第10話 天平神護元年の事 其の肆 疑われる人々

 当然の流れだが、まだこれは過去の話だ。

 女孺めのわらわらの噂と姉の話によれば、粟田諸姉あわたのもろねの元を近衛員外中将の粟田道麻呂あわたのみちまろと、紀益女きのますめの関係者が訪れている。双方の目的は不明だ。全く別の目的かも知れないし、同じ目的かも知れない。もしも後者ならば、中将と益女に共通する第三者がいるのか。それが兵部卿の和気王わけのみこだとしたら、目的は何なのか。やはり淡路公あわじのきみを巡る動きなのか。だが、それで粟田諸姉を訪ねるのも露骨に思える。そもそも、諸姉を巻き込む必要もない。

 淡路公と兵部卿は叔父と甥とはいえ、険悪な仲だったという。しかし、現在の皇家の、先の見えない状況は如何すべきか。個人的な感情を追いやっても、何か手を打たねばならない。兵部卿にそのような使命感が湧き、淡路公と手を携えようとするのか。それも、あまりに節操がない。淡路公にしてみても、兵部卿を許すのか疑問だ。


 久々に紀船守きのふなもりの屋敷を訪れ、宵の口まで話し込む。目の前には酒肴の用意もされているが、私としてはつきが進まない。

益女ますめが絡むとすれば、益麻呂ますまろも絡んで来るやも知れぬぞ」船守はいたって冷静な顔で言う。

陰陽寮おんようりょうも巻き込むのか、そうすると。その益麻呂は、陰陽師おんようしとしてどうなのだ。仕事になっているのか」

「あれはできる男だ、陰陽師としては。寺では教育のみならず、礼儀もしっかりと仕込まれたらしい。周囲からの評判は頗る良い」

「五位のこうぶりもでたらめではない訳か」

 四月に益麻呂は従五位下にまで昇進した。これで陰陽寮内では大津大浦おおつのおおうらと並んで、かみ(長官)よりも上の官位となった。一部の噂では、妹の益女が女帝みかどに進言をしたためだと言う。益女は女帝に口利きが出来る程の存在と、官人の間では認識されている。しかし、女帝の膝元で何をしているのか、具体的に答えられる者はいない。

「あの兄妹が、淡路公の何かを占うているのか」空の坏を手にしたまま、私は呟く。

「星回りや気の廻りで、公の動向や動く切っ掛けでも予測をするのか」船守は鼻先で笑う。

「俺には陰陽おんようやら呪言ずごんやらは、さっぱり分からぬ。だが一部の為政者は、その類に頼り、うらを立てさせ、政策のみならず、敵の追い落としにまで利用すると聞く。女帝が過敏になっている、淡路公の再擁立の噂に、あの者らが関わっている可能性はあるまいか」

「今は女帝の手駒の振りをして、という事か」

 妙に勿体つけた言い様が癪に障る。

「近衛府でも噂になっておるのではないのか。あの呪女まじないめのみならず、中将が粟田の本家に何度か通うている事が」

「ああ、舎人たちの間でまかり通る噂だ。だが、少将の言うには、中将の訪問に政治的背景はなさそうだ」

「少将とは弓削宿禰ゆげのすくねか、それとも山部王やまべのみこか」

少将宮しょうしょうのみやだ」

「何故、少将宮が、そのような下世話な事を知っておられるのだ」

「あの方とて、後宮の命婦に何人も身内がおられる。その方々から聞いているのであろうよ。淡路公が絡む可能性もある故、少将宮に限らず、女帝もかなり過敏になっておられる」

 何やら要領を得ない言い草だが、憶測の領域では否定する気も起きない。

「まあ、中将の事はともかく、益女の評判は御身も知っているだろう。その辺の舎人とねり命婦みょうぶのみならず、五位や四位の高官までが貢物をしているとやら」私はとりあえず、話を戻す。

「そして、面に出せぬ類の頼み事をしている云々。確かに、ないと言えば嘘になる」

「まさか、その中に粟田諸姉様もおられるのか」

「それは知らぬが、呪女と中将の関わりならば、少なからずはあるぞ」船守は突然、開き直ったように答える。

「つまり、呪女への依頼者の一人なのか」

「呪女というよりも、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやと以前からの懇意だ。その縁で占やらまじないやらを頼うだ事もあるそうだ」

「それは意外だな。どういう関係で懇意にしているのだ」

「中将がまだ粟田臣あわたのおみだった頃、中宮院の内薬司ないやくのつかさにいたそうだ。その時に中宮大夫だったのが御原王、兵部卿の父親だ。大夫に目をかけられ、同世代の息子とも親しゅうなった。二人の縁はその頃からだ。ついでに言えば、御原王が呪女や兄を手元に置いたのも、同じ頃だと思われる」

 やはり紀船守という男は、人脈が広いだけあって情報も多い。室が女孺から聞いて来る噂よりも、衛府の四等官の情報だけあって、かなり具体的だ。

「粟田中将のここまでの昇進も、呪女に頼み事をした結果なのか」

「その事は与り知らぬな」またも鼻先で笑い飛ばす。

 粟田道麻呂が朝臣を賜姓されたのは数年前か。船守の言うには、その頃は内薬佑ないやくのすけだった。それから幾らもしない内に、近衛府の前身の授刀衛府たちはきのえふが発足し、授刀舎人となった。道麻呂の転身はここから始まっているようだ。

「まあ、あの女は見目の良い壮士おのこが好きだと聞くぞ。兵部卿も若い頃は美男で通っていたからな。ましてや中将は、押しも押されもせぬ美男だ。頼み事をされたなら、力を尽くしてくれたのではないのか」この男らしからぬ軽口が出るのは、酒が回っているからか。

 器量好みだというのなら、一番は女帝その人だろう。その共通点で呪女とも気が合ったのではないのか。思ったが、軽口を返すのは控えておく。

「呪女の元に高官がやって来る。兵部卿はその橋渡しを買って出る事で、高官らとよしみを通じ、あわよくば弱みも握る。有り得ぬ事ではあるまい」私は言い、持ったままだった空の坏を思い出し、折敷の上に伏せる。

「何か目的があっての事か、兵部卿がそこまでするのは」少しばかり口元を引き締め、船守は問い返す。

「やはり、先の詔勅で女帝が釘を刺した件が、関係するのではないのか」

「先ほども、そう言うたな、御身。俺としても否定はせぬが、肯定できる程の情報もない」船守は小さく溜息をつく。

 近衛府は既に、粟田中将や兵部卿の動きを視野に入れている。私ごときが噂から推測できた事を、女帝直属とも言われる近衛府が気付かないはずもない。やはり、淡路公再擁立の噂は絵空事ではないのか。遠からず何らかの動きがある、そこはかとない予感に気が滅入って来る。


 八月、事は例に漏れず、密告という形で人の知る所となる。皇家に対して呪詛をしようとする者がいる、これもお決まりの内容だ。

 こうして夜半、各衛府に呼集がかかり、右兵衛うひょうえは右京二条の兵部卿の屋敷への派兵を命じられる。

「では、屋敷の内には既に近衛少将がおられると」

 命令を伝える佐が口にした名前に、違和感と同時に納得も覚える。兵部卿の和気王、少将の山部王、共に三世王なので年齢や階級を越えても、接触はし易い。もしかしたら、裏に何かややこしい事情があるのか、誰かの思惑が働いているのか、分からないなりに老婆心だけは湧く。

「現地には既に衛門府えもんふが向かっている。屋敷を包囲するだけの人数が出ているゆえ、こちらが大挙して押しかける必要はない。子細はあちらに着いてから指示されるので、それに従えば良いとの事だ」右兵衛佐うひょうえのすけは斜に構え、不満顔を隠さずに言う。衛門府の補佐に回るのが面白くないのだろう。

 いずれにせよ、右兵衛は別の屋敷への出動も命じられている。兵部卿の屋敷に多人数は割けない。小隊の長を命じられた私は、経験豊かな大志だいさかんを副官に右京二条に向かった。

 目的地に着けば、何やら要領を得ない状況で、衛門少尉が上官の命令を待っている。当然、こちらに具体的な指示など出ない。私は大志と諮って、兵衛らに踏み込めと命じる。

 こうして、紀命婦きのみょうぶの身柄を見事に押さえた山部王と、兵部卿をのうのうと逃した衛門督えもんのかみの働きを知る。

 この後、我々は紀命婦こと益女らを引き立てて右兵衛府に向かう。どうして後から来た者が得物を横取りするのかと、衛門府は不平をこぼす。衛門督の不在を幸い、近衛少将から右兵衛府での拘束を命じられたからだと開き直る。

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