第5話 天平宝字八年の事 其の肆 内室の話
申し訳ないが、まだ過去の話が続く。
たまの休日を家で怠惰に過ごしていると、他人には見せられない程に着こんだ姿で部屋にやって来る。三人目の子供が出来て腹も目立ってきたので、
「では殿は、宮様の
「存ぜぬも何も、右兵衛府にいては、
何かのはずみで始まったのは、例によって
「でも、
「いいや、何度も
「間近で御姿を拝したのですか、羨ましい」
「何が羨ましいのだ」いささか辟易する。
そして室の一方的な世間話が始まる。要するに内舎人の頃の山部王が、後宮の女孺から、どのような眼差しで見られていたかという事だ。人並み以上の容姿と上背のお陰で、放って置いても目立つ存在だ。すぐに若い女たちが注目する。その内、太政官権力者の娘婿になったと知れ、官人らが穿った目を向けるようになる。それでも女孺からの人気は衰えなかったらしい。
「こう言うては失礼ですけど、宮様の御母上は、それ程に高い身分ではないでしょう。宮様ご自身も皇族の内では、さほどに重要な位置におられない。御正室は
「期待していたのか、
「私はそのような年ではありませぬ。でも若い子たちは、一度で良いから御声をかけられたいなどと、常々さんざめいていましたっけ」そういう割には、妙に熱のこもる口調が面白くない。
「まあ、俺のような亭主持ちでは、期待も何もなかろうな」
「私の事など良いではありませぬか。若い女の子が、見目好い殿方に憧れるのは当たり前でしょう。殿も憧れときめいた経験はおありでしょうに」何やら子供でも諭すような言い様になる。
「生憎だが、俺には四つ年下の
「あら、良うございましたわ。もしもそのような方ならば、私の方から離縁させて頂きます」いとも簡単に減らず口が返る。
室も成人した頃に備前国から都に上り女孺になった。私の同母姉の広虫と共に後宮に仕え、その縁で私の妻女となった。姉が気に入るだけあって、口も頭もよく回る女で退屈はしない。
「それにしても、
「山部王様も何度か、女帝に拝謁はされているようですよ。
女帝は西宮院を住まいとしている。そこに配属されている女孺が、山部王の姿を見たという事か。
「いつ頃の事だ、近江出兵の前か後か」
確かこの月の初めの叙位で、山部王はようやく三世王として従五位下になった。正式に女帝との対面も適う位階だ。
「先月末位に話を聞いたのだから、近江より帰られた後でしょうね。御内室の事で、何か問題があるのかしら」
「そうやも知れぬな。極刑は問わぬにしても、都の外への追放程度の処分は受けてもおかしゅうはない」
その程度の話を女帝が自らするとも思えないし、先月末ならば無位で六位扱いの頃だ。やはり、
だが間違っても、
「女帝と中納言宮様といえば、昔話を聞いた事があります。随分以前の事で、あまり詳しい内容は覚えていませんけれど」何やら意味深な表情を作って言う。
「昔話。若い頃に何かあったという事か、それこそ男女の仲だとか」おおよそ、女たちの話の大半は惚れた腫れただ。
「いえ、男女以前です。それこそ弟の親王が生まれるよりも前の事らしいですから。教えてくれた方も、噂の範疇なので真偽は分からないと言うていましたけれど」
阿倍女帝には同母と異母の弟が一人ずついたが、二人とも早くに亡くなったと聞いている。
「その頃に女帝、阿倍内親王の許嫁として白壁王が選ばれたらしいと聞きました」
「なるほどな。有り得る話だろう、内親王と孫王なのだし。弟の親王が早うに亡うならなければ、その様な流れになっていても、何ら不思議はなかろう」
「そうですね。既に四十年近い昔ゆえ、真偽どころか噂自体を知っている人が少ないとも聞きましたわ」
四十年も昔となると、中納言宮は二十歳前後、女帝は十歳前後という年回りか。
「わざわざ言い立てて、皇家の不興を買いたい輩も少なかったのだろう。口にして欲しくはなかったのやも知れぬな、皇家としても、宮内省や中務省にしても。何にしても、大昔に流れた縁談だ」わざわざ、掘り返すような話でもなかろう。本人たちも忘れている事かも知れない。
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