第7話 天平神護元(765)年の事 其の壱 弓削氏と紀寺奴婢事件の事
これでもかと、過去の話は続く。戦乱と干ばつに悩まされた
改元同日の叙位叙勲で、私は姉や
上官で、紀氏の祖母をもつ山部王に、肩入れしたい気持ちは分からないでもない。しかし、船守ほどの男が気を揉むような相手なのか。私には未だ、この人がどれ程の人物なのかが分からない。
叙勲や人物評価ともかく、年が明けるや否や、衛府全般の大幅な人事異動が起こる。
こうして二月三日、授刀衛府は
同日、
更には左右の
組織が決まれば人事も動く。二月五日に最初の移動が、九日には更に大幅な移動が発表された。これにより、授刀大尉だった山部王は員外の近衛少将に、大志の船守は近衛将監にと、それぞれ昇進した。私のいる右兵衛府では、督の藤原
ところで、この
それ程に道鏡禅師は、ここ最近、注目されている。元々は東大寺の僧侶だが、管主の
いかなる高位を得たところで、妻子を持てない僧侶の事だ。栄誉も一代限りと、官人らは強引に納得をする。ところが内乱勃発の直後、禅師の同族に件の氏姓を賜ると、またもや詔が出る。この後の一族の昇進ぶりは、誰の目から見ても異常だ。同母弟の浄人は、従八位上の授刀
何をしていたのか分からないと言えば、もう一人、解せない者がいる。昇進に疑問のある者は一人や二人ではないが、この女は誰よりも得体が知れない。
「
「そりゃそうだ、連中の扱いに抗議した
私は同僚らと囁き合う。その連中が官人の間で知られるようになったのは、一昨年の暮れだった。
そして真偽を調べろと勅命が発せられる。専任の官も任命され、古今の戸籍をひっくり返して調査が行われる。しかし昨年の七月、結局、真偽は分からないと報告される。判断は太政官に上げられるが、そこでも決着がつかない。そして決定は天皇の元にまで戻される。
新たな詔により、益人らは良民に返され、紀氏に加えられる事となる。紀氏の氏長は不服を申し立てるが、時の
これだけではない。益人は
それ以上に重く用いられたのは妹の
「訳の分からぬ輩に、地位だの封戸だのを大盤振る舞いする。それなのに正当な評価をされぬ者もいる」憤慨する
今日も
「武功はまだ良いにしても、自らの身内を売って、地位を得る輩は許しがたい」酔いが回り始めた私は、
「兵部卿の事か」船守は鼻先で笑う。
「叔父御たる
年下の叔父を見下していたのだろう、このような陰口も囁かれる。
「近衛府でも同じだ。加えて、自らの
そして、あえて黙っていた話題を紀氏の船守自身が始める。
「あの兄妹は、まあ、出来の良い子供だった。それを見出した僧侶が、色々と勉学を教えたらしい。奴婢でも僧侶になれば、もう少し良い待遇が受けられると、将来を考慮してだろう。故に読み書きにも算術にも秀でている。その辺の小役人どころか、下手な学僧よりも優秀だと聞いた」
「なるほどな。そうでもなければ、いきなり六位五位の位など与えられはせぬ」
「兄の方は
「別の方面とは」
私は
「占いの類だ。陰陽などという小難しく堅苦しい類ではない。もっと如何わしい類だろう。子供の頃から
「それが兵部卿か」言いながら、わずかに残る酒を
「時期的に、父親の
酒はこれでお終いという事だろう。
「ゆえに側女か」坏を口に運びつつ私は聞く。
「珍しい話でもなかろう。気味は悪いが、顔立ちは悪うない」
「むしろ美貌の範疇に入ろうな。とは申せ、俺の好みではないが」
「兵部卿が女の容姿に惚れたか、能力に惹かれたかは知らぬ。だが、女帝に差し出したのは、当たると評判の占の才だ」
「あれが五位どころか勲位までもらったのは、その才のお陰なのか」我ながら、どうも口調が胡散臭げになる。
「思うのだが、あの連中を良民にしたのは、女を兵部卿から引き離して、利用するためではあるまいか。兄の方も
「確かに、そう言われれば納得も出来る。だが、
「さてな。何かの折に、名前も官位も剥奪する理由を見つけるやも知れぬな。それはそれで、俺達としては大いに構わぬ」船守は皮肉気な笑いを見せる。
「使い捨てられるか。いずれ、奴婢に戻すも厭わぬ程度の存在か」私は呟く。
「御身も俺も都で育った。代々、官位を得て
「俺は備前の生まれだよ。親父殿の赴任で、姉上も俺も子供の頃から都を知ってはいるが」
「御身の父上は吉備国造家の子息であろう。領地の民を管理支配する側だ」
「確かに、国に帰ってからは、郡の
「要するに選良な家の生まれだ。奴婢であった事も、
何を言い出すのかと思ったが、やはりこの男は紀氏として腹を立てているようだ。
「別姓を貰った大部分の輩はともかく、紀朝臣を名乗る輩は目障りだと言いたい訳だな」私はつい苦笑する。
良民に返された者らの内、六十数名は
「目障りとは聞こえが悪いな。まあ、言葉を繕ったところで、あの兄妹を認める気はないが」船守は軽く頭を振る。
「
中納言、
「そこまでは知らぬ。何せあの方の御母堂は、五十年以上前に亡うなっておられる。宮様も紀の家で育った訳ではない。むしろ疎遠だと聞いている。我々は勝手に期待をしているが、宮様は自らを紀氏の筋と、あまり意識しておられぬようだな」
「意外だな」
そのような状況だから、紀氏の氏長が咎めを受けた時に、特に擁護の姿勢を見せなかっただろう。
「中納言宮様が紀氏に目を向けてくれるに越した事はない。だが俺が期待するのは、むしろ少将宮だ。侍従も拝命し、これからは益々、表に出て来られるようになる」かくして、船守の口調は熱を帯びる。
「既に、世間が言うような、取るに足らぬ皇族官人ではない訳だな」
「そういう不敬を言う輩は放って置け。御身も会うて話をしてみれば分かる。あの御方は、他の諸王とは別格だ」
「ああ。機会があれば、是非ともな」私はといえば、空返事に近い。
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