第9話 天平神護元年の事 其の参 悪口を言われる人々
仕方がないかな、未だに過去の話は続く。
子供たちの
姉夫妻の養子はこの者達だけではない。既に故人の義兄、
以前より姉の
都合よく労働力を確保したなどと、無責任で心無い陰口を言う者もいる。しかし、戸籍を持たない子供は奴婢同然に売られる。それを思えば、明らかな人道的行いだと称賛する者も多い。
多すぎるほどの子供を持ち、働きづめの日々を送る義兄は、ある冬に体の不調を訴え、寝付く間もなく亡き人となる。未亡人となった姉は、
ところで、せっかく葛城から訪ねて来た養子夫妻だが、内道場の尼僧となった養母には直に対面が出来ない。私に土産の品と言づけを頼んで行った。
そして私は翌日の午後、仕事が引けてから西宮院に住いする姉を訪ねる。私の官位は六位なので、門は潜っても奥までは進めない。奥まで入って女帝と言葉を交わすには、五位以上の官位が必要だ。姉も六位だが、女帝直属の側近、
門の後ろに衛門の詰め所がある。そこで
一人は姉の
「
「確かに、上品で落ち着いておられる。いずれかの権門の御息女なのですか」
社交辞令のような誉め言葉と共に、詰め所の応接室に入る。簡単な机と椅子があるだけの素っ気ない部屋だ。暑い時期なので窓を大きく開け、扉も閉めない。
「少し訳ありのようで、髪を下ろす前の事は、いずれも触らないようにしているのですよ」
扉の外にいる女孺と衛門舎人を気にしているのか、わざわざ素っ気ない口調で姉は言う。
「葛城の方は変わりなさそうですか」そして、さっさと話しを変える。
「皆、息才にしているそうです。順調ならば、子供が生まれるのは秋の初めだと言うていましたか」
「そろそろ遠出も大変なのに、よう来てくれたこと」
「まあ、四人目ともなれば、心配も要らぬとも言うていましたけれどね」
養子だが、九年前の天平勝宝八歳に成人していたので、姉とは一回りと離れていない。そして姉は三十五歳にして、何人もの孫に恵まれる。ところが奇妙な事に、命婦でいた頃よりも若く見える。
このような個人的な話題だったためか、見れば、入り口近くにいた女孺や舎人の姿が消えている。聞く必要もないと、どこかへ行ってしまったようだ。
「ところで、廃帝の
「あの方は粟田の家に帰っておられるはずですよ。何かあったのですか」姉は首を傾げる。
「
「それならば、
「紀命婦というと、
「ええ、そうですけど、あまり人には聞かせとうない物言いですね」笑い混じりに溜息をつく。
「すみませぬ。衛門府辺りでは、あまり良い言われ方をしていないもので」
「そうでしょうね、内裏でも同様ですから」
「嬪と命婦は親しいのですか」
「いいえ。多分、女帝に命じられて、様子を伺いに行っているのでしょう」
「使いは、女孺あたりでしょうかね」
「そうだと思いますよ。何かおかしな噂なのですか、御身が聞いたのは」
「いえ、特には」
私のあやふやな物言いで、姉にはおかしな噂があると知れたかもしれない。若い頃から内裏や
実のところ紀命婦とは、どのような女なのか。男ばかりの衛府では、女に関する噂は間接的にしか入って来ない。ここはやはり室に聞いてみる事とする。とは申せ、出資を休んでいるのだから、やはり間接的な噂に過ぎないだろうが。
「後宮の司に属しているという訳ではありませんわね。本当に女帝の直属です」
「では、姉とあまり変わらぬのか」
「いいえ、全く違います」
待ち構えていたとばかりに、憤懣混じりの口調で話し始める。
「
「それで、あの女、何かの役に立っているのか、ああも異例の出世をしているが」
先の内乱の論功行賞で、無位から従五位下の
「内裏での話では、
「呪詛、か」否定できない類だ。
「先の乱の折も、あの女が何かをした、そういう噂が
「具体的な事は不明なのだな、内侍らの間では」
「ええ、あくまでも噂の範疇ですから。でも、
尚侍や尚蔵は女官の最高位として、天皇や大臣らにも意見の言える立場だ。太政官の高官の内室や、
「先ほど、兵部卿の下心と言うたが、出世欲の事か。他にも何か言われているのか」
「出世を狙ったのは確かでしょうね。もしかしたら、
「ああ、俺も聞いているな。叔父と甥とはいえ、叔父の淡路公の方が年下だ。それに、あの家の嫡筋は兵部卿のはず。面白い訳がない」
「為政者に踊らされて
似たような陰口は右兵衛府でも聞いた。兵部卿の
「あの女の占で、淡路公を見限ったのやも知れませんわね」室は眉間にしわを寄せて言う。
「そして裏切るに当たり、側妻を女帝の元に送り込んだ。さて、何をさせたのか」
もしかして、呪詛の一つも行われたのか。むしろ、女を隠れ蓑にして、裏で何かを企んでいるのか。
「あれが表に出て来たのは、紀寺の奴婢騒ぎ以来。人の噂に上るようになったのは、やはり八年の乱以降か」
「後宮ではそれ以前から、噂に上っています。紀朝臣となって、突然、後宮に現れた頃から、如何わしい言われようでしたね。最初は若い子らが、良い人との関係を占うてもらった程度。それがとても的中したとか何とか。その内に、
「今では女帝直属となって、おいそれと頼み事も出来ぬか。あの女、内裏の外に出る様な事もあるのだろうか」
余程の高官でもない限り、後宮勤めの女官が他の司への出入りする事は滅多にない。
「度々、出ているのではありませぬか。一応はまだ、兵部卿宮の側室扱いですもの。そうなれば、宮様の御屋敷を訪ねる振りで、あの女に相談をしに来る人もいるでしょう」
「なるほどな。身分のある者が、露骨に
後宮の
「兵部卿は、誰か特定の高官と関わりを持っているのか」つい、考えが独り言に出る。
「衛府では、益女だけではのうて、兵部卿様も疑うているのですか」
「衛府ではない、俺が疑うているのだよ」それも、疑い始めたのは話の途中からだ。とは申せ、自らの浅はかさにいささか呆れる。
私とて四等官の端くれだ。衛府で兵部卿を警戒するような事になっても、おいそれと部外者に聞かせるような真似は出来ない。噂に敏い室の前では、少し自重するに限る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます