〈回想〉ヴィクター・ヴァルプルギスの初恋

《過去》


 最初はなぜこのヴィクターワタシが、ただの人間の子守りなどしなければならないのか、と。そう思っていた。


 《最果ての塔の魔法使い》に屈辱くつじょく的な敗北してからもうすでに二百年近くは経っていただろうか。

 魔法使いの秩序をたもつための大組織――魔法局に捕らえられ、その管轄かんかつの元、徹底的に人間としての常識とマナーをたたきこまれた二百年。

 なぜそんなことをさせられていたのかは分からない。だが、罰としては明らかに生ぬるい贖罪しょくざいのための時間は、それでもヴィクターにとってはとても退屈で永遠に感じるものであった。


 そんな彼の更生の場として用意されたものが、世界の中でも有数の大国として知られているコーディリア国――その中でも国王の愛娘まなむすめである王女、クラリス・アークライトの教育係というものであった。

 なんでもヴィクターの指導をしていた師である魔法使いが国王と以前より親しくしていたらしい。

 師は「君ならきっと、彼女のことを気に入るから」などと言ってはいたが、はたして本当だろうか。


 ――一度は世界を壊そうとした罪人を招こうなどと、なんともお人好しな王もいたものだね。


 しかし、ヴィクター・ヴァルプルギスにとっては更生なんてもの、興味がない。楽しくない。つまらない。おこなう意味さえ分からない。

 大国の王族が相手だ。この国ごと乗っとって、今度はここを拠点にもう一度世界を壊してやろうと。むしろ彼はそんな算段さえたてていたのだ。


 そして実際にヴィクターがコーディリア国へと足を踏み入れたあの日。

 招かれた先の城の人間たちはヴィクターを警戒する様子もなく、家族同然のように彼を迎え入れた。

 王や王妃に謁見えっけんし、上辺だけの笑顔と言葉で口裏を合わせる。若き王子には「どうすれば、あなたのように背が伸びるのだろうか?」などと問いかけられたが、そんな馬鹿丸だしのような質問には適当にはぐらかして答えた。


 残るのは当の王女クラリスだけであったが、彼女の部屋へと案内される頃にはヴィクターの頭の中はこれからどう国を乗っとっていくかを考えることでいっぱいだった。

 昔のように力で支配してもいいが、せっかく王宮へと配属されたのだ。クラリスが女であることを利用して、内側から支配していくこともよいかもしれない。顔には昔から自信があるのだ。


 ――あぁ、考えただけでワクワクするね。さて。あとはワタシが世話をさせられる王女の顔をおがむだけだが――


 案内された先にある王女の私室。

 控えめにノックをすれば、中からは透き通るような少女の声で返事がされた。


「鍵なら開いてるわよ。どうぞ入ってきて」


「……ならば遠慮なく」


 ヴィクターが扉を開き、するりと王女の部屋へ入室する。

 どうやら王女は窓辺の椅子に腰をかけながら本を読んでいたらしい。逆光で顔は見えなかったが、たしかにそこに存在するまだうら若き少女の姿。

 本が閉じられた音がヴィクターの耳まで届き、彼はそうしつけられたように手本のようなお辞儀をしてみせた。


「お初にお目にかかります、クラリス王女。本日からあなたの教育係へと任命され――」


「まぁ! あなたが新しい教育係の人なのね! 私はクラリス・アークライト。今日あなたが来るのをずっと楽しみにしていたのよ!」


 ――まだワタシの挨拶の途中だろう!


 いくら王族といえど、今のはマナー違反である。

 そう指摘してやりたい気持ちを抑えて、ヴィクターは顔を上げ――


「――は」


 ぽこん、とヴィクターの背後に小さな花火が打ち上がる。

 彼の瞳は、椅子から立ち上がり自分を見ては嬉しそうに笑う、目の前の少女の姿へとくぎづけになっていた。

 光に当てられキラキラと輝く金色の髪も、海のように深く青い瞳も、よく見える今なら分かる。今までヴィクターの見てきたどの女や宝石や宝物よりも、彼女は美しく魅力的で。


「あなたのお名前はなんていうのかしら?」


「……ヴィクター……です」


「ヴィクター! すっごくいいお名前ね!」


「ッ!」


 どうしてか顔が熱い。名前を呼ばれるだけのことがこんなにも嬉しいだなんて、そんなのおかしい。あぁ、心臓がこんなにもうるさいだなんて! もしや、気がつかない間になにか自分の知らない魔法や呪いのたぐいでも使われてしまったのだろうか。

 もしもこの場に彼ら以外の人間がいたのならば――きっと、それを『恋の魔法』とでも名づけただろう。


「それじゃあ、これからよろしくね。ヴィクター!」


「……ッ、はい。クラリス……王女」


 もう、自分が上手く笑えているのかすら分からない。作り笑いなんて、今まで数えきれないほどこなしてきたというのに。


 ――このワタシが……まさか。


 恋する魔法使い『ヴィクター』の物語は、こんな些細ささいな一目惚れから始まったのである。

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