第6話 天平宝字八年の事 其の伍 紀船守の話

 代わり映えなく、まだ過去の話だ。山部王やまべのみこがようやく従五位下に叙せられた日の二日後、女帝みかど大炊おおい廃帝への処分を下した。親王の位と淡路一国を与えるので、早急に発て。実質は淡路への配流だ。護送役を命じられたのは、右兵衛督うひょうえのかみの藤原蔵下麻呂くらじまろだった。


 しつの噂話に付き合った翌日、兵部省に行った帰り道、授刀大志たちはきのだいさかん紀朝臣船守きのあそみふなもりに出くわした。近江出兵以来、顔を合わせていなかったので、互いに積もる話もある。話し込むついでに屋敷を尋ね、そのまま夜まで居座ってつきを重ねる羽目になる。

「そうなのだよ、若翁わかぎみならば、四位に叙位されたところで不思議はあるまいと言うに」酔っている様子も見えないが、船守は同じ内容の言葉を再び繰り返す。

 若翁というのは、授刀衛府における山部王の綽名だ。少尉の藤原種継たねつぐ舎人とねりらの前で呼びかけたのがきっかけで、即日に呼ばれるようになったと聞く。

「それで、大尉だいじょうは中宮院包囲の時に、何をされたのだ」私は聞く。大尉とは山部王の事だ。

「知らぬのか。御身おみもあの時に招集されていたであろうが」細い目を更に細くして、眉間にしわも寄せて怪訝そうに鼻を鳴らす。この男とは十年以上の付き合いだが、決して酒癖は悪くない。

恵美訓儒麻呂えみのくすまろが印や鈴を奪って逃走しようとしたのを止めた。その程度は知っているよ。もしも門の外に逃がして、衛門や衛士に捕らえられたのでは、授刀衛府としては面目を失う。大尉が足止めし、陸奥出身の大志だいさかんが射殺した」私はややぞんざいに言う。

「今では若翁と並んで授刀大尉だ。牡鹿連おしかのむらじ、いや宿禰すくねかばねをもらい牡鹿宿禰嶋足おしかのすくねしまたりだ」

「不満そうだな、御身」

「当たり前だ。どうして同じように功を上げた者が、一人は即日に七位から四位になって昇進。今一人は据え置かれた挙句、思い出したようにようやく五位だ。片や地方出の武官、もう御一方はれっきとした皇族だというに」とうの昔に空になった坏を振り回し、船守の口調はやけに熱を帯びる。

 あれ以前は従七位上だった牡鹿嶋足は、翌日には従四位下になり賜姓された。このように異様な特例人事は、その男に限った事ではない。目の前の船守も目に見える功を上げたとして、従七位下から従五位下という八階級もの特進を果たし、員外とは申せ授刀大志に任命された。船守にしてみれば、大尉の山部王が自らと同じ階位である事が、大いに解せないどころか不満らしい。

女帝みかどは若翁を試されている。先の変では、藤氏とうしに付くか皇家に付くか。そして今は、皇家の一員として女帝に忠誠を誓えるのかと」尚も憤慨気味に言う。

「それはやはり、期待をかけられている証拠だろう、皇家の一員として」

「当たり前だ。中納言宮の嫡男というだけでなく、この先、皇族官人の主流となる御方だ。それ故に、恵美大師えみのだいしも娘婿に選んだ。盆暗ぼんくらやからは、鳴かず飛ばずの些末な諸王みこが最高権力者に媚びたなどと言う。その逆だ、何も分かっておらぬ」

「つまり、大師が中納言家に婚姻を持ち掛けた訳か」

 私が言うと、船守はにわかに顔を近づける。

「その通り。淡路公あわじのきみには亡うなった子息の未亡人を宛がったというのに、若翁には正妻の息女を薦めた。考えてもみろ、この差は何を意味するのか」声を潜めて問いかける。

「御身、少々、飲み過ぎておるだろう」何を答えて欲しいのかが分かるだけに、私は鼻白み言い返す。

「飲み過ぎだろうと何だろうと、御身にだからこそ言える。大師が本命に考えていたのは、淡路公ではないという事だ」こちらの心配など他所に、酔漢は平然と言い放つ。

 淡路公とは廃帝の大炊親王おおいのみこの事だ。船守の言う本命とは、おいそれと口に出せない程の際どい意味になる。

 女帝に追い込まれて都を出奔した大師こと恵美仲麻呂えみのなかまろは、姻戚関係のある塩焼王しおやきのみこを道連れにした。そして奪った太政官印を用い、新たな天皇すめらみこととして擁立する偽のみことのりを発した。もしもあの時、授刀衛府が大師の勢力下にあったのなら、道連れにされたのは別の諸王みこだったのかもしれない。

「淡路公と大師が不仲になった一因に、大尉宮だいじょうのみやの存在があるという訳か」開き直って私は聞く。

「そういう事になろうな。案外、最初から淡路公を器と見ていなかったのやも知れぬぞ」

「しかし、大尉宮は母親の身分に難があるの何のと、再三に聞いておるが」

「まあ、そうだ。故に最初は別のみこに目を付けていたとも聞いている」何やら複雑そうな表情を作り、船守は折敷おしきの上の酒瓶しゅへいを取る。

「別の王というと」私の坏は、既に折敷の上に伏せてある。

「若翁の異母兄だ」手酌で最後の酒を空けきって呟く。

「兄上がおられたのか。あの方が嫡男という事は、すでにうなられているのか」

「出家された。もう七年前になるか。その方は母親が中臣氏なかとみうじゆえ、大師も期待していたようだ」

「それが重荷になって出家されたのか、もしかして」

「そうであろうな。御身、覚えておるだろう、宝字元年の変の時にも、密告云々で破格の出世をした者が何人もいただろう」

 もちろん覚えている。事変が起きたのは天平宝字に改元される少し前だった。先の左大臣、橘朝臣諸兄たちばなのあそみもろえの息子で兵部卿だった奈良麻呂ならまろが皇位転覆を企てた。しかし、あまりに多くの者を巻き込んだはかりごとは、複数の密告者によって発覚した。そして四百にものぼる粛清者を出して未遂に終わった。

「兄宮はその時に二十一歳で四位を叙位された」

 言われて見れば、その様な諸王がいたのを覚えている。確か紫微中台しびちゅうだい(光明皇太后の家政機関)の舎人とねりだったが、紫微令しびれい(長官)の恵美仲麻呂に目をかけられて四等官になった。娘婿候補だと噂されたが、あの政変に巻き込まれて出家したと聞いた。それが白壁王の子息だとまでは知らなかった。たしかあの頃、白壁王は官界から身を引いていたはずだ。

「そうなのか。いや、だが、あの時は既に、大炊親王おおいのみこが立太子していたように思うが。それに、大炊親王を皇嗣に推挙したのは仲麻呂だと、もっぱら噂されていたし」

「いくら大師がその方に目をかけていたとしても、やはり近江帝おうみのみかどの血筋だ。周囲が納得せぬであろう。しかし、大炊親王には脅しになったと思う。もしも女帝や大師の意にそぐわぬような振る舞いをしたなら、さっさと廃して新たな日嗣ひつぎ(皇嗣)を立てる用意があると」

「女帝も共に考えておられたのだろうか」

「そこまでは分からぬ。御身の姉上ならば、知っておられるやも知れぬが」妙に期待を込めた口調で船守は言う。

「姉とはここ最近、殆ど会うてはおらぬな。元々、職務の内容を軽々しゅうするような人でもないし」

 私の同母姉は若い頃から、皇太子時代の阿倍内親王あべのひめみこに仕えた。即位後も内命婦うちのみょうぶ(五位以上の女官)として側に侍り、出家の時には、連れ合いに先立たれた事もあって、共に髪を下ろしたほどの人だ。今では吉備中納言の娘の吉備命婦きびのみょうぶと並んで、女帝の側近中の側近と呼ばれる。

「まあ、いずれにしても、再び高御座たかみくらに着かれた女帝が目を向けているのは、間違いのう白壁王様の一家だ。宮様の御生母は紀氏きうじゆえ、俺に限らず一族としても後押しするに吝かでない」

「なるほどな、そういう事か」私が言えば、船守は平然とうなずく。

 船守は紀氏でも傍系筋の家に生まれた。ところが故あって多少は本家筋に近い家の養子となった。ここに先月の事変での出世が加わり、氏内では次の出世頭に見られているらしい。

「それで、女帝が皇太子ひつぎのみこに考えているのは、誰だと思うのだ、御身としては」

「下馬評通りだ。御身も聞いておるのではないのか」

他戸王おさべのみこ様か、やはり」

「そうなると、御生母が必ず前面に出て来られよう。女帝としては、そちらを警戒しておられる」酒が手伝ってか、いつになく船守の口は軽い。

「女帝にとって井上内親王いのえのひめみこ様は異母姉上あねうえ、母方は県犬養氏あがたのいぬかいうじか。まあ、女帝の母方の藤氏とうしには敵わぬが。そちらとしても、これからが正念場と踏んでおるやもしれぬな」私にしては、まさに他人事だ。

「藤原の各家、県犬養氏、そして我が紀氏のいずれもだ」坏に残る最後の酒を飲み干して、妙に満足そうに言う。

「藤氏といえば、南家の右大臣が戻って来られたが」

「復帰はしたが、体の具合が良うないようで、若い頃のような鋭さはほぼ見られぬよ。むしろ丸さに磨きがかかったと言うか」船守は小さく笑う。

 宝字元年の変で恵美仲麻呂は、同母兄の右大臣を追い落とした。そしてこの度、仲麻呂の謀反で兄は都に戻り、元の右大臣に復帰した。

「南家も次の世代に期待している。右大臣の嫡男は、今の藤氏一番の切れ者だという噂だぞ」

治部大輔じぶのたいふか」藤原朝臣縄麻呂ただまろ、この人も仲麻呂の娘婿だった。

「あの御仁は若い頃から、ずっと侍従じじゅうとして女帝の側にいる。信頼は多分にある。女帝と仲麻呂のどちらが先に目を付けたのかは知らぬ。だが、最初から女帝派だ、あの壮士おのこは。思うに、女帝としては右大臣よりも、息子の方に期待しているのだろう」

「治部大輔に藤氏の惣領家、そして藤氏全ての将来がかかっている訳か」口にしてみると、やたら大袈裟に響く。

 備前国から衛士として出て来た私が、今では皇家の嫡流の、藤氏の嫡流のと、中央官界の大それた噂話をする。果たして十年後、私はどこでどのような話をするのか。備前の家に帰って、兄妹や親族らに武官時代の自慢話をするのか。都に居座り、とうの立った武官として、部下たちと管を巻いて上官らの悪口を言い合うのか。酔いの回った頭で考えるのは、いささか億劫で重たすぎる。

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