プロローグ・赤1


 ――名前すらなく彷徨っていた。


 そのザマはまるで亡霊かもしくはそこらの野良犬のよう。

 輝かしい白のはずの頭髪は汚れ切って、雑な布だけで身をくるみ、ただ鋭く射貫く眼光だけが燃えている。

 

 両親はいなかった。物心ついたときにはひとりきり。

 住む家はなかった。気づいた時からどこでもなく歩き回る。


 縁もなければ住処もない。

 言葉もなければ心もない。

 ただの荒れ狂う獣、人にも及ばない犬畜生。

 そんな少年。


 野良犬のごとき少年は学ぶでもなく魔力の扱い方を悟り、知識もなしに魔術を行使できた。

 後年からすれば笑えるほどに雑で不細工な術式ではあったが、たしかに彼は生来から魔術を使いこなしていた。


 手足も動かぬ赤子のころから外敵を屠り、二足歩行に慣れた時にはもはや襲われるより避けられるようになっていた。

 魔力が彼を空腹と睡眠から逃し、魔術が彼を悪意と襲撃から守っていた。


 それはもはや一種のバケモノ。

 だのに人里だって無関係に歩を進めるものだから、横切る村々から噂され、すれ違う誰かは逃げ出した。

 

 目指すべき場所もなく、生きるべき理由もない。

 いや、自分の生存すら彼はよくわかっていなかった。

 ふわふわと浮足立って。ゆらゆらと陽炎めいて。

 それでも彼の歩みは止まらず、無軌道無為に徘徊を続けて誰憚ることもない。


 今にして思えば、あれは誰かを探していたのかもしれない。

 見も知らぬ両親、いるともしれない家族――寄る辺を、必死になって探していた。


 だが無論、そんなものは見つかるはずもない。


 彼は生まれつき強大な魔力を持って生まれ、それは他者を畏怖させるに充分なもの。

 おそらくだからこそ親に捨てられ、だからこそ誰の手を借りることもなく生き延びることができた。


 その異才は孤独へと誘う。

 どうしようもなく、抗いようもなく。

 誰を探そうとも、寄り添うことなどできやしない。

 バケモノはなにもかもを壊して留まらず燃え盛る炎にも似た害悪でしかない。



 ……だがもしも。

 もしもそれが可能な存在があるというのならばきっと。

 きっとそれは彼と等しいほどの――異才にほかならない。


 ――ある日ある時。

 ――ふと不意に。

 ――彼はそれと出会った。


 いや、彼と彼女の邂逅は、出会いというよりも――見つけられたというほうが正しい。


「まぁなんとも、薄汚れた野良犬じゃないか」


 そのひとは、藍色の目をした居丈高に言葉を繰る女性だった。

 歯をむき出しに笑ってギラついた目で彼を獲物を見るように見つめている。


 不思議なことに、彼女と遭遇した森では他のなにも音がしなかった。

 生きとし生けるなにもかもが――姿を消した。

 まるで大嵐に怯えて隠れてしまったように。


「うぅぅ……!」


 そして野良犬の少年もまた常ならぬ緊張感を覚え、無暗に術を使うこともなく警戒姿勢に移るのみ。


 対面しただけでわかる。

 一言発しただけで感じ取れる。


 ――この生物は今までのなにもかもと違う!


 唸るばかりの彼に、彼女は笑う。


「なんだもしや言葉も話せないのか? 本当に犬畜生だな……だが魔術は成立しているか。ほぉ、言語と魔術は関係していると思ったが、思いのほか繋がりは薄いのかな」

「……ぅぅ!」

「あぁすまんな、思いつくとそちらに偏ってしまうんだ。お前を無視していたわけじゃないぞ、犬」


 言葉は話せなくとも、言葉の意味合いはおおよそ理解できる。

 その人物が平然とこちらを馬鹿にしていることはわかって、少年は不機嫌そうに――痺れを切らして魔術を練る。


 その女性はまた笑った。嘲笑ではなく、興味深そうに。


「ははっ。素晴らしい。その年齢、その生い立ち、その知能指数でそれほどの魔術を扱い得るか……もしやお前ならば……もしや……」

「ふ!」


 放ったのは赤色の魔術――命を削り、気力を奪い、直立さえもできなくする。

 そのはずが。


「なんだそれ、それ本当に魔法陣なのか?」

「!?」

「魔法陣に描かれるは独自想念からくる無二のもの。文字より先に言語より先に魔術を行使するとこうなるのか、面白い」


 彼女はなんらの痛痒もなしに平常通り、別の事柄にばかり目を細める。

 魔術は使っていない。魔力は活性化させていない。本当に気の抜けた態度のままで衰弱の魔術を受けて無為とする。

 内在する魔力量が――桁外れに過ぎる。


「お前ならばもしや私の跡目につけるかもしれない――ついてこい、野良犬」

「!」

「ついてこい、私の弟子にしてやろう。

 末は飼い犬か、もしくは私の喉笛を咬みつくか……それはまたいずれ聞くとしよう」


 そうして見つけられたその女性こそ彼の師にして最初の天位テンイの魔術師――世界で最も優れた魔法使い。


 瑠天ルテンのエインワイスであった。


 彼はこのときはじめて誰かを恐ろしいと思い、同時に自分が求められることのこそばゆさを知った。

 ……それはともかくとして激しく抵抗したのだけど、全て対抗アイ魔術によって封殺され、最後には拳骨でぶん殴られて連れ去られた。


 エインワイスは彼の唯一の持ち物である懐中時計を見てアーヴァンウィンクルの名を知り、それを本人にも伝えたが、長くて面倒というだけの理由でアカという魔術師名を与えた。

 エインワイスは大雑把なひとだった。


「さて、呼び名も決まればあとは言葉だな。話が通じんと面倒だし、なにより魔術に言葉は重要だ。犬のままじゃ魔術の天には至れん……しごいてやるから覚悟しろ」


 教える言語は西大陸言語。

 彼女の母語であることだけが、西言語を選んだ理由ではない。


 時は魔術師協会設立から日の浅い時期。魔術師協会が好調に版図を広げている頃である。

 そのついでとばかりに学園という教育機関もまた広がって、そしてそこで教える言語はすべて西大陸言語に統一していた。

 このまま協会と学園の進出が世界中にまで広がれば、おそらく百か二百年先には言語統一まで成し遂げうる。

 なぜそんなことをするのかと言えば、これすべて魔術のため。

 魔術において最も親和性の高い言語を公用語とし、魔術自体の忌避感を軽減させる狙いである。

 ……他文化を塗り潰すことになんの葛藤もない天である。


 そうした事情もあって言語の教授に関しては事前に教科書が用意されていた。

 それを、エインワイスは。


「じゃ、がんばれ」


 によってアカに叩き込んだ。

 寝ても覚めても何しても脳内に直接知識を延々と垂れ流し続ける精神攻撃用の、れっきとした呪詛の一種である。

 何割かの確率で――いや、ぼかさずに言えば八割がたの高確率で精神崩壊をきたしていたであろうが、そこは吸収する彼もまた異端。

 アカは呪言の成果もあって半年足らずで言語を習得できた。


「静寂をください……」


 それがアカの生まれてはじめて発した意味のある言語であったという。


 いやアカとしても言葉や作法、人道に常識、なによりも魔術を教え込んでくれたのは今思い返しても本当にありがたいと感謝している。

 だが呪言の件だけならず、神話魔獣の住処に放り込んで放置したり、この世ならざる亜空間のどこぞに放り込んだりと確実に殺意に溢れた鍛錬という名の虐待は未だに恨めしい。


 師はそこで死すのならばそれまでだと思っていた節があった。むしろ期待したくないから死ぬなら死ねと、悲観していたように思う。

 エインワイスは天位テンイの導師を新たに育て上げることを目的にしていたが、それを何度も何度も失敗し続けていて、もはや自分以外の天は現れないのではと諦めかけていたのである。

 それでもアカは生き延びるものだから、途中から不思議がっては調子に乗ってさらなる試練を送ったのだという。タチが悪い。

 


 また別に、アカの命の危機は常々同じ屋根の下にあった。


「なんだまだ生きているのか」

「…………」

「ふん、目障りな。く死ね」


 同居人の兄弟子には、感謝も敬意もついぞ抱くことはできなかった。というか、まともに言葉を交わしたことさえ、結局ほとんどなかった。

 未だ翠天スイテンに至れていない頃のルギス――当時は師に命名された魔術師名スイと呼ばれていた――は常に苛立ち、この世の全てに腹を立てて周囲をねめつけながら生きていた。

 師を敬うことなくただの教科書以上に思うことはせず、むしろとっととくたばらないかと思っていたし。

 弟弟子の存在など最初から最後まで認めることはなく、むしろさっさと死ねと定期的に殺しに来ていた。


 師の無茶なしごきと兄弟子の日常的な殺意をやりすごし、アカは成長していった。


 赫き天に昇るその日まで、アカはそんな理不尽の中で過ごし続けたのだ。


    ◇


「アカ、お前もスイも、もうほとんど天位テンイに肉薄している。到達まで秒読みだろう」

「……え?」


 ある日、唐突にエインワイスはそんなことを話しはじめた。

 こちらの当惑にもなんらの斟酌なく、彼女は続ける。


「だからそろそろ無謬の一を、究極の全を見つけておけ。世界そのものに影響するような、システムさえも左右するような、そういう天の御業ってやつだ」

天業テンゴウ……ですか」

「ああ。最終試験だ、それの完成と同時に天位テンイの号をくれてやる」

「私は、べつに……」

「導師になりたいわけじゃないか? ふん、傲慢だな。それに至ろうにも至れず死んでいった奴らを私は何人も見てきた。教えてきた」

「私は生き延びるために努力せざるを得なかっただけなのですが」


 精一杯の皮肉であるが、エインワイスは気にした風もない。いや、気づいてさえいないのかもしれない。


「最高の環境というわけだ。もしもお前らが失敗したら次の参考にしよう」

「……もしも私と彼が成功したら、師はどうするのですか」

「さあな。正直、考えてない。とにかく後進をと思っていたからな。それが成ったら……不貞寝でもするか」

「どうして成功して不貞腐れるのです」

「細かいことをごちゃごちゃ言うな、馬鹿弟子」


 横暴である。

 機嫌が悪い日なら暴虐の魔術をぶちこんできてもおかしくはない。

 だが今日はそういう気分でもないらしく、落ち着き払ったままに言葉を続ける。


「逆に問うがアカ。お前はどうする、お前とスイの両方が天に至ったとしたら」

「……私は」


 すこしだけ俯いて。

 顔を上げる。前々から考えていたこと、夢見ていたこと。


「私は弟子をとろうと思います」

「へえ?」

「師に救われた。その後が大変な苦労の日々だったとはいえ、それは事実です」

「ははは。面白おかしく過ごせただろうが」


 まるで悪びれない。

 アカもそこには言及せず。


「だから、私も誰かの手助けができればと思います」

「なんだ新しい天でも見繕うのか?」

「それは成り行き次第でしょう。そのためだけに、とは言いません」

「そうか。どうにせ、結果的にでも天が作れたら私にも見せに来いよ」

「わかりました」


 それくらいなら、とアカは頷いて、なぜだかエインワイスは薄く笑った。

 なにか含みのある顔つきにも思えたが、理由はわからなかった。

 すぐに切り替わる。


「お前の身の振り方もまあいいが、もうひとつ聞くぞ。――スイはどうする」

「どう、とは?」

「始末しとかないのか?」


 ことさら冷えたこともなく平坦に投げかけられた言葉。

 アカは苦笑して。


「それが師の言うセリフですか」

「あれの才覚には報いてやれるだけの師事はした。それだけだ」

「彼の危険性については触れていないと」

「そうだよ。教えてやって天に至って、その後には私は関与しない。どうでもいい」


 たとえスイが人類を滅ぼしたとしても、エインワイスにはどうでもいい。

 生命が全滅しようと、星が崩壊しようと……構わない。

 それでも彼女は無関係に生存し、別のどこかへ向かうだけだ。

 彼女は地から隔絶し、人とはかけ離れた天であるからだ。


 けれど。


「お前は違うんだろ、アカ」

「そうですね、それは困ります」


 アカはエインワイスほど浮世離れしていない。

 アカはルギスほど誰もに怒り狂ってなどいない。


 世界も人も、好ましいと思っている。


 修行の合間に人里に漫遊していることも、学術書以外の娯楽小説を読み耽っていることも、もちろんエインワイスは知っていて。

 弟子のふたりが真っ向から正反対の性質であることを、知っていた。


「じゃあもしもその時が来たら対立することになる――れるのか、お前に」

「……それは難しいでしょう」


 実力の意味であっても。心情の意味であっても。

 たとえ自身を容赦なく殺そうとする男であっても、アカは自ら手にかけるのに躊躇う。

 それは同門への情であり、また生まれてこれより師と兄弟子としか交流を持ったことのないことによる、その僅かなつながりを断つことへの恐れなのかもしれなかった。

 言ってしまえば地に足ついた人としての当たり前の感情である。


 だからこそ、エインワイスはつまらなさそうに。


「甘いな。いつかその半端のせいでしっぺ返しをくらっても泣きついてくるんじゃないぞ、うざいから」

「その時は助けてほしいものですが」

「嫌だよ。人類の盛衰なんて私は知らん。もしも人類が滅んだところで、次の知的生命が生まれるまで寝て待つし。弟子が死んでも、また見繕うだけだ」

「師はときどき尺度が違い過ぎてついていけません」

「馬鹿言え、天の尺度だぞ。お前もそれに慣れておけ」


 もはや人と同じ視点には立てない。

 誰とも共感することさえできず、思考のスケールにおいて理解不能。

 遠く離れ、高く隔たって手も届かない。

 天に触れるというのはそういうことで、もはや後戻りなどできるはずもない。


 とはいえ、当のアカは困惑気味に腑に落ちていない。


「どうでしょう、あまり想像がつきません」

「お前ほんとそういうところが足りてないんだぞ、自覚して直しておけ半端者」

「私は今の私のように考えることができて満足しておりますから」


 魔術の天であっても、人の延長線に過ぎないのだと。

 決して人々と隔絶されて地を見下すような神の如き存在ではないのだと。

 犬畜生に過ぎなかったアカは、そう思う。


 エインワイスは思いのほか興味深そうに唸る。


「ふぅん? まあ、たしかに天の在り方もひとつじゃないか。自分を貫くってのも大事だしな。せいぜいやってみろ」

「ええ、ですのでこれを」

「あ?」


 アカは懐から古びた懐中時計を取り出し、一瞬だけ名残惜しそうにぎゅっと握りしめてからエインワイスに差し出す。


「差し上げます」

「……なんでまた」


 それはアカが、アーヴァンウィンクルが物心ついた時から持っていた時計。唯一の彼の所有物にして名を教えてくれた大事な品物なはずだろう。


 さしものエインワイスも不明に目を瞬かせている。


「ふと目覚めたとき、寝ぼけ眼にもせめて現在時刻くらいはわかるように――今日まで育ててくれてありがとうございました」

「余計なお世話だ、馬鹿弟子。私が勝手に育てた、お前が勝手に育った。礼なんかいらん」

「お礼以外にも意味はありまして」

「そっちが本音だろうが」


 言い訳ひとつと憎まれ口ひとつを用意しなければ素直に礼すら受け取ってはもらえない――難儀な師である。

 とはいえ、言い訳もまたたしかに本音ではあって。


「もしも私が失われたときに、私のことを覚えてくださる方がいると思えると、安心するんですよ」

「まったく……雑魚い精神してると生きづらそうだな」

「あなたが図太すぎるだけでは」

「天だからな」


 苦笑とともに、エインワイスは肩をすくめた。


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