キィ7 思い出


「ね、センセ」

「どうしました」


 ここ最近、弟子らの距離がどうにも近いように思う。


 挨拶するだけで常より一歩近く。

 雑談をするとなると時折、指先が相手と触れ合ってしまう。

 それを把握するだに半歩ほど下がろうとすれば、ごく当たり前に同じだけ距離を詰められる。


 あまり露骨に離れるというのも心象悪いだろうし、あらぬ誤解で悲しませてしまうかもしれない。

 デリケートな問題に、アカは注意するのもはばかられていた。


 きっかけは考えるまでもなく、一度アカが死したあの時であろう。

 あれを境に、彼女らがアカをどこか危うげに見ているのだ。


 たとえるのなら、手を離すと空へと消えていく風船のような。

 たとえるのなら、今にも消えそうなロウソクの灯のような。


 アカが誰もと同じように生きていて、そしてともすれば死んでしまうという事実にはじめて直面した、のかもしれない。


 身近なものの死をにおわせる相は、たしかに穏やかではいられまい。

 なおかつ、今のアカは弱体化しており、本当に死に近いように思えても仕方がない。

 その存在を確かめるように近寄って、触れて暖かみを感じ取りたいと願うのは、あるいは仕方がないことなのかもしれない。


 特にそれが顕著なのがキィであった。


 今日も今日とて声をかけながらも接近する歩は止めない。

 すこし前ならば停止していたであろうラインを幻視するも、その線引きはあっさりと踏み越えられてしまう。


 もはやぶつかるのでは、といったギリギリでようやくキィは止まり――ほとんど触れ合っている――背丈の違い分だけアカを見上げて言葉を続ける。


「ちょっとセンセにテストしてもいい?」


 言葉の上や態度においてはいつもとなんら変わりないよう。

 こうした会話上のお遊びめいた提案は、昔からけっこうな頻度であったものだ。


 アカは特段に驚かず、まずはその内側を知ろうとする。


「テストですか? はぁ、しかしどういったもので?」

「記憶力のテスト!」

「……ええと」


 とはいえ、こうした急の話題振りにはどうにも間に合わない。

 アカは意味を理解すべく思考を回すが、ちょっと想像に及ばない。

 

 ともかく時間稼ぎとばかりリビングへ向かおうと告げる。廊下で出くわしたのはいいが、長話になるならちゃんと座ったほうがいいだろう。


 素直に頷くキィとともにリビング、ダイニングへ。

 テーブルに向かい合わせに座れば、随分と距離が離れたように思えた。


 すぐに溌剌、キィは芝居がかって言い放つ。


「じゃ、第一問!

 センセ、ずっと昔に友達になったひとのこと、覚えてる?」

「ええ、もちろん。ただ、ずっと昔というのはどれくらいのことを指すのでしょう」

「む。ええと」


 すこし考え。


「ひゃっ、百年前とか」

「覚えていますよ」


 即答だった。

 アカにとってそのくらいなら、充分に鮮明に思い起こせる範囲である。

 というか五百年ほど顔を合わせていなかった師のことさえ、アカは片時も忘れていなかった。


 とはいえ余人からすれば程度は測りがたい。

 キィはちょっと追撃。


「でも覚えてるって言っても、どれくらい鮮明かな」

「どのくらい、ですか」

「姿はきっと覚えてるんだよね。たぶんなにを言ったかとかどんな話をしたのかとかも、覚えてるかな」


 そのくらいは記憶していなければ自信をもって覚えているとは断ぜられまい。

 けれど。


「じゃあ声はどんなだったかな。背丈は明確? においとか、触れた時の感触はどうかな。なにに怒ってなにに喜んで、好きな食べ物とか嫌いな食べ物、交友関係……全部全部、ちゃんと覚えてる?」

「……そこまで細かいとなると、どうでしょう」


 はたと気が付く。

 記憶力に自信はある、覚えているはずだと思う。けれど、それを証明する方法がない。

 なにせかつての彼らを記憶しているのは、アカだけなのだから。

 自らの記憶と確かな過去。それがたとえ昨日のことであれ、たしょうなり齟齬があってしかるべきであり……であるならば百年前。

 アカの記憶は色あせていなくとも、どこか欠損や――忘れたことすら忘れてしまったなにかがあるかもしれない。


 確信をもって断じたはずが、アカは急に不安になってしまう。


 エインワイスだけは、まるで変わらず記憶通りの彼女であったが。

 あれは例外――すこし言い淀み、その淀みを悟られまいとアカのほうから聞き返す。


「しかしまたどうしてそのようなことを聞きたがるのです?」


 言うと、キィはなぜだか俯いて。


「いつか、センセと別れる時がきて」

「…………」

「それで、それでさ。そのあとに、センセはわたしのこと、どれくらい覚えててくれるのかなって、ちょっと気になっちゃってさ」


 もしもアカと別れることになったら――いや、もしもではない。

 時の流れは止まらない。人は老い、滅び去る定め。

 ならば必ず終わりは訪れる。


 じゃあ終わった後にも残るものって、なんだろう。アカの記憶には、キィはちゃんと百年先にも存在してくれているのだろうか。


 アカがなにか言おうとして、けれどそれより先に遮るようキィは続ける。


「出会った頃は」

「はい」

「別れるなんて考えもしなかった」


 いつだってはりまりがあれば終わりがある。

 なのにはじまりの時に、終わりということについて思いもよらないもので。

 ふと振り返って急に終わりが想像できてしまい、恐ろしくなる。


 せっかくの今が、大切な今日が。

 必ず終わりを迎えてしまう。

 それがなにより恐怖なのだ。


 キィは似合わない暗い表情で、不安に怯えている。


「でも今は、なんでかな、さよならばっかり思い浮かぶ。これってやっぱりさびしいからかな?」

「そう、なのでしょう」


 あまり心の動きについて断言はできない。

 心を捉えることに成功した空前絶後の魔法使いでも、やはりできないのだ。


「センセは、きっと何度も別れたんだよね。ずっとずっと長く生きて、たくさんの人と出会って、その分だけ別れて――辛くなかったのかな」


 自分は、今にも張り裂けそうだというのに。

 けれどアカは穏やかに笑う。


「出会いは得難く、別れは受け止め難い。けれど、だからと出会わなければよかったと、そんなことは――」

「思わないっ、ぜったいにそれだけはないよ!」

「では、私も同じですよ」

「……」


 すこしキィの目が細く鋭くなったのは、ずるいという非難が混じっているのだろう。

 言葉巧みに丸め込んで自分で答えを言わせる、というのはされる側にとってあまり面白くはないか。


 アカは苦笑して。


「本当に悲しいことは、途中で続かなくなることだと私は思います」

「続かなくなる?」


 それは、終わることとなにが違うのか。

 あまり飲み込めずに首を傾げる少女に、アカは続ける。


「はじめて、けれど中途半端なところで挫折したり、諦めたり、そういう終わりにすら辿り着けないことこそが最も辛いのでしょう。

 さよならと別れすら言えずに遠のいてしまうことこそが――傷として、残ってしまう」


 きっとそういう経験もあるのだろう。

 アカは伏し目がちにどこか目の前のキィを見ているようで見ていない。


 いや、そうか。

 キィは思い出す、アカから聞いた――最初の弟子。


 彼とは、まず間違いなく別れの言葉もなく唐突に引き離された。


「楽しいことや心地よいことの終わりは、たしかに心に穴を開けてしまうかもしれません。けれどその穴はまた新たな出会いやはじまりで埋めることができるはずです。後に残ることはなく、きっと次に歩き出せますよ」

「中途半端が、いちばん辛い。後悔が残るから……」


 傷と穴の違い。

 そして、記憶と思い出の違い、だ。


「キィ、私はあなたのことを忘れたりしませんよ。約束します。死ぬまでずっと、あなたは私の思い出のなかにいます。毎日、あなたのことを考えていますよ」

「……あは」


 乾いた笑みとともに、キィは俯く。


 いつも。

 いつもこのひとは、一番欲しい言葉をくれる。


 様々に駆け巡る思いをなんとか飲み下し、大事な言葉を胸の宝箱に仕舞って、なんとか明るく顔を上げる。


「でもね、センセ」

「はい?」


 ひとつだけ、どうしても言いたい。


「大きすぎる穴だって、たぶん閉じてはくれないんだよ?」


 無二の相手だって、きっといる。

 傷より深く、底すら見えない。癒えることも埋めることもできな大きな穴は。

 同じその人にでしか決して閉じない。


 そしてキィにとってそれは。


「だから、ぜったい。ぜったいに、センセ、一度すこしだけ離れても――おわかれなんかじゃない。だって」


 きらきらと、輝ける太陽のような。

 どこまでも美しく愛らしい笑みをたたえ。


「だってぜったい、また会えるもんっ!」


 キィは再会の約束を送るのだった。

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