第3話 天平宝字八年の事 其の弐 宝字八年の乱

 遡った話は更に続く。正月の司召つかさめしから九か月後の天平宝字八年九月十日、この夜に起きた事件が、決定的に山部王やまべのみこを印象付ける事となる。

 宿直とのい兵衛ひょうえ(兵士)が家の門をたたく。すべての衛府に呼集がかかったと、息を切らせて興奮した様子で告げる。更には左右兵衛府のさかん(上級管理官の四番目)以上は授刀衛府たちはきのえふに行けと、大納言の名前で招集がかかっていると言う。

 この当時、大納言の事は御史大夫ぎょしたいふという唐風の呼び方をしていた。しかし、呼集を告げる兵衛はわざわざ大納言と言った。いささか疑問に思えたが、問う間もなく兵衛は次の伝令先に走り去った。


 何か大事が起こる。予てから人の口の端が囁く。この国には三本の柱があるようだと、人々は密かに言う。太上天皇おおきすめらみこと天皇すめらみこと大師だいしのいずれに付くが得策か。上位者に限らず、官人らは常々探る。遠からず三者の均衡が破れ、とてつもない事態になる。誰しもがした予想は、あまりに唐突に予期せぬ形で起こされた。

 授刀衛府の中庭には衛府の四等官(上級管理官)が整列する。その前に進み出たのは、三か月前に就任した授刀督たちはきのかみ、藤原真楯またてだ。

「間もなく中宮院への総出動命令が下される」低く通る声が告げる。

 この人は急病で亡くなった前任の督、藤原御楯みたての異母兄に当たる。真楯と御楯、名前は似ていてややこしいが、立場は大きく違う。察しの良い者はこの人事に思っただろう、授刀衛府は大師の手を離れた。

「我々はそれよりも先に、駅鈴えきれい内印ないいん、太政官印の回収を行う。これは勅命ちょくめいだ」

 誰かが大きく息を継ぎ、別の誰かが密かに喉を鳴らす。言葉にならない緊張感が広がり耳に届く。勅命という言葉はあまりに重い。それが大炊天皇おおいのすめらみことの住まい、中宮院への出動を命じる。つまりは天皇の下した勅命ではない。

 駅鈴を持つ者は、街道に置かれた駅で馬の乗り換え、食料の供給、宿泊などが許可される。各司への命令には、印が押されなければ効力はない。殊に内印とは天皇の御璽、絶対的な命令となる。鈴と印を奪って都の外に出た者が、これらを悪用して偽の命令を振り撒こうものならば、どの様な混乱が起こるか知れたものではない。

 駅鈴と内院は本来、太政官で少納言が管理する。ところが最近では、特別に任命された侍従が天皇の側に侍り、これらの管理も一手に担う。特別の侍従には、大師の子息以下、派閥の上位者が就任している。天皇以外で、これを取り返したいのは誰なのか。答えはおのずと知れて来る。

「まずは少数で正殿の寝所に向かう。かの御方おんかたの身柄を確保し、かみと少納言で鈴と印を押収する。質問は一切受けぬ、各自、命令を待て」授刀督が命じる。


 授刀衛府が中心となり、中宮院正殿に踏み込む。帯刀して先頭に立つのは大尉たいじょう粟田道麻呂あわたのみちまろと員外少尉しょうじょう藤原種継ふじわらのたねつぐ、その後ろに二十人の舎人とねり(ここでは一般の兵士)が続く。そして、授刀督と左兵衛督さひょうえのかみが最後を守るように、開かれた扉の内に消える。帯刀のまま天皇の住まいに乗り込むとは、短くない私の武官生活でも初めての出来事だ。

 私は兵衛らを率いてえんの前に控え、正殿から出された者たちの監視を命じられる。少し離れた場所では、授刀衛府の四等官らが、長弓と長槍を携える舎人らと共に整列する。四等官の一人に員外大尉の山部王もいる。

 数人の授刀舎人が宿直とのい内舎人うどねりらを引き立てて庭に降りる。その一人が何かを問いたそうに、山部王に顔を向ける。しかしみこは気付かないように正殿の扉を睨む。

外衛府がいえふの一隊が到着しました」舎人が王に告げる声が聞こえる。

田村第たむらのだいに派遣された者らか」

「然様です。外衛督がいえのかみも御出でです」

 山部王は年上の部下たちにうなずき、迎えに出ようと舎人に案内を促す。

「田村第にも兵が出ているのですね」大志だいさかんが私に囁く。

 田村第とは、大師藤原恵美押勝ふじわらのえみのおしかつの邸宅だ。先程、授刀督は太政官印の回収も勅命だと言った。印は大師その人が管理し、第宅に保管されている。

 勅命では、天皇の住いする中宮院、大師の田村第への出動を命じる。このような大命を発する事の出来る御方は一人しかいない。その御方、阿倍太上天皇あべのおおきすめらみことは、予てより今日の蜂起を計画していたに違いない。

 目の端に映る正殿のえんで人影が動く。顔を戻して見れば、控えていた授刀舎人が扉を大きく開く。授刀督と左兵衛督が姿を現す。続いて舎人の一群が、数人の者を取り囲みながら出て来る。背の高い舎人の陰で良く見えないが、中心にいるのは大炊天皇おおいのすめらみことその人だろう。きざはしを下りる時に姿が見えたが、冠は着けず、上衣を羽織っただけで服装も整えていない。うな垂れて表情は窺えない。これがどれだけ異様な状況なのか、理解はしているはずなのに、至極当たり前のように私は眺める。

 天皇が裸足のまま庭に降りたのに気を取られていた時だった。いきなり一人の舎人が階を転げ落ちる。そして左兵衛督が声を上げて、縁の上で倒れ込む。何が起きているのか理解できない視線の先で、縁の上を鈍い光が一閃する。誰かが抜刀したのか、何人かの舎人が後ろざまに倒れ込み、何人かは縁から高欄こうらんを越えて飛び降りる。縁の上で雑踏と化した舎人たちの群れが二つに割れると、足音も荒く階を駆け降りる人影が飛び出す。

「捕らえろ」授刀督が叫ぶが、前庭の兵士らも抜き身を振り回す人影に道を譲る。

 隊列を崩した兵衛や大志の姿で、私の視界も塞がれる。右往左往しながらも、とにかく状況を掌握しようと、周囲に目を配り、耳をそばだてる。

「弓を寄こせ」正殿の方向で叫ぶ声が聞こえる。

 ようやく兵衛らを押しのけ、授刀督たちの姿を探そうと正殿の方に目を向ける。階の正面に大柄な一人の男が立ちはかり、門の方向に向けて引き絞った弓を構えるのが見えた。


 授刀大志たちはきのだいさかん牡鹿連おしかのむらじ嶋足しまたりの放った矢は、藤原恵美朝臣ふじわらのえみのあそみ訓儒麻呂くずまろの首を射抜いた。大尉宮たいじょうのみやが訓儒麻呂の足を止めてくれたから、射止める事が出来た。節会の騎射で常に名を馳せる陸奥みちのく出身の強者は、少しばかり恐縮して言う。

 侍従の訓儒麻呂は内印ないいん駅鈴えきれいを奪い、中宮院の包囲を突破しようとした。儚い試みではあるが、手薄だった授刀舎人たちはきとねりと右兵衛の列の間を抜けた時には、運がこの男に味方していたかも知れない。しかし、門の前で立ちはだかったのは、外衛督がいえのかみを出迎えに行った授刀員外大尉だった。件の皇族武官は、咄嗟に大刀たちを抜き放ち、逃亡者と切り結んだ。御飾りと呼ばれる御仁としては、面目躍如というところか。

 こうして中宮院包囲の目的は達成され、大炊天皇おおいのすめらみことの身柄と印や鈴も確保した。訓儒麻呂の他にも抵抗する者がいたが、いずれも授刀舎人らに討ち取られた。

 ところが田村第たむらのだいに向かった者らは、全く逆の状況に遭遇した。誰から何時、情報が漏れたのか、主や一族の者は姿を消し、残された使用人らが狼狽えていた。

 更に驚くには、中納言宮ちゅうなごんのみや白壁王しらかべのみこの屋敷を田村第の家司いえつかさが訪れ、主の二人の息女と子供たちを保護して欲しいと頼んで来たという。衛府に呼集がかかった少し後の事、中納言宮が太政官に向かう直前だった。息女の一人は当然ながら、山部王の内室だ。


 中宮院と田村第の包囲を命じた太上天皇は、大師を謀反人と呼ぶ。かつて賜った押勝の名と藤原朝臣の姓も剥奪して誅殺を命じる。勅命を受け、行く先を近江と定めた討伐隊が編成され、右兵衛にも出兵が命じられる。

 討伐隊は先発と後発の二手に分けられる。先発で発った隊と山背やましろや近江の軍団が、湖の西岸に謀反人らを追い詰めた頃、私も属する後発隊はようやく戦地に到着する。官軍も賊軍も疲弊しきっている。これを好機と、謀反人らを一気に攻め立てる。恵美仲麻呂えみのなかまろらは船で湖上に逃れた。だが、風までがこの者らに味方をしない。船は押し戻され、かつて人臣を極めたその人や一族郎党、女子供に至るまでが捕らえられて惨殺された。

 後に宝字八年の乱、恵美仲麻呂の乱と呼ばれる政治的内乱は、このようにして終わった。私自身は惨劇をそれ程目にしていない。仲麻呂らを追討したのも、地の利のある山背や近江の兵士だった。都から派遣された衛府の者を中心とする軍は、散り散りになった賊軍の後処理や、戦地での統括に充てられた。

 ところが衛府でも、討伐隊に先んじて出兵した一団がある。日が昇る前に都を発ち、近江の軍団と合流し、瀬田橋せたのはしを焼き落として進路を断つ。更には越前国に先回りし、愛発関あらちのせきを固めて北行を阻んだ。この軍に司令官の一人として加わっていたのが、授刀大尉の山部王だった。

 この人が何故、岳父や義兄弟らを討伐する先発部隊に加わる事になったのか。私も人並みに下世話な興味を覚えた。藤原恵美家の娘婿となる事で、太上天皇の不興を買った懲罰的な人事なのか。思ってはみたが、何やらやり切れない思いが沸いて来て、つまらない詮索はやめた。

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