第3話 天平宝字八年の事 其の弐 宝字八年の乱
遡った話は更に続く。正月の
この当時、大納言の事は
何か大事が起こる。予てから人の口の端が囁く。この国には三本の柱があるようだと、人々は密かに言う。
授刀衛府の中庭には衛府の四等官(上級管理官)が整列する。その前に進み出たのは、三か月前に就任した
「間もなく中宮院への総出動命令が下される」低く通る声が告げる。
この人は急病で亡くなった前任の督、藤原
「我々はそれよりも先に、
誰かが大きく息を継ぎ、別の誰かが密かに喉を鳴らす。言葉にならない緊張感が広がり耳に届く。勅命という言葉はあまりに重い。それが
駅鈴を持つ者は、街道に置かれた駅で馬の乗り換え、食料の供給、宿泊などが許可される。各司への命令には、印が押されなければ効力はない。殊に内印とは天皇の御璽、絶対的な命令となる。鈴と印を奪って都の外に出た者が、これらを悪用して偽の命令を振り撒こうものならば、どの様な混乱が起こるか知れたものではない。
駅鈴と内院は本来、太政官で少納言が管理する。ところが最近では、特別に任命された侍従が天皇の側に侍り、これらの管理も一手に担う。特別の侍従には、大師の子息以下、派閥の上位者が就任している。天皇以外で、これを取り返したいのは誰なのか。答えはおのずと知れて来る。
「まずは少数で正殿の寝所に向かう。かの
授刀衛府が中心となり、中宮院正殿に踏み込む。帯刀して先頭に立つのは
私は兵衛らを率いて
数人の授刀舎人が
「
「
「然様です。
山部王は年上の部下たちにうなずき、迎えに出ようと舎人に案内を促す。
「田村第にも兵が出ているのですね」
田村第とは、大師
勅命では、天皇の住いする中宮院、大師の田村第への出動を命じる。このような大命を発する事の出来る御方は一人しかいない。その御方、
目の端に映る正殿の
天皇が裸足のまま庭に降りたのに気を取られていた時だった。いきなり一人の舎人が階を転げ落ちる。そして左兵衛督が声を上げて、縁の上で倒れ込む。何が起きているのか理解できない視線の先で、縁の上を鈍い光が一閃する。誰かが抜刀したのか、何人かの舎人が後ろざまに倒れ込み、何人かは縁から
「捕らえろ」授刀督が叫ぶが、前庭の兵士らも抜き身を振り回す人影に道を譲る。
隊列を崩した兵衛や大志の姿で、私の視界も塞がれる。右往左往しながらも、とにかく状況を掌握しようと、周囲に目を配り、耳をそばだてる。
「弓を寄こせ」正殿の方向で叫ぶ声が聞こえる。
ようやく兵衛らを押しのけ、授刀督たちの姿を探そうと正殿の方に目を向ける。階の正面に大柄な一人の男が立ちはかり、門の方向に向けて引き絞った弓を構えるのが見えた。
侍従の訓儒麻呂は
こうして中宮院包囲の目的は達成され、
ところが
更に驚くには、
中宮院と田村第の包囲を命じた太上天皇は、大師を謀反人と呼ぶ。かつて賜った押勝の名と藤原朝臣の姓も剥奪して誅殺を命じる。勅命を受け、行く先を近江と定めた討伐隊が編成され、右兵衛にも出兵が命じられる。
討伐隊は先発と後発の二手に分けられる。先発で発った隊と
後に宝字八年の乱、恵美仲麻呂の乱と呼ばれる政治的内乱は、このようにして終わった。私自身は惨劇をそれ程目にしていない。仲麻呂らを追討したのも、地の利のある山背や近江の兵士だった。都から派遣された衛府の者を中心とする軍は、散り散りになった賊軍の後処理や、戦地での統括に充てられた。
ところが衛府でも、討伐隊に先んじて出兵した一団がある。日が昇る前に都を発ち、近江の軍団と合流し、
この人が何故、岳父や義兄弟らを討伐する先発部隊に加わる事になったのか。私も人並みに下世話な興味を覚えた。藤原恵美家の娘婿となる事で、太上天皇の不興を買った懲罰的な人事なのか。思ってはみたが、何やらやり切れない思いが沸いて来て、つまらない詮索はやめた。
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