第10話 天平神護元年の事 其の肆 疑われる人々
当然の流れだが、まだこれは過去の話だ。
淡路公と兵部卿は叔父と甥とはいえ、険悪な仲だったという。しかし、現在の皇家の、先の見えない状況は如何すべきか。個人的な感情を追いやっても、何か手を打たねばならない。兵部卿にそのような使命感が湧き、淡路公と手を携えようとするのか。それも、あまりに節操がない。淡路公にしてみても、兵部卿を許すのか疑問だ。
久々に
「
「
「あれはできる男だ、陰陽師としては。寺では教育のみならず、礼儀もしっかりと仕込まれたらしい。周囲からの評判は頗る良い」
「五位の
四月に益麻呂は従五位下にまで昇進した。これで陰陽寮内では
「あの兄妹が、淡路公の何かを占うているのか」空の坏を手にしたまま、私は呟く。
「星回りや気の廻りで、公の動向や動く切っ掛けでも予測をするのか」船守は鼻先で笑う。
「俺には
「今は女帝の手駒の振りをして、という事か」
妙に勿体つけた言い様が癪に障る。
「近衛府でも噂になっておるのではないのか。あの
「ああ、舎人たちの間でまかり通る噂だ。だが、少将の言うには、中将の訪問に政治的背景はなさそうだ」
「少将とは
「
「何故、少将宮が、そのような下世話な事を知っておられるのだ」
「あの方とて、後宮の命婦に何人も身内がおられる。その方々から聞いているのであろうよ。淡路公が絡む可能性もある故、少将宮に限らず、女帝もかなり過敏になっておられる」
何やら要領を得ない言い草だが、憶測の領域では否定する気も起きない。
「まあ、中将の事はともかく、益女の評判は御身も知っているだろう。その辺の
「そして、面に出せぬ類の頼み事をしている云々。確かに、ないと言えば嘘になる」
「まさか、その中に粟田諸姉様もおられるのか」
「それは知らぬが、呪女と中将の関わりならば、少なからずはあるぞ」船守は突然、開き直ったように答える。
「つまり、呪女への依頼者の一人なのか」
「呪女というよりも、
「それは意外だな。どういう関係で懇意にしているのだ」
「中将がまだ
やはり紀船守という男は、人脈が広いだけあって情報も多い。室が女孺から聞いて来る噂よりも、衛府の四等官の情報だけあって、かなり具体的だ。
「粟田中将のここまでの昇進も、呪女に頼み事をした結果なのか」
「その事は与り知らぬな」またも鼻先で笑い飛ばす。
粟田道麻呂が朝臣を賜姓されたのは数年前か。船守の言うには、その頃は
「まあ、あの女は見目の良い
器量好みだというのなら、一番は女帝その人だろう。その共通点で呪女とも気が合ったのではないのか。思ったが、軽口を返すのは控えておく。
「呪女の元に高官がやって来る。兵部卿はその橋渡しを買って出る事で、高官らとよしみを通じ、あわよくば弱みも握る。有り得ぬ事ではあるまい」私は言い、持ったままだった空の坏を思い出し、折敷の上に伏せる。
「何か目的があっての事か、兵部卿がそこまでするのは」少しばかり口元を引き締め、船守は問い返す。
「やはり、先の詔勅で女帝が釘を刺した件が、関係するのではないのか」
「先ほども、そう言うたな、御身。俺としても否定はせぬが、肯定できる程の情報もない」船守は小さく溜息をつく。
近衛府は既に、粟田中将や兵部卿の動きを視野に入れている。私ごときが噂から推測できた事を、女帝直属とも言われる近衛府が気付かないはずもない。やはり、淡路公再擁立の噂は絵空事ではないのか。遠からず何らかの動きがある、そこはかとない予感に気が滅入って来る。
八月、事は例に漏れず、密告という形で人の知る所となる。皇家に対して呪詛をしようとする者がいる、これもお決まりの内容だ。
こうして夜半、各衛府に呼集がかかり、
「では、屋敷の内には既に近衛少将がおられると」
命令を伝える佐が口にした名前に、違和感と同時に納得も覚える。兵部卿の和気王、少将の山部王、共に三世王なので年齢や階級を越えても、接触はし易い。もしかしたら、裏に何かややこしい事情があるのか、誰かの思惑が働いているのか、分からないなりに老婆心だけは湧く。
「現地には既に
いずれにせよ、右兵衛は別の屋敷への出動も命じられている。兵部卿の屋敷に多人数は割けない。小隊の長を命じられた私は、経験豊かな
目的地に着けば、何やら要領を得ない状況で、衛門少尉が上官の命令を待っている。当然、こちらに具体的な指示など出ない。私は大志と諮って、兵衛らに踏み込めと命じる。
こうして、
この後、我々は紀命婦こと益女らを引き立てて右兵衛府に向かう。どうして後から来た者が得物を横取りするのかと、衛門府は不平をこぼす。衛門督の不在を幸い、近衛少将から右兵衛府での拘束を命じられたからだと開き直る。
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