第12話 天平神護元年の事 其の陸 腐れ縁の兆し
首謀者らの尋問が始まる。私も
官人の多くは、八年前に
この結果に安堵する者もいれば、甘すぎると陰に批判する者もいる。それでも八年前のように多大な連座者を出さなかった事に、大方の者は胸をなでおろす。尊い教えとやらも、まんざら捨てた者でもない。
近衛府も一段落ついたようで、
「自ら主を選ぶという事は可能なのか」私は酔いに任せて、ふと口に出す。
「何を言うておる、
「俺の事ではない。先日まで
「ああ、そうか、御身はあの女の尋問に立ち会うていたな」怪訝そうな顔をしながらも納得したらしく、一人で何度かうなずく。
「まかりなりにも俺たちは宮仕えの身だ。
「まあ、そうだが、あれの場合は主が替わったのではのうて、本人の立場が変わった。それをしっかり理解せずに、先よりの主に従った。要するに出世をしても、心根は以前のままだったのだろう」やけに苦々しい表情で言う。
「要するに、
「そう言うたのか、あの女が」
「ああ。ここだけの話だ。最初こそは兵部卿を見込んだゆえ、仕える事にしたと言うた」
私とて四等官の端くれだ。職務上で知った事を漏洩はできない。同じ立場で信頼も置ける船守が相手だからこそ、話す事も出来る。
「仕えるも何も、あの兄妹は兵部卿の父親が身受けをしたのだろう。父親の目を盗んだ息子が手を付け、父親が亡うなった後に平然と側妻にした」今度は鼻先で笑う。どうもこの男は、
「世間一般の認識はその通りだ。ところが益女は、自らの意思で兵部卿を主に選んだのだと言う」
「妄想というか、
「まあ、選んだというのは、あの
「尋問中に、そのような事を言いだしたのか」
「勝手に話を始めた。こちらとしても何か情報はないかと、好きにしゃべらせておいたのだよ。あれの言うには、ある御方に会うて、本来選ぶべきはこちらだと悟ったそうだ。ある御方とは誰かと問うた。すると、兵部卿の陰謀を知って、自ら潜入捜査に乗り込んで来た御方だと、何とも意味深に言いおった」
「それは、近衛府での捜査の事か」船守の口調は相変わらず訝しげだ。
「そうだ。つまりは、
「あれが選ぶというは、つまり……」
「兵部卿が女を利用したのか、女が兵部卿をそそのかしたのか。双方が主導権は自らにあったと主張する」私はあえて船守のつぶやきを無視して言う。
「さもありなん」船守は苦笑する。
「そそのかされたなどと、相手のせいにして、逃げに走らぬを天晴と誉めるべきか」我ながら嘲り気味の口調になる。
「兵部卿としては、皇族としての矜持があろう。側女で元奴婢の女にそそのかされたなどとは言えまいよ」
「兵部卿は
実のところ益女は、占を立てる事には人並み外れて優れていたと聞く。兵部卿が判断に迷った時には、女に様々な物を送って伺いを立てていた。兵部卿の主張は、女は術者に過ぎない。女にしてみれば、兵部卿が自らの言葉に従った。主張は水掛け論だ。
「あの女、少将宮に惚れたらしい。兵部卿の証言によれば、次の御調には少将宮を賜えと言い出した。兵部卿が少将宮を利用しようとしたのではない、呪女の所望だそうだ。既に少将宮に乗り換える気だったのだろう」
「何と言うか、狂人の
「御身ら
「当たり前だ。昨日まで奴婢として扱っていた者らが、突然に同じ一族になる。それどころか上位者になった。想像できるか。おまけに異論を奏上した
「
これは阿倍女帝が父親の聖武皇帝から告げられた言葉だという。
意外な者を皇嗣に決めるのも、不相応な者を廃するのも、天に定められて皇位に就いた者が、御心のままに定めれば良い。
「坊主の尊い教えとやらによって、兵部卿は死罪を免れて遠流になる。都に戻る事は一生敵わず、配所にて奴の如く滅びろという事か」独り言のように船守が言う。
「王を奴と成したか、ここでも」
「奴を王と言うて、あの女を皇家の一因に認める様な狂気の沙汰は、さすがにされなんだな。それで、呪女の戯言だが、女帝には報告したのか、仕える相手を間違えたの何のという」
「いいや。関係者の間には緘口令が敷かれている。御身にとは申せ、話した事が知れれば俺も処罰の対象だ。だが、北家中納言にせよ、南家民部卿にせよ、女帝の懐刀に例えられる御仁だ。正式報告とは別の形で、耳に入れる可能性もあろうな」
「少将宮は知っておられるのだろうか」
「そちらも分からぬ。しかし、女帝が次の
中納言宮
「即位どころか、立太子も五年先か十年先か。だが、そうなれば、父親や兄君らも親王扱いだ。あの家はこの先の皇嗣に大きく関与して来る訳だな」船守は自らの正念場だとでも言いたげに大きくうなずく。
「他戸王を心積もりとしているのに、まことの皇嗣は兄の山部王だなどと呪女が言い出す。呪女の言葉を知ったところで、真剣に取り上げるとは思えぬ。だが、意識の上では特別な存在となって行くだろうな、少将宮は。俺はあの方の事は殆ど知らぬが、御身から見て、呪女の言葉は戯言に過ぎぬのか、それとも可能性を秘めたものなのか」
船守は目を何度か瞬いて、またもうなずく。
「同じ近衛府での贔屓目やもしれぬが、俺には後者に思える。この逼迫した事態を踏まえて見回したところで、相応に思える御方が皇家の内にどれ程おられるか」
「そうなれば、女帝も少将宮には期待をかけておられるやも知れぬな、他戸王を支える存在としても」
「何れの
「では、女の口を封じる必要がある……主犯らは遠流になる、その先で命を受けた者が待っている」
「謀反に加担した時点で、氏姓も地位も剥奪された。今は元の奴婢に過ぎぬ。奴婢の一人死んだところで、誰が騒ごうか」
この時の私は、自らの言葉に嫌になる程の確信があった。それが胸中でわだかまりとなり、後々まで私自身に付きまとう事となる。
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