第5話 天平宝字八年の事 其の肆 内室の話

 申し訳ないが、まだ過去の話が続く。平城ならに来て十六年経つが、未だに冬の底冷えに慣れる事が出来ない。それは同じ藤野和気ふじのわけの一族出身のしつ(妻)も同様だ。

 たまの休日を家で怠惰に過ごしていると、他人には見せられない程に着こんだ姿で部屋にやって来る。三人目の子供が出来て腹も目立ってきたので、女孺めのわらわ(下級の女官)の出資を休んでいるのが退屈で仕方ないらしい。いつもならば、同僚の女たちを家に招いては、宮中の噂話を仕入れているが、今日は標的を私に定めたようだ。


「では殿は、宮様の内舎人うどねりの頃は御存知ありませぬの」

「存ぜぬも何も、右兵衛府にいては、中務省なかつかさしょうにも内舎人にも縁はないよ」

 何かのはずみで始まったのは、例によって山部王やまべのみこの噂話だ。

「でも、授刀衛府たちはきえふに来られてからは、何度か会われているのでしょう」室の声音が少しばかり色めく。

「いいや、何度もうてはおらぬよ。間近で見たのは、近江出兵の時くらいだし」

「間近で御姿を拝したのですか、羨ましい」

「何が羨ましいのだ」いささか辟易する。

 そして室の一方的な世間話が始まる。要するに内舎人の頃の山部王が、後宮の女孺から、どのような眼差しで見られていたかという事だ。人並み以上の容姿と上背のお陰で、放って置いても目立つ存在だ。すぐに若い女たちが注目する。その内、太政官権力者の娘婿になったと知れ、官人らが穿った目を向けるようになる。それでも女孺からの人気は衰えなかったらしい。

「こう言うては失礼ですけど、宮様の御母上は、それ程に高い身分ではないでしょう。宮様ご自身も皇族の内では、さほどに重要な位置におられない。御正室は藤原恵美ふじわらのえみ家の御息女でも、立場として更に何人かの内室を迎える可能性も大きい。そのように期待する若い子も少なからずいましたわ」

「期待していたのか、いましも」

「私はそのような年ではありませぬ。でも若い子たちは、一度で良いから御声をかけられたいなどと、常々さんざめいていましたっけ」そういう割には、妙に熱のこもる口調が面白くない。

「まあ、俺のような亭主持ちでは、期待も何もなかろうな」

「私の事など良いではありませぬか。若い女の子が、見目好い殿方に憧れるのは当たり前でしょう。殿も憧れときめいた経験はおありでしょうに」何やら子供でも諭すような言い様になる。

「生憎だが、俺には四つ年下の壮士おのこにときめく様な謂れはない」ついぞ意味不明な憎まれ口が出る。

「あら、良うございましたわ。もしもそのような方ならば、私の方から離縁させて頂きます」いとも簡単に減らず口が返る。

 室も成人した頃に備前国から都に上り女孺になった。私の同母姉の広虫と共に後宮に仕え、その縁で私の妻女となった。姉が気に入るだけあって、口も頭もよく回る女で退屈はしない。

「それにしても、女帝みかどはあの方々をどの様に見ておられるのだろう。中納言宮は皇族官人の最上臈で、井上内親王いのえのひめみこが正妃だ。決して疎かにはされないだろうが」戯言に飽きて来たので、話の方向を変える事とする。

「山部王様も何度か、女帝に拝謁はされているようですよ。西宮院さいぐういんで御姿を見たと聞きましたもの」

 女帝は西宮院を住まいとしている。そこに配属されている女孺が、山部王の姿を見たという事か。

「いつ頃の事だ、近江出兵の前か後か」

 確かこの月の初めの叙位で、山部王はようやく三世王として従五位下になった。正式に女帝との対面も適う位階だ。

「先月末位に話を聞いたのだから、近江より帰られた後でしょうね。御内室の事で、何か問題があるのかしら」

「そうやも知れぬな。極刑は問わぬにしても、都の外への追放程度の処分は受けてもおかしゅうはない」

 その程度の話を女帝が自らするとも思えないし、先月末ならば無位で六位扱いの頃だ。やはり、督殿こうどのの言ったよう、皇嗣に関わる事を内々に打診しているのだろうか。それならば、あの家の嫡男として認められているという事だろう。

 だが間違っても、他戸王おさべのみこ皇太子ひつぎのみこに考えているなどと、室に漏らす訳にはいかない。噂が女孺たちの間で勝手に歩き出すのが目に見える。

「女帝と中納言宮様といえば、昔話を聞いた事があります。随分以前の事で、あまり詳しい内容は覚えていませんけれど」何やら意味深な表情を作って言う。

「昔話。若い頃に何かあったという事か、それこそ男女の仲だとか」おおよそ、女たちの話の大半は惚れた腫れただ。

「いえ、男女以前です。それこそ弟の親王が生まれるよりも前の事らしいですから。教えてくれた方も、噂の範疇なので真偽は分からないと言うていましたけれど」

 阿倍女帝には同母と異母の弟が一人ずついたが、二人とも早くに亡くなったと聞いている。

「その頃に女帝、阿倍内親王の許嫁として白壁王が選ばれたらしいと聞きました」

「なるほどな。有り得る話だろう、内親王と孫王なのだし。弟の親王が早うに亡うならなければ、その様な流れになっていても、何ら不思議はなかろう」

「そうですね。既に四十年近い昔ゆえ、真偽どころか噂自体を知っている人が少ないとも聞きましたわ」

 四十年も昔となると、中納言宮は二十歳前後、女帝は十歳前後という年回りか。

「わざわざ言い立てて、皇家の不興を買いたい輩も少なかったのだろう。口にして欲しくはなかったのやも知れぬな、皇家としても、宮内省や中務省にしても。何にしても、大昔に流れた縁談だ」わざわざ、掘り返すような話でもなかろう。本人たちも忘れている事かも知れない。

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