみょうぶと呼ばれていた、あの薄気味悪い女だ」笑いをこらえて私はつぶやく。

「ああ、そうか、御身はあの女の尋問に立ち会うていたな」怪訝そうな顔をしながらも納得したらしく、一人で何度かうなずく。

「まかりなりにも俺たちは宮仕えの身だ。天皇すめらみこと以外の主はおられぬと身に染みている。だが、あの女は元来が奴婢やっこ、主が替わる事に抵抗はなかろう。とは申せ、官位を得た後に天皇以外の主を選べば、叛意を問われても致し方ない」

 官奴かんぬではない奴婢らは、主の持ち物として扱われる。主に何かがあった後、別の主に買い取られたところで不思議もない。

「まあ、そうだが、あれの場合は主が替わったのではのうて、本人の立場が変わった。それをしっかり理解せずに、先よりの主に従った。要するに出世をしても、心根は以前のままだったのだろう」やけに苦々しい表情で言う。

「要するに、女帝みかどではのうて先より仕えていた兵部卿を選んだ。それが間違っていたゆえ、共に身を亡ぼす事になった」

「そう言うたのか、あの女が」

「ああ。ここだけの話だ。最初こそは兵部卿を見込んだゆえ、仕える事にしたと言うた」

 私とて四等官の端くれだ。職務上で知った事を漏洩はできない。同じ立場で信頼も置ける船守が相手だからこそ、話す事も出来る。

「仕えるも何も、あの兄妹は兵部卿の父親が身受けをしたのだろう。父親の目を盗んだ息子が手を付け、父親が亡うなった後に平然と側妻にした」今度は鼻先で笑う。どうもこの男は、益女ますめ益麻呂ますまろの話となると、酒が入らなくとも人が変わる。

「世間一般の認識はその通りだ。ところが益女は、自らの意思で兵部卿を主に選んだのだと言う」

「妄想というか、戯言たわごとというか」

「まあ、選んだというのは、あのめやっこの精一杯の歪んだ矜持きょうじであろうな」

「尋問中に、そのような事を言いだしたのか」

「勝手に話を始めた。こちらとしても何か情報はないかと、好きにしゃべらせておいたのだよ。あれの言うには、ある御方に会うて、本来選ぶべきはこちらだと悟ったそうだ。ある御方とは誰かと問うた。すると、兵部卿の陰謀を知って、自ら潜入捜査に乗り込んで来た御方だと、何とも意味深に言いおった」

「それは、近衛府での捜査の事か」船守の口調は相変わらず訝しげだ。

「そうだ。つまりは、少将宮しょうしょうのみや様だな」

「あれが選ぶというは、つまり……」

「兵部卿が女を利用したのか、女が兵部卿をそそのかしたのか。双方が主導権は自らにあったと主張する」私はあえて船守のつぶやきを無視して言う。

「さもありなん」船守は苦笑する。

「そそのかされたなどと、相手のせいにして、逃げに走らぬを天晴と誉めるべきか」我ながら嘲り気味の口調になる。

「兵部卿としては、皇族としての矜持があろう。側女で元奴婢の女にそそのかされたなどとは言えまいよ」

「兵部卿はうらの結果に従い、叔父の淡路公あわじのきみを女帝の一派に売った。次は女帝に成り代わるため、自らを売りつけて来た。これが呪女まじないめの主張だ」

 実のところ益女は、占を立てる事には人並み外れて優れていたと聞く。兵部卿が判断に迷った時には、女に様々な物を送って伺いを立てていた。兵部卿の主張は、女は術者に過ぎない。女にしてみれば、兵部卿が自らの言葉に従った。主張は水掛け論だ。

「あの女、少将宮に惚れたらしい。兵部卿の証言によれば、次の御調には少将宮を賜えと言い出した。兵部卿が少将宮を利用しようとしたのではない、呪女の所望だそうだ。既に少将宮に乗り換える気だったのだろう」あざけるに足る話だろうが、私はどうしても笑う気になれない。

「何と言うか、狂人の戯言たわごとだな。女帝の信頼を裏切り、兵部卿の擁立に加わった時点で、あの女の命運は尽きたであろうに。女帝の、いや、皇家の恐ろしさを分かっておらぬとは目出度い。所詮は奴婢上がりだ」

「御身ら紀氏きうじには、存在すらが言語道断か」

「当たり前だ。昨日まで奴婢として扱っていた者らが、突然に同じ一族になる。それどころか上位者になった。想像できるか。おまけに異論を奏上した氏長うじのかみは、官位剥奪の憂き目にあった。一族を侮辱されたと取らぬ者があろうか」

おうやっこと成すとも、奴を王というとも、いましむまにまに……そういう事か」私が呟けば、船守は更に不快な顔をする。

 これは阿倍女帝が父親の聖武皇帝から告げられた言葉だという。大炊天皇おおいのすめらみことより皇位を簒奪した時に、勅命として臣下らに示した。

 意外な者を皇嗣に決めるのも、不相応な者を廃するのも、天に定められて皇位に就いた者が、御心のままに定めれば良い。

「坊主の尊い教えとやらによって、兵部卿は死罪を免れて遠流になる。都に戻る事は一生敵わず、配所にて奴の如く滅びろという事か」独り言のように船守が言う。

「王を奴と成したか、ここでも」

「奴を王と言うて、あの女を皇家の一因に認める様な狂気の沙汰は、さすがにされなんだな。それで、呪女の戯言だが、女帝には報告したのか、仕える相手を間違えたの何のという」

「いいや。関係者の間には緘口令が敷かれている。御身にとは申せ、話した事が知れれば俺も処罰の対象だ。だが、北家中納言にせよ、南家民部卿にせよ、女帝の懐刀に例えられる御仁だ。正式報告とは別の形で、耳に入れる可能性もあろうな」

「少将宮は知っておられるのだろうか」

「そちらも分からぬ。しかし、女帝が次の日嗣ひつぎに考えているのは中納言宮ちゅうなごんのみや様の末子、少将宮の異母弟おとうとだ。そちらは承知しておられよう」

 中納言宮白壁王しらかべのみこの末子は他戸王おさべのみこ、その母親は井上内親王いのえのひめみこだ。聖武皇帝の孫として、皇籍に認められる唯一の男子だが、問題となるのは五歳という年齢だ。

「即位どころか、立太子も五年先か十年先か。だが、そうなれば、父親や兄君らも親王扱いだ。あの家はこの先の皇嗣に大きく関与して来る訳だな」船守は自らの正念場だとでも言いたげに大きくうなずく。

「他戸王を心積もりとしているのに、まことの皇嗣は兄の山部王だなどと呪女が言い出す。呪女の言葉を知ったところで、真剣に取り上げるとは思えぬ。だが、意識の上では特別な存在となって行くだろうな、少将宮は。俺はあの方の事は殆ど知らぬが、御身から見て、呪女の言葉は戯言に過ぎぬのか、それとも可能性を秘めたものなのか」

 船守は目を何度か瞬いて、またもうなずく。

「同じ近衛府での贔屓目やもしれぬが、俺には後者に思える。この逼迫した事態を踏まえて見回したところで、相応に思える御方が皇家の内にどれ程おられるか」

「そうなれば、女帝も少将宮には期待をかけておられるやも知れぬな、他戸王を支える存在としても」

「何れのみこも掌中の珠だ。そこに呪女ごときがつまらぬ手を出すなど許さぬ。ましてや、選ぶべきは兵部卿などではない、この御方なのだ、などと吹聴されては更に困る」不快を露わにしながらも、船守は口元を歪めて笑う。

「では、女の口を封じる必要がある……主犯らは遠流になる、その先で命を受けた者が待っている」

「謀反に加担した時点で、氏姓も地位も剥奪された。今は元の奴婢に過ぎぬ。奴婢の一人死んだところで、誰が騒ごうか」

 この時の私は、自らの言葉に嫌になる程の確信があった。それが胸中でわだかまりとなり、後々まで私自身に付きまとう事となる。

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