79 天業・星の静止した日
「あー。なんか眩しいな」
瑠天の屋敷を出て、空間の狭間を通り抜け――現空間へと三人は帰還する。
三人。そう、アカとクロ、そして瑠天のエインワイスそのひともである。
――翠天のルギスを見つけ出してほしい。
アカの申し出に対しエインワイスは渋ったようであったが、なにやらクロを見遣ってすこし考えだし最後には了承をしてくれた。
彼女はじゃあと元の空間へ戻ることを告げてさっさと出ていってしまう。
慌ててアカとクロは追いかけるのだが、その際に狭間から現空間へのアクセスをエインワイスが行ったことで、出現先がアカらの屋敷ではなくどことも知れない座標になってしまった。
「ここは……」
「どこ?」
どこまでも青しか存在しない場所――海上であった。
「って、うわー!?」
「はぁ……」
現出と同時に重力に引かれて落ちそうになる――こともなく、即時にアカはクロとともに落下しないように足場を生成する。
クロは落下に備えて縮こまったわりにいつまでたっても着水しないことに怪訝して目を開けば、アカの苦笑を見ることなる。
「大丈夫ですよ、クロ」
「……めちゃくちゃビビったわ」
「すみません、師はひとを思い遣ることができませんので」
「聞こえてるぞ」
当然にエインワイスもまた落下せず――海水の上に立っている。
おそらく
もちろん、そんな疑問に答えてくれるエインワイスではない。
「さすがにここまで陸地から離れた海の上なら誰もいないだろ」
「……いちおうは考えてのことでしたか。ならばこちらにもその配慮を回して事前通達などがほしかったのですが」
「細かい奴だな、禿げるぞ」
「……禿げません」
会話する天の横で、クロはすこしだけ不貞腐れたように唇を引き結んだ。
――やっぱりエインワイスに対する態度がほかの誰とも違う。
強いて言えばハズヴェントを相手にしたときが一番似ているが……要するに随分と気安いのだ。
それが、ちょっとずるいなとクロは思って、そんなことを思う自分の小ささに気づかされる。
クロが黙っているのならふたりの天はなんら遅滞なく事を推し進めていく。
悠久を生きるわりに、エインワイスは無駄を嫌う。
「さて、スイのやつを見つけろだったな……やっと決心がついたのか? 兄弟子を殺す決心がさ」
「あなたは本当に嫌な言い方をしますね」
ですが、とアカはいう。
「ええ、その通りですよ。私は翠天のルギスを許しません――この手で彼を討ち滅ぼしましょう」
幾つもの村々を滅ぼした呪詛の蛇。
一歩間違えれば国の首都ひとつを消し飛ばされていた愚願。
ひとをひとならざるに変質させ、多くの悲哀を生みだした精霊化の呪詛。
なによりも、ただ才あるというだけの理由でひとつの家族を殺し尽くし、ある少女の心を酷く傷つけた。
この一年、アカの歩んできた道のりに、様々な場面で関与しては悲劇を産み落として来た男。
離れていてもそこかしこで付きまとうその悪逆は、宿命のようにアカの周りの誰かを悲しませる。
アカの人生において唯一無二の憎悪すべき怨敵。打倒すべき悪鬼。
「ふぅん」
その赫の瞳をのぞき込み、エインワイスは息を吐く。呆れてしまう。
断言して――それでもまだどこか迷いを感じさせるのは、彼の優しさか甘さか。
本当に天に向いていない馬鹿だ。
身内に甘く、ひとに甘く、誰かに甘い。
膨大な力をもっているのに殺すのを嫌って、救うことばかり考える。
そんなだから力を十全に発揮できずに複雑な処理が必要になって面倒ばかり抱え込むのだ。
まるで巨人が足元の動物や木々、花なんかを踏まないようしているような滑稽さ。
全部無視して踏みつぶせばそれでなにもかも均して終わらせることができただろうに。
なのにそれをしない。
自らを縛り付け、力を制御し、人に寄り添う。
長命にして不老の存在において、それは異常だ。
長い人生において捨てねばならないこともあったはず。気心知れた仲の者をたくさん看取っているはず。
それでも未だ辛い現実にぶちあたっては悲嘆し、不運な者を見れば心を痛める。
悲劇にまるで慣れていない。幾たび経験を積もうとも不慣れなままで、たどたどしい。
命の循環を司るはずの魔法使いは、いつだって命の煌めきに感激しその終わりに涙する。
エインワイスのもとを去ってから、それは今の今でも不変のようだ。
なんというやつであろうか。おかしいんじゃないのか。
天にあって天にあらざる呆け者。見下ろすはずが対等で、地にある花を愛でている。
そんなのは――こんな奴は、天じゃない。
ただのどこにでもいる在り来たりな、人間そのものじゃないか。
ルギスが嫌うのも無理はない。エインワイスだって呆れかえってものも言えない。
ただ、まあ。
天にして人。人にして天。
それもまた、きっと悪くはないのだろう。
自分には思いもよらない境地ではあるが、確かにそれはひとつの天の形なのではないのか。
師匠の枠組みを超えてくれるからこそ弟子の意義がある。
なによりどうせ御伽噺の魔法使い……ありえざるがありえたっていいだろう。
エインワイスはひとつため息ですべての感情を吐き出してから、すいと右手を掲げた。
「馬鹿弟子、覚えてるか。いつか言ったな、その半端のせいでしっぺ返しをくらっても――ってよ」
「ええ、覚えております」
「お前は半端者だ。ことここに至ってもまだ天としての自覚が足りないし、大迷惑を被ってるはずで弟子を殺しかけてる男にさえ殺意が鈍い。馬鹿にもほどがある」
「……」
「だが」
ばちり、となにかが弾けたような音がした気がした。
気のせいだった。
それはただの魔力の高ぶりで、物音には通じない。しかし魔力的知覚が他の五感に誤認させるほどに強大な力を感じ取り、ざわめいて震えが止まらない。
「その半端がお前なんだろう。天と地と人と、そのすべての半端にお前の思想はあるんだろう」
人に生まれ人にあらず。
地に立って地にあらず。
天に昇って天にあらず。
「極まった天と半端なお前、どっちが勝つか――興味が湧いた。やってみろよ馬鹿弟子」
「師匠……」
世界が恐怖する。
ただ一個の生命の発する魔力に、世界が震えあがっている。
なぜなら彼女は瑠天のエインワイス。
三天導師。
最初の魔法使い。
天ら造りし魔法の師。
――世界で最も優れた魔術師。
この世全ては彼女の足下、彼女の色相に逆らうことはできやしない。
その位は天にあり、その意は天そのもの、その威こそ天下無双。
なに憚ることもなし。この世界などは彼女の気まぐれひとつで容易く崩れ去る砂上の楼閣に過ぎないのだから。
「『
「っ」
『
師のそれを、アカははじめて目撃する天たるの証。
三天導師とは魔術の天、天上七位階における最上にして御伽噺の魔法使い。
彼らは月位の魔術師を遥か超えた術師であり、七色の魔術全てに精通する。
全てを十全に扱えるがその中にも優劣はある。それも大きな高低差を伴ったものだ。
劣等であっても九曜に匹敵し、逆に優等のそれは突き抜けて究極。
アーヴァンウィンクルは
三天の名乗る色相はもはや他の天の追随すらも許さないレベルであり、同じ三天同士であっても決して届かない域にある。
それをして無謬の一、無窮の全。世界そのものに影響するような、天の御業。
唯一無二、神域到達、天の
「――『
そのとき。
世界は瑠璃色に輝いた。
この星中の隅々まで。球形全域満遍なく。光速で駆け巡った瑠璃の魔力。
それのもたらす効能は
ただその規模が桁違い。その効力が度外れている。
瑠天は、今現在に発生した世界の魔術全てを一度消し去ってのけたのだ。
「いや、これは! まずいのでは!」
現在すべての魔術を消す。それも一切の抵抗を許さずに。
それはたとえば
どの色相であれ戦闘中の誰かがいれば、それを消す。
魔術は世界に浸透し、人類生活の根幹となって誰もがその恩恵を受けている。
対話に。遊戯に。学業に。仕事に。建築に。治療に。政治に。戦いに。
それを、一切合切消してしまうなど――世界中大混乱となるのではないか。
冷や汗を流しながら非難を叫ぶアカに、エインワイスはなんのことはなく。
「安心しろ。一瞬より短い刹那の出来事だ、消えたことにすら気づかず魔術は駆動する」
「そんなこと……ありえるものなのですか?」
「術式に絶えず魔力を流すことはできない。なぜなら人の意識がごく短くぶつ切りになっているから……教えただろ」
「聞いていませんが」
「あ? そうだっけ?」
本気で首を傾げているが、ズボラな彼女はこういうことが多い。
自分しか知らないような知識をさも常識的に語って、じゃあそういうことだから覚えておけと言う。
弟子としてはたまったものではない。
「まあともかく瞬きみたいなもんだ。意識しなければ気づけない一瞬に満たない空白が術式にもあって、それよりなお短くやったから気づく奴なんざほぼいねぇよ」
ちなみに当然といえば当然ながら、彼女はこの大魔術をもっと長く持続させることができる。
いや。それすらも嘘になる。
瑠天のエインワイスはこの天の御業を――永続させることができる。
星のマナを用い、術式を持続定着させることでこの世界に新たなルールを強制することができる。
すなわちそれは、瑠天のエインワイスの手にかかれば、世界から魔術という概念を失わせることが可能ということだ。
そんなことはおくびにもだざす、エインワイスはいう。今回の目的は、そうではないのだから。
「逆を言えばこのゆらぎに気づく奴は本物だ。ま、今の世じゃあ魔術発動中に気づけても両手で数えられる程度。そして――」
不意に上空を覗く。なにもない青空が広がるのみ。
続いて視線を下げて海面を見遣る。
……あぁ、こちらからか。
「魔術すら発動せずに気づけるのは三人、三天導師だけだろうな」
刹那、海面に影が凝って揺らめき、
それだけで。
――世界が翠に翳った。
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