これを人は「愛」と呼ばない

《現在――マモナ城・地下牢》


 思い返せば、あの日の騒動のさなかに覗き見をしていたカラスもいたかもしれない。

 そもそもカラスなど、その辺りを探せばいくらだっているのだ。フィリップの存在を認識して気にかけている今ならばともかく、平凡な毎日の中ではそう気にかけるようなことではない。


「……まぁ、言われてみればキミの使い魔もいたかもしれないね。それで? キミはワタシが処刑されると言っていたが……その言い方ではもう手筈は済んでいるんだろう?」


 今では遠くなってしまった日の記憶を奥底にしまいこみ、ヴィクターが尋ねる。


「ああ。はりきりもののポールちゃんのおかげで、バッチリとな。なにせオマエを交渉材料に、女も権力も手に入れるつもりなんだ。早ければ明日か明後日にはコーディリアからのお迎えがくるはずだぜ」


「ふぅん……。そうかい」


「なんだ、反応薄いな。てっきりオマエなら俺を殺してでもすぐに抜けだすかと思ってたのに」


「今のこの手出しができない状態で抵抗するとでも? どうせワタシが逃げようとしても、さっきみたいにすぐ大人しくさせるつもりなんだろう」


 それが分かっているから動かない。

 今すぐではないにしろ、自分の命がかかっているという状況でヴィクターは冷静にそう述べていた。


「分かってんじゃん。……ま、そういうことだから。俺の計画に賛同してくれないオマエにはもう興味もないし、そのまま迎えがくるまで良い子で待っててくれや」


 フィリップはつまらなそうにそう言うと、ヴィクターにくるりと背を向けて牢の扉の方へと向かう。


「……フィリップ」


「あ? なんだよ。話は終わったぞ」


「お腹がすいた」


「……は?」


 コツコツと牢の中に響くフィリップの靴音。それがピタリと止まる。

 彼を呼び止めたヴィクターの腹がぐぅ、と鳴き声をあげた。


「キミのせいで今日は昼食を食べ損ねてしまったからね。朝からなにも食べていないんだよ。よかったらなにか持ってきてくれないかい?」


「……はぁ」


 フィリップは呆れたように息をつくと、先ほどと同じように黒い羽根とともに牢の外へと空間を移動をした。


「夜になったら持ってきてやるよ。それまで待ってろ」


「うーん、夜か……。でも、その方が都合もいいしワタシも助かるよ」


「……? とりあえずそういうことだ。じゃあまたあとで――あー、いや。まだ一つだけあったな」


 どこか引っかかるヴィクターの物言いにフィリップは疑問符を浮かべるが、どうせこの男のことである。今すぐ食事をとって夜中に腹をすかすことよりも、遅くにとることを選んだのだろう。

 そのままこの場所を去ってしまってもフィリップとしては問題はなかったが、しかし彼にはどうしてもヴィクターにひとつ言っておきたいことがあった。


「なぁヴィクター。……オマエがあの女に感じてる。その感情は――『愛情』なんかじゃなくて、きっと『執着』ってやつだよ。じゃあな」


「……」


 フィリップは別れの挨拶を告げると、長いローブをなびかせながら地下牢をあとにする。

 重い鉄の扉が閉じる音に、彼がここを去ったのだろうということが分かった。


「Hmm。最後まで後味の悪いカラスだね。ワタシはクラリスをこんなにも愛して……いる、という、の、に。……?」


 なぜ、言葉につまったのだろうか。

 その理由も分からないままにヴィクターは首をかしげる。


「――まぁいいか。さてさて、あとは夜まで時間を潰すとでもしよう。本当ならば今すぐクラリスの元へ行きたいが、そもそもここを出られないんじゃあ話にならないからね。……キミ、よかったら話し相手にでもならないかい?」


 はじめは不思議そうにしていたヴィクターであったが、しかし。すぐに彼はけろっとした表情に戻ると、誰かに向けて問いをなげかける。

 彼の声だけが響く空間。訪れる静寂せいじゃく

 その静けさを破ったのは、ヴィクターのいる牢の外――通路を挟んで向かい側にあたるもう一つの牢からであった。


「……分かっていたか」


素人しろうとがいくら気配を殺そうとしたって、分かるものはすぐに分かるからね。ワタシだって、ただ馬鹿みたいに独り言をしゃべっていたわけではないよ」


 聞こえてきたのは少しだけ年齢を感じさせる男の声であった。

 渋いと言われればそうとも思えるが、どこか威厳ある声音こわねは聞く者を有無もいわさず黙らせる迫力がある。


「先ほどの魔法使いとの会話を聞いていたが……お前が数ヶ月前にコーディリアから王女を連れ去ったと言われている魔法使い、ヴィクター・ヴァルプルギスで間違いないのか」


「Um……半分正解、半分不正解ってところかな。たしかにワタシ自身はヴィクター・ヴァルプルギスなのだろう。だが……今のワタシはもう、ヴァルプルギスの名は捨てたも同然なのさ」


「ほう。それはなぜなんだ?」


「決まっている。なんといっても、ワタシはクラリスと添い遂げる男なんだからね。彼女と同じアークライトを名乗るために、あらかじめ席はあけているのさ。それに――ヴァルプルギスなどという罪にまみれた名前を彼女に与えることはできないよ」


 そう、初めてクラリスと出会った時にヴィクターは決めていた。だから彼はクラリスの前でファミリーネームを名乗ったことは一度もない。

 この名前は、彼らにとっては必要のない名前なのだから。


「それで。ワタシのことは話したがキミの方はどうなんだい? ワタシの予想が正しければ……」


 ヴィクターが視線を向けると、相手も同じように自分を見ているのだろう。薄暗い牢の中から直接は見えずとも、視線がぶつかるのを感じる。

 確証はない。しかしヴィクターは確信をもって、彼のことを呼んだ。


「前マモナ国王。……消えたはずの王宮の人間がなぜこんなところにいるんだい?」

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