80 翠天の


「――不愉快な魔力を感じたかと思えば、まさかお前が目覚めているとはな、瑠天のエインワイス」


 ぞぞ、と。

 寒気にも似た怖気が走る。


 影の門を潜ってどこでもないどこか遠くから、それは現れた。

 その出現だけで、クロは想像を絶する嫌悪感に襲われる。


 瑠天のエインワイスはただひたすらの無関心。だからクロに向ける害意もなにもない。本当に空気のようとさえ思えた。

 赫天のアーヴァンウィンクルは自ら威を隠して地に配慮し続けていた。だから恐れなどなく暖かいとさえ思えた。


 だがこいつは違う。

 こいつはひたすらに自らの度外れた力を周囲に発散し憚ることなどない。

 自らの圧倒的な力とその滾る憎悪が近くあるだけで誰もを害すると理解しながらあえてそうする。


 背中の届かないところに害虫が這っているような。

 眼球の裏側で得体のしれない汚濁が充満しているような。

 魂を、無遠慮不躾に撫でまわされ抉られているような。


 筆舌に尽くしがたい阿鼻叫喚の厭悪。幼き少女に、耐えられるものではない。

 クロは恥もなにもなく胃袋のものをすべて吐しゃしてしまう。

 震え、恐怖し、生理的嫌悪に狂いそうになる。

 涙さえ滲んで――それでもその眼光だけは鋭くそれを睨む。

 なぜならそれは、彼女にとってこの世で最も許せない最低最悪の――


「お久しぶりですね、ルギス。翠天のルギス、我が兄弟子」


 妙に長身であるが筋肉質とは言い難く、ひょろりと伸びた枯れ木のような男。

 濁った灰色の髪は雑に伸びて清潔感に欠ける。

 病人のように青い顔、目元には隈、なのにその翠の目つきだけが破滅的に輝いては血走って毒々しい。

 光を飲み込むような真っ黒のローブを纏い、日中であるというのに陰鬱で暗澹たるを発散している。


 在るだけで、空の陽すら霞ませる。


 それこそが最悪。

 それこそが翠の天。

 彼こそが――翠天のルギス。


 三天導師のひとりにして世界で二番目の魔術師、御伽噺の悪役。

 アカの兄弟子にして、クロの仇敵である。


「ふん? そうかお前が呼んだのかアーヴァンウィンクル。やはりお前は瑠天の居所を知っていたのだな、憎たらしい」


 空間の狭間の奥底に隠された瑠天の屋敷は、三天導師ですら侵入は困難である。

 それはルギスとて例外ではなく、この五百年ほどエインワイスを見つけ出そうとしてもできずにいた。

 それこそがルギスがこうして姿を現した理由である。


 ルギスは自らを除く天なる者を認めていない。消してしまいたくて仕方がない。

 しかしアカは姿を隠してどこぞに消えた。だからあらゆるに呪詛を撒いて、呪詛具を放っていぶり出そうと遠大に立ち回っていた。

 けれどエインワイスに至ってはこの世界そのものにおらず、異空間に逃げ込んでしまって手がだせずにいた。

 だからこの世界に彼女が現れたというのなら、直ちに抹殺すべしとルギスはこうしてやって来たわけだ。

 無論、エインワイスもまたそのことを承知し、その上で自らの存在を世界に発信することでルギスを釣り上げた。


 研ぎ澄ました殺意が圧力となって襲い来るのも気にせず、エインワイスは脱力して下がる。


「じゃあ、あとはお前がなんとかしろよ。いちおう天業テンゴウつかったし、私は疲れた」

「クロをお願いします」

「仕方ねぇな、貸し一だぞ」

「……」


 弟子の頼みも素直に聞いてくれない師匠に物凄くなにか言いたげになるアカであったが、そんなことをしている暇もない。

 目の前には、かつて相対した誰よりも恐るべき存在がいる。


「……」


 すぐには言葉はでてこなかった。

 こみ上げる感情が複雑で複数で極彩色であって、どうにも頭が定まらずに場違いにもぼんやりとしていた。


 弟子の仇だ。

 弟子を呪った下手人だ。

 憎悪すべき相手だ。


 けれど兄弟子だ。

 同じ屋根の下で過ごした。

 たとえ相手に憎悪されていたとしても。


 いい思い出なんかひとつもないのに、ただ近くにいただけなのに。

 どうしようもなく心が定まらない。


 それでも、決心はしたはずだ。覚悟も決めたし、腹を括った。

 そうでなければ――この背を見守る弟子に格好つかない。


「ルギス、あなたにひとつ聞きたいことがあります」

「黙れ私に答える言葉などない」


 取り付く島もない。

 常になにかに激怒していて、口を開けば怒気を発して仕方がない。なにもかもを血走った目つきで見下して嫌悪する。

 なにも変わっていない。


 だからアカのほうも昔と変わらない対応をする。

 暴言など無視して進みたいように進める。


「彼女のことを、覚えていますか」


 海面の見えない床に這いつくばって、それでも顔だけは上げてルギスを睨む少女。

 ルギスは一瞥すらくれず、心底どうでもよさそうにただ鼻で笑う。


塵芥ちりあくたに区別などつかん」

「っ!!」


 路傍の石ころをいちいち覚えている者などいない。たとえ邪魔だと蹴り飛ばした石があっても、やはりどうでもいい。

 しかしその石ころのほうからすれば、それはこれ以上ないほどの侮辱。


 致死の呪いをかけ。

 家族を殺し尽くし。

 呪詛を負っている姿を捉え。


 ――ここで嘲笑に付すだと!


 クロは激憤に駆られ魔力が膨大に練り上がって吹きすさぶ。魔術にすらならないただ怒りの具現たるそれは、けれどあっさり隣のエインワイスに鎮められてしまう。

 単純に両者の戦いから身を守るために張っていた無効化空域であったがために起こった鎮圧であり、エインワイスにそのつもりはない。

 邪魔立て無用と、その心が彼女になかったとは言えないが。


 アカは気を荒立てず、冷静に指摘する。


「そうでしたね、あなたにひとの区別などつきませんでしたね。では、彼女の呪詛のほうには覚えがあってもよいのでは?」


 人が蟻を見下ろすとき、彼らに個性を見つけ区別することができるだろうか。

 それと等しく、天から見た人間などは、蟻と同じで見分けがつかない。

 その個体に、目印なんかをつけておかねば。


「ふん。そうだな、私の呪詛のようだ。おそらくいつかの私が残したものなのだろう」


 そこは認めて。

 しかし。


「だが思い出せんな。呪詛など無際限に放った。適当に、無作為に、そこら中のゴミにくれてやった。その中のひとつを特別に記憶するなど、するはずもない」

「嘘ですね」

「……なに?」


 常に苛立ち腹立ち混じりに舌を動かすルギスが、その一言に口を閉ざした。

 アカは図星をついたと確信して、似合わない嘲りをできるだけ模して笑う。


「あなたは彼女の天稟を恐れた。だから呪った。

 あなたは彼女の才能を妬んだ。だから呪った」

「だまれ……」

「あなたの上に立つ存在になりうる彼女を――その前に消してしまいたかった。だから呪った」

「黙れと――」

「あなたのその卑小な心が、彼女を忘れるはずがないんですよ」

「黙れと言っている! アーヴァンウィンクル!!」


 怒り狂ってルギスは叫ぶ。

 それだけで指向性を持たない魔力が迸り、海が荒れて津波を引き起こす。無論、海中の生物たちはとっくの昔にこの場から逃げている。

 この海上の嵐の中には、三人の天とひとりの少女が残るのみ。


 ルギスは叩きつけるように叫ぶ。


「言うに事欠いて、私が恐れた? 妬んだ? ふざけるのも大概にしろ、蒙昧!

 この私はなににも恐れなど抱かない。誰にも妬みなど抱かない。私は唯一無二の真なる天であるからだ!」


 ルギスは己をこそ、己をのみ、至高の天であると信じている。

 たとえ自らの師であり前を行く瑠璃色がいようと。

 自身のすぐ後ろに立つ弟弟子たる赫色がいようと。

 ルギスにとって至高の天はルギスだけだ。


 その狂信染みた肥大した自信は、彼を天へと押し上げた要因のひとつであろう。


 傲慢で独りよがり、誰より身勝手で唯我独尊。

 たしかにアカとは真逆の、純粋なる極まった天である。

 

「黙りませんよ」


 それに対峙するのは師にして曰く半端者。

 ひとのために怒る不純な天。


「私はあなたを嫌悪しています。あなたに怒りを抱いています――見下げ果てた兄弟子に、引導を渡すためにここに立っています」

「なに?」


 ついに放たれたそのひとことに、ルギスはさらに顔中を不愉快で満たしてまた声を荒らげる。


「私を殺すつもりか? お前程度がか? ハッ、どこまでも身の程知らずの愚か者め! できるわけがない、敵うわけがない、半端者のお前など!」

「やらねばならないのですよ」


 そのとき、アカもまた魔力解放。

 押し寄せる翠の魔力圧と拮抗して海を揺らす。けれど決して荒立てず、制御し切ってただ害あるものを退けるための魔力の迸り。


 強大なる魔力、アカの全霊。ルギスもそこでアカの本気を理解し、だがむしろ歯を剥き出しに笑う。


 ――真正面からやりあうなど愚の骨頂、賢き魔術師のすることではない。


 だが力を使い疲弊したエインワイスが目の前にいるという千載一遇の好機であるのも事実。

 ここで目障りな輩を消すことができるのも愉快である。

 ならば――


「そうか、丁度いい。ならばこの場で全員始末して――無二なる天と私は至ろう」


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