第4話 天平宝字八年の事 其の参 右兵衛督の話
しつこいようだが、まだ過去の話だ。近江出兵の時、最高司令に任命されたのは藤原式家の
今までも出兵時にも殆ど接点はなかったが、任務で顔を合わせるようになれば、案外、人懐こい性格だと知れる。同世代という事もあり、少しばかり親しくなると屋敷に招かれるようにもなった。
式家の屋敷は右京二条から四条辺りに固まっている。右兵衛督の屋敷には、異母兄の
「では、
授刀少尉とは藤原種継の事だ。私は十六歳で武官として官界に入った。以来、上位者や上級者を名前で呼ぶなど不敬千万、官名や通称で通す事がすっかり慣例化している。
「ああ。名前からして
「少尉の御母堂が山部氏なのですか」
「いいや、種継の母は
大殿とは白壁王で、若翁とは山部王の事だ。手がかかるとは、聞かん気で手に負えないとか、矜持が高すぎて鼻持ちならないとか、もしかしたら病気がちで目が離せないとでもいう事なのか。いずれもありそうなので、何とはなく納得する。
「しかし、式家の御内室ですよね。そのようは方が孫王(天皇の孫に当たる諸王)より頼まれたとはいえ、乳母になるものなのですか」
「種継の父親、まあ、俺から見れば母親の違う兄だ。その母親の身分はかなり低い。種継の母親も身分を問われれば、決して高いとは言えぬ。それ故、宮家の子息の乳母になれるのなら、願うたり叶うたりと思うたのであろう」
母親の出自や身分を子供に問う例は、藤原氏のような中央の権門だけではない。私の本拠の
「
「興味などと僭越な事は申しませぬ。そうですね、皇族にしては面白い御方だと思います」
「確かに。あの家の方々は、父親からして変わっておられるからな」
「
噂では、孫王で初めて内舎人を務めたという変わり種で、今は太政官一の酒豪として知られる。先頃まで官界上部に名を連ねていた皇族官人は、為政者の移り変わりですっかり影を潜め、今は中納言の白壁王だけが残っている。
「それで、若翁のどの様なところを面白いと思うのだ」
幼馴染の督殿が山部王を若翁と呼ぶのは、特に不思議にも思わない。しかし、授刀衛府では舎人たちもが同じように呼んでいるらしい。当然ながら、この綽名を広めたのは件の種継少尉だ。
「面白いとは言葉の綾です。ただ、随分の辛い立場に立たされておられる、そう思うのです。思う事すら不敬なのやも知れませぬが」
「同情を不敬などとは言わぬ。実際、大殿も若翁も長らく辛い立場に立っておられた。だが、ようようにしがらみから抜け出そうとされている。大殿は皇家の最
「
「ああ、そうだな。そして同じ皇族からもだ」
「中納言宮は
九十年も前の
「近江帝の
督殿が上げた親王家の人々は、浄御原帝の孫や曾孫だ。いずれも皇嗣争いに巻き込まれて命を落とすか、皇籍を剥奪されて流罪に処せられた。もしくは皇籍を自ら返上して天皇に仕える事を誓った。ところが近江帝の末子の
「皇家を見回してみたところで、
つい先頃には、舎人親王家から出た
官界に残る孫王も、近江帝末子のそのまた末子、五十代半ばの白壁王のみだ。何人かの兄や姉が存命らしいが、既に骸骨を乞うた身だ。その子供たちも都にいなかったり、散位で官職に就いていなかったりする。中央官界で目に見える程の活躍をするのは、おそらく山部王くらいだろう。
「先の
「時の
「まあ、誰もが思う通りだがな」督殿は鼻先で笑う。
先の伊勢斎宮、
「今、聖武皇帝の孫に当たられる皇子は三人おられる。しかし二人は、父親を謀反人とする。もう一人は未だ
阿部女帝の異母妹に
井上内親王には女王の他に、
「無理を通せは、立太子は明日にでもできよう。しかし譲位となれば、十年以上は後の話だ」
「つまり、他戸王様の家族として、中納言宮も
「そういう事だ。藤原の各家も例外ではない。宿奈麻呂兄などは、末娘を他戸王に輿入れさせる算段中だ」督殿は長兄の名を上げて、他人事のように笑う。
この人の家は、息子ばかり四人か五人いると聞く。妃云々に関しては、まさに他人事なのだろう。
「どうだ、御身も若翁と知り合いになって、
「滅相もありませぬ。そもそも、私には娘はおりませぬし」
「次は女の子が良いと、御内室は言われているのであろう」
「まあ、日夜、その様に祈願しているようですがね」わざとらしく溜息をついてみる。
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