第9話 天平神護元年の事 其の参 悪口を言われる人々

 仕方がないかな、未だに過去の話は続く。

 子供たちの乳母めのとを訪ねて、葛城かづらきから弟夫妻がやって来た。泊って行けば良いと誘ったが、さとでの仕事が山積しているからと、夕刻前に帰って行った。この姉弟は元は孤児で、私の姉と義兄の養子となった。身内ではあるが、血のつながりがないための遠慮だろうか。

 姉夫妻の養子はこの者達だけではない。既に故人の義兄、葛木宿禰戸主かづらきのすくねへぬし紫微中台しびちゅうだい(藤原皇太后の家政機関)の少忠しょうじょう(判官)だった。とにかく仕事のできる人で、上からも下からも頼りにされ、家に戻る暇もない程の多忙な日を送っていた。そのためでもなかろうが、ついぞ子供には恵まれなかった。そして、宝字元年の内乱の後に、孤児となった知己の子供を引き取った。

 以前より姉の広虫ひろむしは、女帝みかどの意を得て、親のない子供のための施設運営に尽力していた。兵乱や飢饉で、あまりに孤児が増えていた。義兄と相談し、成人した者には葛木連かづらきのむらじの氏姓を請求し、戸籍にも入れて、葛城郡かづらきのこおりの所領地に家を持たせた。

 都合よく労働力を確保したなどと、無責任で心無い陰口を言う者もいる。しかし、戸籍を持たない子供は奴婢同然に売られる。それを思えば、明らかな人道的行いだと称賛する者も多い。

 多すぎるほどの子供を持ち、働きづめの日々を送る義兄は、ある冬に体の不調を訴え、寝付く間もなく亡き人となる。未亡人となった姉は、女帝みかどの出家騒ぎに付き合うように髪を下ろす。既に大半の子供は独り立ちしている。内道場に尼僧として入り、尼僧となった女帝の側近となった。


 ところで、せっかく葛城から訪ねて来た養子夫妻だが、内道場の尼僧となった養母には直に対面が出来ない。私に土産の品と言づけを頼んで行った。

 そして私は翌日の午後、仕事が引けてから西宮院に住いする姉を訪ねる。私の官位は六位なので、門は潜っても奥までは進めない。奥まで入って女帝と言葉を交わすには、五位以上の官位が必要だ。姉も六位だが、女帝直属の側近、法命婦ほうみょうぶと呼ばれる地位にいるので、直参も直答も出来る。そして実のところ、弟でなければ法命婦に会う事も難しい。

 門の後ろに衛門の詰め所がある。そこで舎人とねりと立ち話をしながら待っていると、二人の法命婦がそれぞれに女孺めのわらわを従えて現れる。法命婦は尼寺の尼僧よろしく、黒い衣を身に着け、肩の上で切りそろえた髪を白い布で覆う。

 一人は姉の法均ほうきん尼だが、もう一人の名前は知らない。女帝側近の尼僧の内では若い方で、姉とは親しいらしく、何度か顔を見かけた事はある。二人は詰め所の前で別れ、若い尼僧は門の外へと出て行った。

明基みょうき様です。御綺麗な方でしょう」

「確かに、上品で落ち着いておられる。いずれかの権門の御息女なのですか」

 社交辞令のような誉め言葉と共に、詰め所の応接室に入る。簡単な机と椅子があるだけの素っ気ない部屋だ。暑い時期なので窓を大きく開け、扉も閉めない。

「少し訳ありのようで、髪を下ろす前の事は、いずれも触らないようにしているのですよ」

 扉の外にいる女孺と衛門舎人を気にしているのか、わざわざ素っ気ない口調で姉は言う。

「葛城の方は変わりなさそうですか」そして、さっさと話しを変える。

「皆、息才にしているそうです。順調ならば、子供が生まれるのは秋の初めだと言うていましたか」

「そろそろ遠出も大変なのに、よう来てくれたこと」

「まあ、四人目ともなれば、心配も要らぬとも言うていましたけれどね」

 養子だが、九年前の天平勝宝八歳に成人していたので、姉とは一回りと離れていない。そして姉は三十五歳にして、何人もの孫に恵まれる。ところが奇妙な事に、命婦でいた頃よりも若く見える。

 このような個人的な話題だったためか、見れば、入り口近くにいた女孺や舎人の姿が消えている。聞く必要もないと、どこかへ行ってしまったようだ。

「ところで、廃帝のひんであられた粟田諸姉あわたのもろね様が、如何いかがしておられるかご存じありませぬか」我ながら小声で、唐突に歯切れ悪く聞く。

「あの方は粟田の家に帰っておられるはずですよ。何かあったのですか」姉は首を傾げる。

しつが小耳にはさんだ類ですが、時々、訪れる者がいるとか何とか」更に歯切れ悪い。

「それならば、紀命婦きのみょうぶの使いの者でしょう」あっさりと言う。

「紀命婦というと、紀朝臣益女きのあそみますめ……様ですか、兵部卿の側妻そばめの」

「ええ、そうですけど、あまり人には聞かせとうない物言いですね」笑い混じりに溜息をつく。

「すみませぬ。衛門府辺りでは、あまり良い言われ方をしていないもので」

「そうでしょうね、内裏でも同様ですから」

「嬪と命婦は親しいのですか」

「いいえ。多分、女帝に命じられて、様子を伺いに行っているのでしょう」

「使いは、女孺あたりでしょうかね」

「そうだと思いますよ。何かおかしな噂なのですか、御身が聞いたのは」

「いえ、特には」

 私のあやふやな物言いで、姉にはおかしな噂があると知れたかもしれない。若い頃から内裏や紫微中台しびちゅうだい関係のつかさで働き、その裏側を義兄と共に見て来た人だ。女孺らが囁く噂など、既に知っている。素知らぬ振りなど、いとも容易だろう。


 実のところ紀命婦とは、どのような女なのか。男ばかりの衛府では、女に関する噂は間接的にしか入って来ない。ここはやはり室に聞いてみる事とする。とは申せ、出資を休んでいるのだから、やはり間接的な噂に過ぎないだろうが。

「後宮の司に属しているという訳ではありませんわね。本当に女帝の直属です」

「では、姉とあまり変わらぬのか」

「いいえ、全く違います」

 待ち構えていたとばかりに、憤懣混じりの口調で話し始める。

義姉上あねうえ様は女孺から命婦にと、順当に昇進されたのでしょう。そして出家された後に、直属のような立場になられた。おかしな事もやましい事もありませぬ。それに引き換え、あの女は元を糺せば紀寺の奴婢やっこ。それを兵部卿宮様が側妻として寵愛し、女帝に推薦して御側に上げさせたのです、下心を十分に持って」

「それで、あの女、何かの役に立っているのか、ああも異例の出世をしているが」

 先の内乱の論功行賞で、無位から従五位下の内命婦うちみょうぶ(五位以上の女官)となり、年の初めの叙勲でも勲三等という、同じ位階の命婦よりも一等以上高い勲位を賜った。

「内裏での話では、うらの才覚を売り込んだそうです。でも、陰の噂では、呪詛ずそをも請け負うと言われているそうですよ」

「呪詛、か」否定できない類だ。

「先の乱の折も、あの女が何かをした、そういう噂が彼処かしこで囁かれていたそうです」

「具体的な事は不明なのだな、内侍らの間では」

「ええ、あくまでも噂の範疇ですから。でも、尚侍ないしのかみ様や尚蔵くらのかみ様よりも、女帝からは優遇されているそうですわ」

 尚侍や尚蔵は女官の最高位として、天皇や大臣らにも意見の言える立場だ。太政官の高官の内室や、女王ひめみこなどが就任する事が多い。その人たちよりも、奴婢上がりで得体のしれない女を優遇する。後宮でも面白く思われないのは当然だ。

「先ほど、兵部卿の下心と言うたが、出世欲の事か。他にも何か言われているのか」

「出世を狙ったのは確かでしょうね。もしかしたら、淡路公あわじのきみへの当てつけもあったやも。あの方々の仲は、かなり険悪だったそうですから」

「ああ、俺も聞いているな。叔父と甥とはいえ、叔父の淡路公の方が年下だ。それに、あの家の嫡筋は兵部卿のはず。面白い訳がない」

「為政者に踊らされて皇太子ひつぎのみこになったの即位したのと、たいそう怒っておられたとか。家の繁栄や栄誉などではない、むしろ恥だと言うておられたとも聞きましたわ」

 似たような陰口は右兵衛府でも聞いた。兵部卿の和気王わけのみこという人は、一度は臣下に降りたが、大炊王おおいのみこの即位によって皇籍に戻り、孫王として四位に上った。ところが八年の乱では、大炊天皇を裏切って女帝の側に付いた。その結果が、従三位勲二等、参議兵部卿の地位だ。

「あの女の占で、淡路公を見限ったのやも知れませんわね」室は眉間にしわを寄せて言う。

「そして裏切るに当たり、側妻を女帝の元に送り込んだ。さて、何をさせたのか」

 もしかして、呪詛の一つも行われたのか。むしろ、女を隠れ蓑にして、裏で何かを企んでいるのか。

「あれが表に出て来たのは、紀寺の奴婢騒ぎ以来。人の噂に上るようになったのは、やはり八年の乱以降か」

「後宮ではそれ以前から、噂に上っています。紀朝臣となって、突然、後宮に現れた頃から、如何わしい言われようでしたね。最初は若い子らが、良い人との関係を占うてもらった程度。それがとても的中したとか何とか。その内に、女孺めのわらわどころか内命婦うちみょうぶのような高位の方も、相談に行っている。宮の外でも、四位や三位の高官が頼み事をしていると噂が流れました」

「今では女帝直属となって、おいそれと頼み事も出来ぬか。あの女、内裏の外に出る様な事もあるのだろうか」

 余程の高官でもない限り、後宮勤めの女官が他の司への出入りする事は滅多にない。雑使女ぞうしめですら、勤務中は外との関わりを断たれる。勤務の外では可能だろうが、立場上、制約も大きいかもしれない。

「度々、出ているのではありませぬか。一応はまだ、兵部卿宮の側室扱いですもの。そうなれば、宮様の御屋敷を訪ねる振りで、あの女に相談をしに来る人もいるでしょう」

「なるほどな。身分のある者が、露骨に呪女まじないめを訪ねる訳にも行かぬな」

 後宮の内侍ないしらは、女が外に出るのを何とも見ているという事か。そして高官らは、その時に兵部卿を通じて呪女に頼み事をする。兵部卿は女を通じて、高官らの弱みを握る事も出来る。

「兵部卿は、誰か特定の高官と関わりを持っているのか」つい、考えが独り言に出る。

「衛府では、益女だけではのうて、兵部卿様も疑うているのですか」

「衛府ではない、俺が疑うているのだよ」それも、疑い始めたのは話の途中からだ。とは申せ、自らの浅はかさにいささか呆れる。

 私とて四等官の端くれだ。衛府で兵部卿を警戒するような事になっても、おいそれと部外者に聞かせるような真似は出来ない。噂に敏い室の前では、少し自重するに限る。

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