すれ違う二人

《数時間後》


「んー……やっぱり久々に美味しいご飯を食べて、シャワーを浴びて、これからふかふかのベッドで眠る……。普通の人間らしい生活ができるっていいもんだなぁ」


 割り当てられた自室に入るやいなや、ヴィクターは大きなあくびをしてベッド脇の窓を開いた。

 シャワーを浴びてきたばかりで火照ほてった身体を包みこむ夜風が気持ちいい。


 時刻としては間もなく日付けを超えるくらいだろうか。

 小さな路地の一角から見える景色は面白いものではないが、人々が寝静まった無音にも近い街を一人でぼーっと眺めるのがヴィクターは好きだった。

 それは時に猫や鳥先客のいる屋根の上や、人っ子一人通らないような場所にあるベンチの上。気が向けば空を飛んで街全体を見下ろすこともある。

 いつもはお喋りな彼が、珍しく頭を空っぽにして世界と向き合う時間。


 しかし髪も乾かさずに風に当たっていては身体も冷えるもので。

 ヴィクターはベッドの上の毛布をたぐりよせると、常人よりも少し大きな自分の身体をすっぽりと隠すかのようにそれを頭から被った。髪に残ったしずくで濡れることもかまわずに。


「……」


 そうしながら何分が経っただろうか。

 不意に彼の部屋の扉が小さな音でノックされる。

 突然のことに驚きながらもチラリと壁にかかった時計に目をやれば、短い針は頂点から少し右へと進んでいた。


「ねぇ、ヴィクター。起きてる?」


「……クラリス?」


 一瞬空耳かと思ったが、そうではない。

 他の部屋で眠っているジェイクやメアリーを気遣ってだろう。

 ノックの音と同じくひかえめなクラリスの声は、ドアの外からかすかに聞こえるほどしかヴィクターの耳には届かなかった。それでも。


「え、ちょ、まっ、なんで。えっ」


 そこでようやく彼女の存在を認識して、彼の頭のスイッチが切り替わった。

 ヴィクターは慌てて毛布をとっぱらい、ベッドから転げ落ちそうになりながら扉へ向かうと一度深呼吸してからゆっくりと扉を開いた。


「や、やぁクラリス。ど、どどどうしたんだね。こんな夜遅くに」


 深呼吸のかいもなく、舌がもつれた挨拶で出迎えをしてしまったことは許してほしい。

 宿の方で貸しだしをしていた寝巻きに着替えていたクラリスは、精一杯の平常心を保っているつもりのヴィクターを見てもいつものように馬鹿にはしてこなかった。


「こんばんは、ヴィクター。実は少しお話したいことがあって……もしかして起こしてしまったかしら……?」


「ん? んー? い、いやまだ起きていたところだから大丈夫だよ。えっと、とりあえず廊下にいるのもなんだし入りたまえ」


 うながされたとおりに部屋へと入ったクラリスは、そのまままっすぐに進んでベッドの端へと腰かける。

 行き場をなくしたヴィクターは、とりあえず部屋のすみに置かれた丸テーブルとセットの椅子へと同じように腰かけた。


「えっと、まさかキミがこんな夜中に尋ねてくるだなんて。あぁ、うん、なんというか初めてでワタシも少し緊張してしまってるのだがね。もしやこれは期待しても――」


「ねぇ、ヴィクター」


 口元にこぶしを当てながらキョロキョロと部屋の中に目線をさ迷わせるヴィクターであったが、そんな彼とは対照的にクラリスはうつむき気味にヴィクターの名を呼びかけた。


「あのね。私、さっきのあなたやジェイクさんの話を聞いて、相談しようと思ったことがあるの」


「……言ってみたまえ」


 思いつめた様子で話を切りだしたクラリスを見て、ヴィクターはようやく自分が勝手に舞いあがっていたことに気がつく。

 彼は長い足を組んでクラリスの話を聞く姿勢をつくると、 少し言いよどんだ様子の彼女に続きをうながした。


「うん。……メアリーちゃんのお母さんのマリーさん……今はお城に軟禁されてるって、ジェイクさん言ってたわよね」


「ああ」


「二人とも明るく振舞ってはいるけれど、私はあのままマリーさんに会えずに三人が引き裂かれたままになるなんて嫌。見過ごすなんてできないの」


「……ああ」


 時計の長針が一つ進む。

 クラリスはベッドの端から立ち上がると、ヴィクターの前までやってきて彼を見下ろす。

 月明かりに照らされた室内。クラリスの影はヴィクターの表情を覆い隠し、窓から吹きこんだ冷たい風が二人の間を流れていく。


「それで、キミはワタシになにをお願いしたいんだい」


 伏し目がちにして投げた問いかけに、クラリスはしっかりと自分の意思を示してきた。


「明日、マリーさんや他の連れていかれた女の人たちを解放してもらえるよう、王様に言いに行く。だからヴィクターには私といっしょに王様のところに行ってほしいの」


「なぜ?」


「えっ?」


「なぜだと聞いている。なぜ、ワタシとキミがわざわざ縁もゆかりも無い人間たちを助けるために危険をおかさなければならない」


「縁ならあるじゃない。今日だっていっしょにご飯を食べたし、お話だってしたし、宿にも泊めてもらった。もう立派に縁なら結ばれてるわ」


「それだけで? ……くだらない。それじゃあキミはこれから旅の途中で出会うそういった人間たち一人一人の悩みでも解決して回る気でいるのかい? 馬鹿を言わないでくれ。それにキミがいくら彼らに同情していようと、ワタシにとってはあんなの赤の他人だ。可哀想な身の上話を聞いたところで、なにかをしてやろうという気にはまったくならないよ。――ワタシたちの旅に、縁なんてものは必要ない」


 クラリスへと返ってきたのは、想像よりも冷たい反応だった。

 なんだかんだ言いつつも、ヴィクターならばきっと手伝ってくれる。そう思って相談をしにきたのに。


「なによ、その言い方。ならあなたはこのままメアリーちゃんたちが離れ離れなままでもいいっていうの?」


「今までだってそうしてきたんだろう。なら別にいいじゃあないか。特に生活に不自由が起きているわけでもないようだし」


「気持ちの問題よ。家族が他人のせいでバラバラになるだなんて、そんなのいいはずがない。……離れ離れは寂しいんだよ」


「それならば他人のワタシたちが関わる筋合いだってないはずだろう」


 これ以上は言い争っても無駄だということは、さすがのクラリスにも分かった。

 おそらくこのままヴィクターをいくら説得しようとしたところで、彼が考えを変えるなんてことなど到底ありえない。


「……日頃から少し考えが違うとは思ってたけど、まさかここまで薄情はくじょうな人だとは思ってなかったわ。魔法使いだからって、弱い人間の気持ちも考えられないようなあなたに相談した私が馬鹿だった――」


 ――あっ。


 わずかではあるが、月明かりと影の隙間でヴィクターの口の端がひくりと動いたのが目に映る。


 ――ちがう。私は別に、こんな言い方をしたかったわけじゃないのに。


 ヴィクターの言い分も分かっている。国を去れば会うこともない相手に必要以上に情をかけるべきではない。

 それはクラリスも分かってはいるが、ここまで話して引き下がれなくなったことと、彼の言い方に腹が立ったこと。その二つが彼女にこのような言い方をさせたのだ。


「クラリスは……こんな薄情なワタシは嫌いかい」


「……」


「ワタシはいつだって、キミを一番大事に想っている。他のすべてを切り捨ててでもだ。いつも馬鹿みたいに愛を囁いているのは、からかっているからでも、自己満足のためでもない。心の底からそう思っているならなんだよ。へたなことに首をつっこんで、キミを失いたくはないんだ」


 ヴィクターはクラリスと目を合わせようとはしなかった。


「分かってくれ。きっとじきにこの国にも故郷から追っ手がやってくるかもしれない。ワタシたちはここで長い時間油を売っている暇はないんだ。明日になったらこの国を出る方法を探すから、キミも――」


「なによそれ」


 思わずクラリスの口からもれた言葉は、ヴィクターの話をつにはじゅうぶんだった。


「そもそも私が記憶を失ったのも、望まない旅をさせられているのも、元はと言えばあなたのせいじゃない」


「それ、は……」


「自分はいつも私を危険に巻きこむくせに、都合よく恋人面ばかりして。私はあなたのことなんてなんとも思ってないのに、好意の押し売りばかりしてこないで。私の気持ちも分かってよ。どうせ本当はヴィクターも、私のことなんて――あ」


 その時。

 クラリスが一歩後ろに下がったことで、今まで影でよく見えなかったヴィクターの顔が月明かりに照らされた。


 ――なんで。


 それまで意図的にそらしていたのであろう二つの紫檀色したんいろの瞳は、今度はしっかりと彼女を見つめていた。

 少し開いた口はきっとなにかを言おうとしたのだろう。


 ――なんで、そんな泣きそうな顔をするのよ。


 いつもは飄々ひょうひょうとした雰囲気をもつ整った顔も、今はまるで子どもが泣きだす一歩手前のような顔となっていた。

 後悔しても遅い。もう彼はすべて聞いている。

 自分が酷いことを言ってしまったことに気がついたクラリスの耳に、消え入りそうな声で「ごめん」と。そんな言葉が聞こえた気がした。


「……ッ」


「あ、クラリス……」


 クラリスは自分の名が呼ばれたことに振り返ることなく、早足にその部屋から逃げだした。

 その先は月明かりすら届かなくなった、真っ暗な廊下。

 彼女は後ろ手に扉を閉めると、扉に背中をつけたままズルズルとその場に座りこみ、膝を抱えたまま背中を丸める。


「なんであんな言い方しちゃったんだろう」


 あんなことを言うために話しをしにいったわけじゃないのに。わざとヴィクターが傷つくようなことを言ってしまった。

 いつもなら彼女を追ってやってきそうな彼の姿は、どれだけ待っていても現れることはなかった。


「……明日になったら、謝ろう」


 もう寝てしまったのならば起こすわけにもいかない。

 なにより、今またすぐにヴィクターと顔を合わせることはクラリスにとっても気まずかった。


 そして、どれぐらいそうしていたのだろうか。

 自分の割り当てられた部屋へと戻ってきたクラリスは、ベッドへ潜りこむと身体を丸めて目をつむる。

 あれだけ楽しみにしていたふかふかのベッドも、今はただ冷たいと感じるだけだった。

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