不安、形となって

「ほら、起きてヴィクター。いつまで寝てるの。もうお昼よ!」


 耳になじみのある自分を呼ぶ声。大好きな、彼女の声。


「クラリス……? うん……もう、そんな時間か……」


 覚醒しきらず働かない頭で、それでも彼女の顔を見ようとまだ消える気配のない眠気を押しのけてまぶたを開く。

 声はすぐ近くから聞こえていたが、それはどうやら彼女がヴィクターの腹の上にまたがっていたかららしい。

 彼女はヴィクターが起きたことに気がつくと、嬉しそうに笑って彼の頬をつついた。


「やっと起きたわね。あなたが起きるのずっと待ってたんだから」


「……ん、それはすまないね。なにかワタシに用事でも……?」


 どうにも頭の中がかすみがかっていてうまく考えられない。

 いつもならばなにか彼女に賛辞さんじの言葉を述べたり、厄介な呪い花火をだしながら照れたり、慌ただしくしていた気がするのに。

 それに昨晩はたしか、なにか悲しいことがあったような気も――


「実はね。私、ヴィクターにお別れをしにきたの」


「お別れ……?」


「そう。お別れ」


 その時。ヴィクターは彼女の手になにかが握られていることに気がつく。

 おぼろげな意識でありながらも、それがなんであるのかはよく分かる。彼女に似つかわしくない、銀色の鋭い輝き。


「――?」


 窓からさしこむ光が反射して、目を細めた一瞬。


「――あ、え。クラ、リス……?」


「あなたが悪いのよ。ヴィクター。あなたが私の話を聞いてくれないから」


 気がつけば、彼女がそれまで手にしていたは――ヴィクターの左胸へと深々と突き刺さっていた。


「なん、で……?」


「おとなしく私の言うこと聞いてくれればよかったのに。はずっとそうだったでしょ? でも聞いてくれなかったから、仕方なくあなたを殺すの。――あなたが世界中でしてきたように」


 ナイフが抜かれる。また刺される。抜かれる。刺される。

 思わずきこんだ喉からは血液があふれ、何度も何度も腕を上下に動かす彼女の手元を赤く汚す。手だけではない。もう幾度となく返り血を浴びた彼女の顔は――


 ――あの時みたいだ。


 一際ひときわ大きく、ナイフを持った腕が振り上げられる。


「ねぇ、ヴィクター」


 ――まって。


 この先彼女がなんと言うのか、なぜか自分は知っている。なんで知っているのかは分からない。分からないけれど、知っている。聞きたくない。自分の心の奥底に眠るほんの少しの、ヴィクター自身ですら気がついていない、小指の先程度の後悔なんて――彼女の口から聞かせられたくない。


「まっ、て。ク、ラリス。おね、がいだ、から。ま――」


「待たせてくれなかったのは、あなたの方でしょ。本当なら私は」


「あ――」


 反射した銀色から目が離せない。

 自分の胸から、ドスリと音がする。でも。

 痛いとか、死ぬとか、そんなことはどうだっていい。今はただ聞きたくない。


 ――待って。お願いだから、その先を言わないで。その先は――


「あなたさえ私の前に現れなければ、きっと私は……今頃と幸せに過ごしていたのに」



□■□■



「――ッ! ……あ?」


 次に聞こえたのは、鳥の声だった。

 今しがた感じていたよりも、少し優しい陽の光。

 無意識に飛び起きた身体は汗に濡れていて、全力で走った後のように息がうまくつづかない。


「ゆ、め……?」


 息を整えながら何度もナイフを刺されたはずの胸に手を当てるが、手に触れたのは赤い血ではなくベタつくような汗。

 まだぼやけた頭で辺りを見回してみるが、そこにの姿はなかった。すべて、夢だった。


「……くそ」


 ヴィクターはベッドから降りると、パチリと指を鳴らして魔法で寝癖や着衣などの最低限の身なりを整える。

 魔法の力は偉大である。汗による服のベタつきはすでに消えていたが、どうにも彼はシャワーを浴びたい気分だった。

 部屋を出てシャワールームへ向かう最中、隣のクラリスの部屋は意識的に見ないように避けて廊下を歩く。

 幸いながら誰にも出くわすこともなく目的地に着いたヴィクターは、今朝方みた嫌な夢を頭の中から洗い流すかのように、ただうつむいて暖かな雨に身をゆだねていた。


 それから何分そうしていたのだろう。

 シャワールームを出て今一度身なりを整えたヴィクターは、階段をおりてダイニングへと顔をだす。


「……あっ」


 遠くからでも分かるコーヒーの匂いに誰かがいるのだろうということは分かっていた。

 しかし。


「や、やぁ……クラリス。おはよう」


 そこにいたのは、今一番会うのが気まずい相手であった。

 クラリスは手にしていたカップをテーブルに置くと、あちらも気まずいのだろう。彼女の目はチラリとだけヴィクターを映すと、またすぐに別の場所へとそらされた。


「おはよう、ヴィクター。あなたすごく顔色が悪いけど……その、大丈夫なの」


「ん。あぁ、はは……大丈夫さ。いつも通り元気だよ。むしろ寝起きからキミの可愛らしい顔を――いや、なんでもない。メアリーたちは?」


「二人ともご飯のしたくをしてるわ。もうお昼も近いから、せっかくだし昨日みたいに食べていけばって」


「そうかい……」


 いつもならばスラスラとでてくる彼女への称賛しょうさんの言葉も、今ばかりは口にすることがはばかられる。

 どうにも測りかねる距離感に困惑して、ヴィクターは席につくこともせずダイニングの入口でなんと声をかければいいのかを考えあぐねていた。


 ――一応、話しはしてくれるみたいだが……。どうしたら仲直りまでもっていけるだろうか。そもそも今までどうやって話していたんだっけ……


「ヴィクター」


「んっ!? な、なんだいクラリス」


 考えに没頭していたせいか、突然呼びかけられた驚きでおおげさにヴィクターの肩が跳ねた。

 その姿を見て少しだけ緩んだクラリスの表情にどこか安心を覚える。


「私……プリンが食べたい」


「……え? プディングかい? キミが望むならば今すぐにでも買いに出かけるが……」


「うん。昨日食べたやつ。アレがいいわ。すごく美味しかったんだけど、ヴィクターはまだ食べてないでしょ?」


「たしかにそうだけれど……」


 急なお願いにヴィクターが頭を混乱させていると、今度こそクラリスはくすりと笑ってようやく彼の瞳を見た。


「じゃあいっしょに食べましょう。アレを食べないだなんてもったいないわ。いっしょに食べて……仲直りしましょ。細かい話はそれから」


「ッ! Ah、もちろんだ! 今すぐ買ってこよう。ランチまでには間に合わせるから、少しだけ待っていてくれたまえ!」


 ヴィクターの背後にぽこん、と小さな花火が打ち上がる。

 彼は大慌てでダイニングを飛びだすと、そのまま宿を出て昨日訪れた菓子店目がけてステップを踏みだした。

 ドタバタと聞こえる足音はすぐに遠ざかっていき、カップに口をつけたクラリスは今さっきのヴィクターの嬉しそうな顔を思い返して無意識に口角をあげる。


「あれ? 今ヴィクターお兄さんの声が聞こえた気がしたんだけど……。クラリスお姉ちゃん、今お話ししてたよね?」


 先ほどの会話の声が聞こえていたのだろう。

 奥のキッチンからやってきたメアリーが部屋の中をぐるりと見回し、クラリスに問いかける。


「ええ。ちょっとおつかい頼んじゃったの。もしかしたら昨日の美味しいプリン、また買ってきてくれるかもしれないわよ」


「本当に? やったー!」


 両手を上げて喜ぶ様はなんと愛らしいのだろうか。

 せっかく待つのならば彼女たちの手伝いをして待っていようと、クラリスが席を立つ。


 ――ヴィクターが帰ってきたら、昨日のことを謝って、もう一度ちゃんと相談しよう。


 今度は落ち着いて話ができる気がする。

 と、クラリスがそんなことを考えているうちに入口の方で再度ドアベルがカラコロと鳴り響く音がダイニングにまで届く。


「あら? ヴィクターったら、もう戻ってきたのかしら」


 あまりにも早い帰りに、クラリスは疑問に思いながらも音のした方向へと振り返る。


「どうしたのヴィクター。なにか忘れ物でも――」

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