プロローグ・青


 ――母親に売られた。


 物心がついてすこししたころ、たしか十歳かそこらのことだったと思う。

 ある日、訪れたローブを纏った壮年の男に、あたしは売り飛ばされた。


 仕方がないの、と母は涙ながらにあたしを差し出した。


 たしかにそれはそうかもしれないと、幼心に妙な納得をしたのを覚えている。

 あたしと母が暮らしていたのは年中、雪の絶えない寒冷地で、一面の銀世界がいつもの光景だった。

 寒くて、震えて、隙間風ひとつで凍え死んでしまいそうになる。


 そんな雪国だから、働きに出かけた父が川に転落して凍死した。

 父を失った母は無気力となって、いつもめそめそ泣きはらしていた。


 日常的なあれこれ、仕事どころか食事さえ覚束ない。

 母もあたしもすぐに痩せこけて、夜ごとに朝日を拝めずに死んでしまうんじゃないかと恐怖した。

 同じ村の人たちには、あたしたち家族は敬遠されていたから、救いの手はどこからもやってきてはくれない。


 そんな時にやって来たのが魔術の才覚をもった子を探しているという男だった。

 彼は一目見て、あたしに才能を感じ取ったと大金を母に提示した。


 母が薄く微笑んで了承したのを、あたしは見ていた。


 今更、母を恨んじゃいない。

 むしろ顔も思い出せなくなってすこしだけ申し訳ないとすら思う。

 いや、ちがう。


 あたしはきっと、もう二度と会うことのないあのひとのことを思い出したくないのだ。



    ◇



 男の名はグリドーと言った。

 彼はあたしのように才能ある子を集めているのだという。

 多くは金で解決し、だが時に暴力で強奪すらしていたらしい。


 うつろげな心でどうして、と聞けば。

 天へと至るのだ、と彼は言った。


 あたしには意味がわからなかった。

 そもそも魔術の才と言われても、あたしはその時、魔術的な知識は一切もっていなかった。

 実感はなくて、不安で、孤独で、連れられた屋敷では震えてばかりいた。

 それでも与えられた食事には泣きそうになってかぶりついた。未来の不安よりも、今の空腹のほうが辛かった。


 そうして食べていることに夢中になっていると、グリドーは見えないところであたしに魔術を打ち込んだ。


 当時のあたしにはわからなかったけれど、それは呪詛にして祝福。

『精霊化の祝呪シュクジュ』という高等の、しかし恐るべき禁術である。

 精霊という高次の存在へと進化させるための祝福であり、しかし解呪しなければ致死率百パーセントの最悪の呪詛。


 食事が済めば、あたしは牢屋みたいになにもない部屋に放り込まれ、そのまま閉じ込められてしまった。


 狭くて暗くて、ひとりで。

 あたしは泣いてしまったけど、すぐに壁から声が聞こえることに気が付いた。


 ――あなたも連れてこられたの?


 薄い壁越しの声は、たぶん自分よりすこし年上のお姉さんだった。

 一瞬だけびくりと驚いたけど、声音のくたびれた感じがすこしだけ親近感を湧かせた。


「だぁれ?」

「あたしは、あなたとおんなじ。連れてこられたの」

「おねえさんも?」

「そう。ここにはそういう子がたくさんいる」


 彼女と話して、すこしだけ落ち着いた。

 自分も辛かろうに、お姉さんはあたしのことを優しく励ましてくれて、多く語り掛けてくれた。

 そうしているうちに自分の状況をすこしずつ理解していった。


 自分やお姉さんのほかにも何人もこの屋敷には同じ境遇の子らが集められていること。

 その子たちもすぐに減っては補充を繰り返していて、お姉さんも遠からずいなくなってしまうということ。


 そして、もうひとつ驚くべきことに気づいた。


 自分の名を思い出せない。


 お姉さんに聞けば、おそらく売られたときに名を奪われたのだという。

 名は呪詛の媒介たりうる――そういう呪詛を契約のもと刻み込まれ、もはや逃げ道を絶たれたということ。

奪名ダツメイの呪詛』――これまでを捨て去られ、これからだけを考えるようにと刻まれた名を奪う呪い。


 今にして思えば、『精霊化の祝呪』だけでも高等の魔術だけど、二種類の呪いを同一個体に刻み込むというのもまた高等。

 グリドーは確かな腕を持った魔術師であり、そんな彼がこんな人道に反した実験を断行していることに不思議に思う。

 とうぜん、当時はそんな思慮はもてるはずもなかったけれど。


    ◇


 翌日、あたしは部屋から連れ出され、地下の部屋に放り出された。

 直後にドアは閉められ、鍵をかけられた。閉じ込められたのだ。


 しかし最大の恐怖はそれではなく――唸り声が、その部屋の奥から聞こえた。


 小型の魔獣が、そこには待ち受けていた。

 

「戦え」


 ただそれだけドア越しに伝えられ、以降は一切の音沙汰もなく……。


 どれだけ叫んでもドアを叩いても無反応。むしろ魔獣が嗜虐的に唸り声をあげて近づいてくる。

 恐ろしくて、あたしは泣いた。喚いた。

 それでなにか変わることもなく、魔獣は舌なめずりをしながらすこしずつにじり寄る。


 ――どうしろという。どうすればいい。

 なんだこれ。なんで。なんで。

 意味が分からない。死にたくない。

 助けて、助けて、助けて!


 急転落した事態に心はぐちゃぐちゃ、思考は滅裂。

 まざまざと死が近づいてきて、絶望ばかりが全身を包み――ただ一念、思ったことは。


「死にたくない!」


 激しい死への拒絶に感情の堰が切れた。

 溢れ弾け、暴れだして破裂する。

 そして刻まれた祝呪がその跳ね上がった感情に反応し、その身を蝕む。


 人をすこし失い――代わりに叫びは魔力を帯びて部屋を軋ませる。


 魔獣はその魔力場に吹き飛ばされ、壁に激突して死んでしまった。

 ずるずると壁からずり落ちていく死骸を眺めても、あたしはそのときなにが起こったのか理解できていなかった。


 ただ動かなくなった死の具現にひたすら安堵して、ぼろぼろと涙を流した。

 すこしするとグリドーが現れ、部屋の状況を確認するとひとつ頷き、またあたしを引きづってなにもない部屋に戻された。

 部屋には食事があって、あたしはとにかくそれにかぶりついた。

 そんなあたしに、グリドーは言った。


「勝てば食わせてやる」


 蝶番が嫌な軋みを上げてドアは閉まり、あたしは恐怖した。

 だってそれは、つまりまたあんなバケモノと戦わされるということだ。

 今日はたまたま、よくわからないことが起こって助かった。けれど明日は?


 震えるあたしに、隣の部屋のお姉さんの声が聞こえた。


 ――あたしたちには精霊化の祝呪を刻まれてるわ。

 ――それは感情の昂ぶりとともに人間性を奪い、精霊へと身を変じさせるんだって。


 意味はよくわからなかった。

 けれど、人間性を奪う、という言葉にはなにか空恐ろしいものを感じた。

 無我夢中で死を拒絶したあの瞬間、あたしはなにか大事なものを失ったような気がしたのだ。

 ただの気のせいだと思いたかった。けれど、それはそういうことなのか。

 寒くもないのに震えだす身を、あたしは抑え込むように確かめるように抱き締めた。


    ◇


 それからあたしは毎日毎日、魔獣の部屋に閉じ込められた。

 なんとか生き残ってはいたけれど、体中は傷だらけ。疲れ果て、痛みに苦しみ、まともに頭も回らない。

 ごはんと話しかけてくれる隣のお姉さんだけが最後の救いで、それだけがあたしの心をなんとか繋ぎ止めていた。


 そんな日々をどれだけ過ごしたのだろう。擦り切れた心は、経過した日数もわからない。

 あたしはふと気づいた。


 最近、魔獣と戦うとき――苦戦しなくなった。


 魔力というものを経験的にだがなんとなく理解していき、襲い来る怪物の動きを冷静に見られるようになっていた。

 そのころのあたしは当然、誰になにも教えてもらえる状況でもなくて、魔術なんて使えるはずもなかった。

 だがもっと原始的な魔力の扱いを肌で掴んでいた。

 魔力を殺傷性ある武器として撃ち出すことや、自分の身に纏わせたり集中して傷を癒したり、そういうことができると気付いた。


 のちに教えられたことだが、それの技法を「欠色命術モノトーン」というものだったらしい。

 感覚的にそれは扱いやすく、あたしは無意識で使っていた。


 そしてなによりも――呪詛の浸食深度が、この身の半分にまで及んでいたことに起因する。

 もはや半分、人間から外れていたのだ。

 そんなことも知らないで、あたしは自分の力に過信して思ってしまった。


 もしかして、逃げ出すことができるんじゃないか……?


 そう考え始めると止まらなくなった。

 こんな苦しいところにいたくない。

 こんな辛い毎日から逃げ出したい。

 誰も助けてくれないなら――自分から動かなくてはならないのではないのか。


 その日の夜、あたしは隣のお姉さんに声をかけた。


 ――こんなところ、もういやだ。

 ――一緒に逃げ出そう。


 お姉さんは最初、無理だと断ったけど、最後には同意してくれた。

 ふたりで一緒に逃げ出せれば、きっとなにもかもうまくいく。

 今みたいな死を隣り合わせにする必要はなくなって、楽しいことがたくさんあって、それから……それから。


 幸せに、なれるはずだ。


 しかし、現実はそう甘くはなくて。

 ドアを破壊し、部屋を無理矢理に飛び出して――次の瞬間に、全身に激痛が走った。

 身体の内側から電撃が走ったような苦痛は直立すら許さず、その場に蹲ってのたうち回ることしかできない。


 歪む顔をすこし動かしてみれば、傍ではすこし年上の少女が同じようにドアから出たところで倒れていた。

 はじめて見た――隣の部屋のお姉さん。


 お姉さんの右腕は綻んでいた。


「え」


 まるで風に吹かれて消えゆく煙のように、彼女の右腕はほどけている。消えている。

 一体、あれはなんだ?


「ふん。出来損ないめ」

「っ」


 その時、身を竦ませるほどに恐ろしく険しい声が響く。

 苦痛に首を動かすのすら億劫だったが、なんとか声の方に目を向ける。


 そこには厳めしいグリドーが立つ。


「三割の精霊化で既に実体の維持が困難となるか。その上、逃亡まで企てるとは……もはや用済みだな」

「やめろ!」


 全身を握りつぶされるような気色悪い苦痛の最中でも叫ぶことができたのはグリドーの手に魔力が集っていくのが見えたから。

 このままでは、お姉さんが殺されてしまう。


「やめろ、脱走をいいだしたのはあたしだ! やるなら、あたしを殺せ!」

「……」


 這いつくばりながらも必死で叫ぶあたしを、グリドーは興味深そうに眺めていたが、すぐに肩を竦めた。


「貴様は出来がいい。この重圧の魔術のなかでもそれだけ吠えられるのだ、まだまだ先がある。殺しはせんさ」

「え」

「しかし脱走を企てたのは確かに許されざることだ。ひとつ、釘を刺しておくこととするか」


 グリドーはこちらに向き直ると、巌のような顔つきのまま告げる。


「貴様、脱走するのはいいが、どこへ行くつもりだ? 貴様に帰る場所などありはしないぞ」

「っ。あたしは……母さんの、もとに……」


 自分で言って自分で愕然としてしまう。

 自らのことを売り払い、もう二度と会いたくはないと思っていた相手を未だに頼ろうとする自分に。


 ――心のどこかで、まだ母親を好いている自分に。


 だが、グリドーは嘲った。


「貴様の母親ならもうこの世にはおらんぞ」

「……え?」

「貴様を買い取って数日で、あれはわたしに返却を要求しにここまでやって来たのだからな」


 そんなの知らない。

 けれど、あの母親らしいとあたしは思った。


 あのひとはいつもそうだ。

 意志が弱くて、自分の選択を簡単に翻して、駄々ばかりこねる。子供のようなひと。

 頼るべき父を失ってからその性質はどんどん顕著になって、酷くあたしの手を焼いた。

 そんな母が……どうしたって?


「契約は契約だと言ってやったが、しつこいのでな……殺してしまったよ」

「…………」

「貴様に寄る辺など存在しない。孤独にここに囚われ、永劫わたしのための礎となるのだ」


 そして至極――あっさりと。


「もちろん、この娘も不要」

「え……」


 グリドーの指先から描き出された黒い魔法陣より放たれた光の刃が、彼女を穿った。


 それだけで、お姉さんは動かなくなった。


 壁越しに声だけとはいえ、ずっとともにあったその人を。いつもあたしを励ましてくれた唯一の寄る辺を。

 何のためらいもなく一瞬の内に、彼は撃ち殺した。


 ――殺した?


「ぁ……?」


 あたしのせいだ。


「――ァアぁぁあア?」


 あたしが馬鹿なことを言ったから!


「あぁあああああああああああああああああァァァァアアあああああああああ!!」


 お姉さんが、そして……母さんが! 死ん……死んでしまった!


 ――それは感情の昂ぶりとともに人間性を奪い、精霊へと身を変じさせる。


 謎の苦痛すらも意に返さず、あたしは湧き上がる力と怒りのままに立ち上がる。

 ぐちゃぐちゃにかき乱された心は、無尽蔵と言えるほどに膨大な感情を噴出させる。


 この時、たしかにおぞましいなにかへとあたしは変貌して――






「気を静めて」


 しん、と。

 なにもかも静まり返るような奇妙な声がした。

 大きな声ではない。囁きに近い。

 けれど、世界の時間が止まってしまったように全てを呑みこみ、彼はそこにいた。


 あたしを後ろから抱きかかえるように、彼は優しく優しく――悲しそうに言葉を紡ぐ。


「あなたが失われてしまいます。心を強く、自分を離さず。大丈夫、あの少女は死にません」

「え」


 驚いている間に声の誰かは手に持つ錫杖を振るい、その円環を倒れたお姉さんに向ける。

 しゃらりと金属音が鳴り響き、赤い魔法陣がきらきらと輝いて――


「馬鹿な!?」


 グリドーの驚愕の声が響くころには、お姉さんの怪我は治り、顔色は安らぐ。

 気づけばさっきからあったあたしの痛みも消えている。


「ね、大丈夫でしょう?」

「でっ、でも! あいつ、あいつはお姉さんを殺そうとした! 母さんを殺した!!」

「はい。だから私がこうして来ました。彼は捕縛します」

「いやだ! あいつは殺してやる! あたしが、この手で!」


 抱き留める腕から逃れるようにもがくも、決して腕は緩まない。


「あの程度の輩のために、あなたが手を汚し自らを失うなど馬鹿げています」

「いいんだ! あたしは母さんに捨てられた! 母さんは死んだ! 帰る場所も頼るひともいない! 名前だってもうない! あたしなんかいなくなっても――!」


 ぎゅっと、抱きしめる力が増した。

 どこまでも優しく包みこみ、その暖かさを伝える。

 それに何故だかふっと力が抜けたあたしの耳元に、力強い声が届く。


「捨てられたのなら、拾いましょう」

「え……」

「名前がないなら、名づけましょう。大丈夫、私が傍にいますから――私はあなたにいて欲しい」

「…………」

「それに、あなたがいなくなったら、きっとそこの少女も悲しみますよ?」

「ぁ」


 倒れるお姉さんに視線が行く。

 ここであたしがいなくなったら、きっとあたしのように自分のせいだと思い詰めてしまうだろう。

 悲しくて、泣いてしまうだろう。


 それは、とてもいやだった。


「だからここは私にお任せください」


 その時あたしははじめて振り返って、彼を見た。


 そのひとは白く、白く、まるで雪の化身のよう。

 しかし一点、その瞳だけはギラギラと燃え盛った炎の赤色。

 その赤は、けれどとても優しくて、あたしは見とれてしまった。


 彼は立ち上がり、あたしを守るように背を見せ数歩前に出る。右手に錫杖を携え、グリドーに相対する。


「くっ、きさま……貴様何者だ!」


 あたしと話している時から、既に七度の魔術的な攻撃を試みている。

 しかしすべてが無為と化され、会話の邪魔立てすらできやしなかった。


 グリドーの誰何すいかには答えず、彼は無念そうに。


理反リハンのグリドー、あなたほどの優秀な魔術師が、どうしてこんな非道に手を染めたのです」

「知れたこと! 天に届くためだ!」


 大喝したのは、目の前の謎めいた魔術師に対する恐れを吹き払うためのように思えた。

 そうであったとしてもグリドーの言葉に虚偽も虚飾もなく、秘めた思いは本物だった。


「誰も彼もが御伽噺と一笑に付す! だが違う! 彼らは実在する!」

「……」

「マナに愛され、長久を生き、人とは絶する――おそらくは精霊化を果たした魔術師こそが天なる者なのだ!」

「だから、才ある子供たちを実験にして精霊化を試み、やがては自分もと?」

「その通り! わたしは必ず天に至るのだ!」

「ふ」


 自らの論説に浸るグリドーに、彼は短く笑った。

 彼には似合わない、嘲りを含んだ笑み。よほどに滑稽に見えたのだろう、グリドーのその不様が。

 そして断ずる、それの不可能を。


「残念ながら、あなたでは天に至ることはありえませんよ」

「なに!」

「そもそも、天位は決して精霊化をした者の称号ではありません。そんな逃げ道に走った時点で、あなたはどう足掻いても地に這いつくばることしかできない」

「貴様如きになにがわかる、わたしは! わたしは――!」


 しかし。

 そこで不意にグリドーの言葉が途切れる。


 さきほどから感じていた言葉のなかの奇妙。

 目の前にある異質な存在感。

 そして、静かに怒る青年の――徐々に露わになっていく強大なる魔力。


 そのとき思い出したのは、遥か昔に読んだ御伽噺。


「あっ、ありきたりな白いローブに、むつの円環を鳴らす錫杖を携えた白髪長身の青年。

 なによりも、全身の白を忘れさせるほどに燃え盛った赫炎の瞳をもつ魔術師……!」

「……」

「まさか、ありえない! きさまは……ほんとうに!? 

 ――かっ、赫天のアーヴァンウィンクル!」


 アーヴァンウィンクルと呼ばれた青年は、とくに肯定も否定もせずに。


「子供たちの誘拐、殺害。そして禁呪の無断使用。あなたには協会での裁きを受けていただきます」

「くっ、くそ! くそくそくそ! クソォ!」


 グリドーは苛立ち任せに漆黒の魔法陣を五つ同時に展開し――


「おとなしくしていなさい」


 一言で、そのすべてが叩き壊される。


 あまりにもあっさり自らの全力が打ち砕かれたことが信じられず、グリドーは呆けてしまい――赤い魔法陣が閃く。

 一瞬の抵抗も許さず黒の魔術師は昏倒し、最後に伸ばした腕すらどこにも届かない。


 天に手を伸ばしたところで、人の身で届くはずもない――たとえそれが精霊であっても、やはりまだ遠い。


 アーヴァンウィンクルは油断なく造形キイ魔術を使ってロープを作製しシングルアクション、グリドーが身動きできないようぐるぐるに縛っておく。

 とりあえず直近の危機はこれで脱した。あとは、


「さて。他に捕まった子供たちのところへ――」


 向かおうとするから、あたしは思わず声を跳ね上げてしまう。


「ねっ、ねぇ!」

「あぁ、忘れていませんよ。一緒にいきましょう」

「そっ、そうじゃなくて!」

「どうしましたか、どこかまだ痛みますか」


 アーヴァンウィンクルは嫌な顔ひとつせず振り返り、膝を折って目線を合わせてくれる。


「ええと、あーばん、うぃんくる?」

「私のことを呼ぶのならばアカで構いませんよ」

「そうする、アカ!」

「はい」

「あたしの名前! 名づけてくれるって言っただろ!」


 叫べば、アカはすこしだけ困ったような顔になる。


「……私がつけても、構わないのですか? 名前の呪いも解きましたし、もう名は思い出せているはずです」

「いい。もうあの家には帰らないって決めてるから。母さんが死んじゃったならなおさら。だから、もう前の名前はいらない。新しいのがほしいんだ。だから、つけてよアカ!」

「そう仰るのでしたら……」すこしだけ思案してから「ではアオと」

「アオ! アカと似てるね!」


 嬉しくて笑うと、アカはなんだか眩しそうに目を細めた。


「それで、アオ」

「うん、なに?」


 アカはどこか苦しそうに、けれど決して目をそらさずに言葉を伝える。

 幼いあたしにも真摯に偽ることもなく――残酷な事実を。


「あなたの呪いは、全て解きました。けれど、既に変じてしまったあなたの身は、私でさえ戻すことができません」

「? あたし、人間じゃなくなったの?」

「半分、ですよ。あなたは今や半人半精霊という極めて例外的な存在となってしまいました」

「それって、わるいこと?」

「いえ、あなたは決して悪くはありません。むしろ希少な例として多くの魔術師が興味をもつことでしょう。

『精霊化の祝呪』が禁呪であったのは、多くの被呪者がその変質に耐えられず、身を滅ぼすが故」


 その言葉に、思わず倒れるお姉さんに目がいく。

 彼女の腕は失われたままだ。アカでも、治せないのだ。


「ですが、あなたは祝呪の深度が五割に至っても心を保ち、身を残している。これは現在観察された中でははじめての出来事と言えます」

「あたしがすごいってこと?」

「そうなります。理反のグリドーの術式の改善も、またその経緯を無視すれば相当に素晴らしいことで……ですが、すごいがために、あなたは多くの人々に狙われます」


 アオの類を見ない資質。

 グリドーの術式改造。

 そのふたつが揃った稀有なる実例。


 最初で最後にして唯一無二の実験の成功例。


「おそらく、下手にあなたを魔術師協会に預けてしまうと、あまり幸福な未来は待っていないでしょう」


 ここに囚われた子らを、アカはこの後保護して魔術師協会というところにまとめて預ける予定であったという。

 けれど。


「あなただけは、それではよろしくない。その上、家には帰りたくないのでしたね?」

「う、うん……」


 そのころにはやっと自分の置かれた立場が非常に危ういものだと感じ取ることができ、頷く声は震えていた。


 不幸ばかりが巡ったこれまでと違って、助かった今日からこそは幸せになれると信じていた。

 なのに、待ち受けていたのは不幸が続いていくという最悪の結末。


 だってどこにも居場所がない。どこにも行くあてがない。

 あたしはやっぱり必要のない命でしかなくて――


「でしたら、私のところに来ますか?」

「……え?」


 アカはやはり目を合わせて、真っ直ぐに。


「拾うと、言いましたからね。もちろんお嫌でしたら無理にとは――」

「行く! アカのところに行きたい!」


 ぽろぽろと涙が零れ落ちていくのはなぜだろう。

 悲しくなんてないのに。痛くなんてないのに。

 こんなにも嬉しいのに、涙は止まらなかった。


「では、一緒に帰りましょう、私たちの家に」


 その笑顔がなにより眩しくて。アオもつられて笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る