第8話 天平神護元年の事 其の弐 噂に上る人々

 性懲りもないが、過去の話を続ける。春の半ば、しつの願った通り娘が生まれた。息子二人もうるさい盛りなので、新たな乳母めのとを探そうという話になる。幸いにして、姉夫妻の養女に子供が生まれたばかりだったので頼む事にする。姉夫妻にはついぞ子供が出来なかったが、多くの孤児を引き取って籍に入れた。

 姉の家も我が家も、このように子供に恵まれた。しかし、比較するのも恐れ多いが、皇家はあまり順調ではない。

 当分の間は皇太子ひつぎのみこを定めないと、三月に詔があった。日嗣ひつぎの位は人が決めるものではなく、天意として授けられるものだ。相応しい者が現れた時には、明らかな兆候が表れるだろう。それ故、天より認められなかった者を再び帝位に戻そうなど、愚かしい考えを持つ事は断じて許されぬ。


 こうして皇嗣問題は棚上げの形となる。そして私はといえば、またもや姉のお零れで新たな姓を賜る。藤野訳ふじのわけの真人まひとを改め、吉備藤野和気きびのふじのわけの真人まひと清麻呂きよまろと名乗るようになる。頭に吉備が着き、字が少しばかり変わったが、実生活には然程差しさわりもない。名乗るのが面倒なのと、書類を書く書記官の手を煩わせるのが心苦しい。

 吉備を名乗っても、郷里の備前国びぜんのくにへの愛着はいささか薄い。父も私同様、若い頃に衛士えじとして都に上った。その時に母と姉、生まれたばかりの私も伴われた。この後、両親と私は備前に戻ったが、姉は既に夫がいたので都に残った。更に後、成人した私は再び都に上る。これ以降、私が備前国に戻ったのは、父が亡くなった時くらいだ。久々に会った叔父や従兄弟らが言う。都で出世して郷里に花を飾りたかった父に代わり、私がその使命を果たせ。言うは簡単だが、かなりの難問だ。それでも六位に叙せられた身としては、備前国のすけ(次官)かじょう(判官)くらいにはなれるかもしれない。


 夏になったが、室はまだ仕事に復帰していない。相変わらず女孺めのわらわ(下級の女官)の同僚が、入れ代わり立ち代わりやって来て、新たな噂を供給してくれるので、特に機嫌が悪い事はない。

 珍しく昼過ぎに家に戻れた日、子供たちに昼寝をさせた室が、仕入れた噂話の披露にやって来る。

「その方は粟田あわたの家に戻っておられるのだろう。何故、後宮の話題に上がるのだ」

 話題に出た名前は、先の大炊天皇おおいのすめらみことひん粟田朝臣あわたのあそみ諸姉もろねだった。嬪とは天皇の伴侶の位の一つで、五位以上の者に与えられる。この女性は先の政変には無関係と、罪に問われる事なく家に戻されている。

「あくまでも噂ですから、真偽のほどは知れませぬけれど」何やら勿体漬けて、室は口ごもる。

「何だ、府議密通だとでも」ごく軽い気持ちで口に出す。

「あら、御存知なのですか」いささか驚いたように返す。

「御存知と、まさか本当に府議密通か」

「だから、噂です」

 粟田諸姉という人は、元々、恵美大師えみのだいしの早世した嫡男の妻女だった。未亡人となった後、何かの経緯で大炊王おおいのみこの後添えとなり、即位に際して嬪の位につけられたと聞いている。

「だが、もし本当ならば、その方も相手も不敬罪に問われるのではないのか」

「廃帝の嬪でも、そうなるのですか」

「さて……しかし、あの女帝みかどの事だ、そういう類には厳しいと思うぞ」

 大炊天皇にはりょう(法律)で定められた皇族の皇后おおきさきもいない。中央の権門から何人かの夫人ぶにんひんを迎えた。その人たちも既に皇族籍を外れてはいるが、再嫁さいかは適わないだろう。ちなみに夫人にも嬪にも子供はいない。即位以前に迎えた内室との間に、姫君が一人いるらしい。この女王ひめみこの皇族籍が除かれたとは聞いていない。

「それで、相手の男の名は知れているのか」つい、老婆心が出る。

「近衛中将の粟田様だそうです」

「近衛中将だと……それは、少しばかり、互いに年がいっておるな」動揺をごまかすつもりで、わざわざ見当違いの発言をする。

 近衛中将、粟田道麻呂あわたのみちまろも八年の変で異例の出世をした一人だ。

「確かに若いとは言えませぬが、特に不自然でもないでしょう。諸姉様は殿とそれ程に変らぬ御年でしょうし」

淡路公あわじのきみが俺と同い年で、諸姉様は一つか二つ年上だったか。中将は四十を過ぎたくらいか。まあ、若うはないが、惚れた腫れたに年は関係ないか」更にどうでも良い事を言ってみる。

「それに中将様は大層な美男なのでしょう。若い頃から浮いた噂の一つ二つはあったのではありませぬか」室は妙に嬉しそうだ。

「いや、あの御仁は、武官の間でも朴念仁で通っておるよ。不義だの密通だのとは、あまりにかけ離れておると言うか。身持ちも堅い、御内室も確か一人きりだ」

「そうなのですか。御息女は、近衛将監の藤原様の内室になられたと聞いていますけれど」

「近衛将監の藤原様」鸚鵡返しに呟く。

「御存知でしょう。船守様の御同僚でいらっしゃる」

 紀船守きのふなもりと同じ近衛将監で藤原といえば、式家の種継たねつぐだ。つまりは山部王やまべのみこ乳母子めのとごだ。あの主従はいずれ劣らぬ美男だと、後宮の女たちに限らず噂の種になっている。室も知らない訳がない。そもそも、うちの室は男前の噂には、これでもかと敏い。

「種継殿は知っておるが、御内室にはお目にかかった事はないよ。しかし、近衛中将も粟田朝臣だ。同族の者が、諸姉様の元を訪ねたところで不義にはなるまい」

「具体的にどのような関係なのかは分かりませんわ。ただ、噂になっていると言うだけで。でも、同じ粟田でも、諸姉様と中将様では家の格が違うのでしょう。そう聞いていますよ」

「ああ、そうだ。中将は元々粟田臣あわたのおみで朝臣を賜姓されている。それに引き換え、粟田嬪は本家の媛御だ。それこそ、本家に御機嫌伺にでも行ったのを見られた程度ではないのか」

 実のところ、私に思い当たるのは不義密通などではない。官人らの間で噂される、淡路公の再擁立を目論む一派の存在だ。衛府にも、それに属する者がいる可能性は否定できない。

「御機嫌伺は大いにあるでしょうね、それも下心付きで」

「あまり下世話な事を言うな」

「後宮では皆、そう思うていますよ、女孺だけでのうて命婦みょうぶ様まで」室は肩をすくめて笑う。

「ありそうな事だ」私は溜息混じりに鼻で笑う。

 恐らく命婦たちは、密通の噂を表面に漂わせ、その下で淡路公の事を話題にしているのかもしれない。


 件の近衛中将を見かけたのは、中務省なかつかさしょうの裏手だった。この人も異例の出世で従四位下になったのみならず、参議にまで任命された。中務省は太政官のすぐ近くなので、参議兼務の中将を見かけたところで、取り立てて不思議でもない。

 その時に話をしていた相手は、陰陽師おんようし大津宿禰おおつのすくね大浦おおうらという男だった。陰陽寮おんようりょうは中務省の機関なので、この者がいてもおかしくはない。しかし、この男は近衛中将以上に胡散臭い。七位から一気に四位にまで昇進し、むらじ姓から宿禰すくね姓に昇格した。果たした功績は例に漏れず密告の類だ。かつては恵美大師えみのだいしの子飼いの小者だったが、主を裏切り、謀反の事を告げて地位や名を手に入れた。

 成り上がりと陰で評される、四位の輩が顔を突き合わせる。関わりを持ちたくない者らは、見ない振りで遠巻きに過ぎる。かく言う私もその一人として、軽い礼を交わして通り過ぎる。その時にどちらかが兵部卿と口にした言葉を聞いた。

 兵部卿の和気王わけのみこも二人と同じ輩だ。参議と従三位を賜った。話に出て来たところで、特に奇妙な事もない。それでも私の耳には、微細なわだかまりのように不自然に響いた。船守から散々に悪評を聞かされてきた、心象の悪さも手伝っているのだろうか。

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