シロ5 競争
「ねぇ、先生」
「はい、どうかしましたか」
おずおずと声をかけてきたクロに、アカは書を閉じて顔を向ける。
多くの時間を書庫で資料あさりにあてている師に、他になにかやることはないのだろうかと思わないでもない弟子だが。
そうではなく、今は用件がある。
「シロって、どうしてあんなに熱心なの?」
「……」
「だって、なんというか、あの子ってあんまり熱中するタイプじゃなさそうじゃない? 勝手な印象かもしれないけど、毎日ずっとずっと魔術の研鑽を積んでるって、ちょっと意外っていうか」
不意に思わぬところで声をかけられたように、アカは目を広げて驚きを表現する。
こうも出し抜けにでてくる話題としては、どうにも不似合いだと思う。いや、それはアカの勝手な考え方で、クロにとっては重要視されて一も二もなく繰り出すべきことなのだろうか。
ともかく、率直に疑問を。
「急に、どうしました」
「んーと。キィと話しててね」
「はい」
「シロの話題になったの。シロっていつも寝てるけど、それは夢のなかでがんばってるんだって話」
「屋敷の子らは、全員知っていることですね」
すぐにバラして、とシロに半目で睨まれたのはもう半月ほどは前だったか。
時の流れは早いとしみじみしつつ話を聞き入る。
「それでそのとき、シロは夢のなかの時間を制御してて、一晩でも何日分の体感時間を過ごしてるって聞いたの。それって、しんどいでしょ」
「……」
短時間に多量の情報を頭に直接ぶちこまれ、休息のはずの睡眠で精神をすり減らすという矛盾――それはおそらく相当の負担があるだろう。
時間感覚も狂ってしまいそうだし、夢と現実とが曖昧になりかねない。
心という領域をわずかなりとも侵犯するそれは、なにかと危険を伴うように思えた。
実際のところは当事者であるシロにしかわからず、おそらく彼女ははぐらかすので、誰にも答えはわからない。
だから予測であり予想としてであるが、おそらくきっと……彼女は強がって見栄を張っているであろうと、それは屋敷の住人全員の共通見解だ。
アカもそこはうなずく。
「まあ、シロが少々以上に無茶をしている、というのは私も同意します」
「そんなにしてまで、どうしてがんばるのかな」
「……そういう個人的な事情は当人に聞いたほうがよいかと」
「ん。そうね、勝手に大事なことを話されるのは親しいひとでもちょっといやね!」
じゃあ聞いてくる! とクロはあっとい間に去っていった。
素早い判断と行動力に感心しながら、アカは苦笑でその背を見送った。
◇
「で、どうなのシロ」
「……もーいきなりなんじゃぁ?」
ノックだけは最低限に鳴らしていたが、返事も待たずに入室するのはいつものクロらしくない礼儀知らず。
それだけ慌てていたということ。興味を強く持っていたということ。
それに。
「だって勢いで聞かないとはぐらかされちゃうじゃない!」
「勢いはぁ、大事じゃけど……べつにシロはかくしたりせん」
「ほんと?」
「……ほんとうじゃ」
そう問われてはこう返すほかにない。
これは、言質をとられたかいの……。
クロは寄り道もなく直進する。
「じゃあ、教えて」
「……はぁ」
小さく小さくため息を。
うっとうしい、とは言わないが、すこし気恥ずかしさがある。
いつからだろう、自分の目標や夢を声高に語り上げることに恥ずかしさを覚えるようになったのは。
バカにされたり笑われたり、そういう不快な返しが来るとは到底思えない相手にでさえ、どこか口が重くなる。
それは、もしや自分自身こそが、目指す高さにおびえているからなのではないのか。
であるならば、シロはクロの目を見据えて力強く断じた。
「
「……やっぱ、そうなんだ」
無論、クロは真剣にその言葉を受け止め、むしろ表情は険しくなっていく。
無理無茶無謀の夢物語、夢に浸りすぎて現実の見えていない愚か者――そう嘲笑されても仕方がないほど大それたことを言ったのに、クロは言葉をまるきりそのまま受け止める。
どこかネジが外れているのは、きっとふたりとも同じで。
「わたしも、なりたいわ」
「……」
だから、クロの率直な願いに、シロは返答できないでいた。
「簡単に言うけど、世間一般的に言わせれば不可能じゃよ。なんせ、それは御伽噺にすぎんけぇ」
すこし厳しく現実を突きつける。
自分がいままで言われていたことを、そのまま年若い妹弟子に送るのは若干以上に自己嫌悪に飲まれるが、年長として言わねばならないとも思う。
「不可能なわけないじゃない、先生がいるんだから」
目の前に実証する存在がいるのだ、必ず方法はあるのだろう。
そう返すだろう。わかっている。かつてシロもそうだった。
頷いて、では別に。
「せんせーが逸脱しよるだけで、ほかの誰もかれもが人の枠内。シロも、クロも、みんなそうじゃ。ひとしく、不可能じゃ」
「そんなのわかんないじゃない。やってもいないのに不可能だなんて、そんなの諦めてるだけよ」
なるほど前向きだ。
けれどそれはまだ歩き始めたばかりで、クロが積んだ経験が薄いから言えることでもある。
歩き詰め、疲れ果て、様々なものごとを見知って、そのあとにも同じことが言えるだろうか。
シロでさえ、わずか――ほんのわずか、草臥れはじめているというのに。
「困難で、険しく、報われる可能性はごく低い。ゼロとほど近いと言ってええ。それでも――」
「それでも。その程度で目指すことを諦める理由にはならないわ」
「うん。ほーか」
笑ってしまうほど真っ直ぐな澄んだ瞳が眩い。
まるで太陽のようで。きらきらしてる。
それは、見ているだけでシロにも活力を与えてくれるような気さえして。
「じゃあ……競争じゃね」
「え」
「シロとクロでぇ、競争。どっちがさきにせんせーの隣につくか、勝負じゃ」
ふにゃりと笑うシロの言葉に、クロはぽかんと口を開いて……すぐにくすくすと笑いだす。
あぁこのひとは認めてくれるのだと嬉しくなって、こんな子供の戯言にも真正面から応えてくれる。
シロがクロから活力をもらったように、クロもまたシロから勇気をわけてもらった。
本当は弱虫の自分がどこかにいて、並ぶ問いに震えが走って、でもがんばりたいと言葉だけでも強がって。
だけど、今は肩の力を抜いて笑える。それは、心の底からの笑顔だってわかるから。
「そうね、競争しましょ! ぜったい、わたしが勝つんだから!」
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