第6話 天平宝字八年の事 其の伍 紀船守の話
代わり映えなく、まだ過去の話だ。
「そうなのだよ、
若翁というのは、授刀衛府における山部王の綽名だ。少尉の藤原
「それで、
「知らぬのか。
「
「今では若翁と並んで授刀大尉だ。
「不満そうだな、御身」
「当たり前だ。どうして同じように功を上げた者が、一人は即日に七位から四位になって昇進。今一人は据え置かれた挙句、思い出したようにようやく五位だ。片や地方出の武官、もう御一方はれっきとした皇族だというに」とうの昔に空になった坏を振り回し、船守の口調はやけに熱を帯びる。
あれ以前は従七位上だった牡鹿嶋足は、翌日には従四位下になり賜姓された。このように異様な特例人事は、その男に限った事ではない。目の前の船守も目に見える功を上げたとして、従七位下から従五位下という八階級もの特進を果たし、員外とは申せ授刀大志に任命された。船守にしてみれば、大尉の山部王が自らと同じ階位である事が、大いに解せないどころか不満らしい。
「
「それはやはり、期待をかけられている証拠だろう、皇家の一員として」
「当たり前だ。中納言宮の嫡男というだけでなく、この先、皇族官人の主流となる御方だ。それ故に、
「つまり、大師が中納言家に婚姻を持ち掛けた訳か」
私が言うと、船守はにわかに顔を近づける。
「その通り。
「御身、少々、飲み過ぎておるだろう」何を答えて欲しいのかが分かるだけに、私は鼻白み言い返す。
「飲み過ぎだろうと何だろうと、御身にだからこそ言える。大師が本命に考えていたのは、淡路公ではないという事だ」こちらの心配など他所に、酔漢は平然と言い放つ。
淡路公とは廃帝の
女帝に追い込まれて都を出奔した大師こと
「淡路公と大師が不仲になった一因に、
「そういう事になろうな。案外、最初から淡路公を器と見ていなかったのやも知れぬぞ」
「しかし、大尉宮は母親の身分に難があるの何のと、再三に聞いておるが」
「まあ、そうだ。故に最初は別の
「別の王というと」私の坏は、既に折敷の上に伏せてある。
「若翁の異母兄だ」手酌で最後の酒を空けきって呟く。
「兄上がおられたのか。あの方が嫡男という事は、すでに
「出家された。もう七年前になるか。その方は母親が
「それが重荷になって出家されたのか、もしかして」
「そうであろうな。御身、覚えておるだろう、宝字元年の変の時にも、密告云々で破格の出世をした者が何人もいただろう」
もちろん覚えている。事変が起きたのは天平宝字に改元される少し前だった。先の左大臣、
「兄宮はその時に二十一歳で四位を叙位された」
言われて見れば、その様な諸王がいたのを覚えている。確か
「そうなのか。いや、だが、あの時は既に、
「いくら大師がその方に目をかけていたとしても、やはり
「女帝も共に考えておられたのだろうか」
「そこまでは分からぬ。御身の姉上ならば、知っておられるやも知れぬが」妙に期待を込めた口調で船守は言う。
「姉とはここ最近、殆ど会うてはおらぬな。元々、職務の内容を軽々しゅうするような人でもないし」
私の同母姉は若い頃から、皇太子時代の
「まあ、いずれにしても、再び
「なるほどな、そういう事か」私が言えば、船守は平然とうなずく。
船守は紀氏でも傍系筋の家に生まれた。ところが故あって多少は本家筋に近い家の養子となった。ここに先月の事変での出世が加わり、氏内では次の出世頭に見られているらしい。
「それで、女帝が
「下馬評通りだ。御身も聞いておるのではないのか」
「
「そうなると、御生母が必ず前面に出て来られよう。女帝としては、そちらを警戒しておられる」酒が手伝ってか、いつになく船守の口は軽い。
「女帝にとって
「藤原の各家、県犬養氏、そして我が紀氏のいずれもだ」坏に残る最後の酒を飲み干して、妙に満足そうに言う。
「藤氏といえば、南家の右大臣が戻って来られたが」
「復帰はしたが、体の具合が良うないようで、若い頃のような鋭さはほぼ見られぬよ。むしろ丸さに磨きがかかったと言うか」船守は小さく笑う。
宝字元年の変で恵美仲麻呂は、同母兄の右大臣を追い落とした。そしてこの度、仲麻呂の謀反で兄は都に戻り、元の右大臣に復帰した。
「南家も次の世代に期待している。右大臣の嫡男は、今の藤氏一番の切れ者だという噂だぞ」
「
「あの御仁は若い頃から、ずっと
「治部大輔に藤氏の惣領家、そして藤氏全ての将来がかかっている訳か」口にしてみると、やたら大袈裟に響く。
備前国から衛士として出て来た私が、今では皇家の嫡流の、藤氏の嫡流のと、中央官界の大それた噂話をする。果たして十年後、私はどこでどのような話をするのか。備前の家に帰って、兄妹や親族らに武官時代の自慢話をするのか。都に居座り、
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