19 天空物語


 ――空は最初、陽の光が眩いだけで色はなかった。

 

 あまりの眩しさに、ひとびとは空を見上げることもできなかったという。

 陽が沈めばすぐに夜が来て真っ暗。やはり色のない空の下でひとびとは不便に過ごしていた。


 あるとき、瑠璃色の魔術師が天にたどり着いた。

 それから空は瑠璃色に染まり、陽の光りに薄れて青空になった。

 ひとびとはその日はじめて空を見上げた。


 しばらく経って、次に翠色の魔術師が天にたどり着いた。

 それから夜空に月と星とが生まれ、夜空に明かりが灯った。

 ひとびとはその日はじめて夜を見渡した。


 さらにすこしして、最後に赫色の魔術師が天にたどり着いた。

 それから夕暮れと暁が生まれ、昼夜の間に立って陽と月との仲を取り持った。

 ひとびとはその日はじめて天を見知った。


 そして、天にまします三色の導師はこう思ったという。


 ――三人もいるのなら、私ひとりが地上に降りても構うまい。


 それぞれがそれぞれに隠れて地に降り立ち、そのため知らずそらからになる――



    ◇



 リュミエル女史の案内によってクロが訪れたそこは、屋敷よりもなお広々とした図書館だった。


 どこまでも続く敷地に所せましと書棚が並ぶ。

 それは天井近くまで高く本を積み立てて、備え付けの脚立がないととても手を伸ばしても届かない。

 当然、その棚には一部の隙もなく本が詰め込まれ、背表紙がこちらを誘うように様々な興味深いタイトルを帯びている。


 一体どれだけの数の書物が、ここにはあるのだろう。

 一体どれだけの数の文字が、ここにはあるのだろう。


 無限にも思える途方もない知識の園、踏み込んで気圧されてしまうのはやむかたなかろう。


 だがクロには目的があった。

 こんなに大きな図書館になら、きっとあの本があるはずだ。いや、むしろ屋敷の書庫になかったことに不満というか……たぶんアカがわざと置かなかったのだろうと思う。


天空そらから物語」


 それは天にあるべき導師たちが、軽い気分でその座を空にして地上で遊ぶ様を描いた書物。

 要するに、三天導師の御伽話を描いた書である。


 世界各地に彼らの逸話は残っている。

 東西南大陸から極北地まで、どこにでも彼らの足跡は見受けられ、それらの話を蒐集し取捨しまとめあげた。

 そういう本は幾らかあるが、その中でも最も有名で「教本魔術百八選」につぐ売り上げを誇った書物が「天空そらから物語」である。


 クロは司書のひとを見つけて要望を伝え、数分もなくそれを手に収めていた。

 この広大で膨大な書棚からもこんなに素早く見つけられる書が、どうしてうちには置いていないのか。


 もしやアカが恥ずかしがっているのだろうか、すこし笑える想像をしながらクロは適当なテーブルに座って書を開く。

 

 序に天に上がった三色の魔法使いのお話。

 次に地上に降りた三色の魔法使いの奇跡と悪戯のお話。

 終に地上で出会ってしまった三色の魔法使いが驚くお話。


 そうした概要くらいはクロも知っているし、昔にもっと薄い絵本で読んだ。

 はじまりと終わりはそれにも記載されていたし、少々のエピソードもあった。だからクロの知識は、そこ止まり。

 もっと詳しく地上での旅路を読んでみたいと思っていた。


「あっ、アカの描写だ」


 しばらく読みふけっていると、ふと赫天の導師について外見が描写されていた。


 曰く――ありきたりな白いローブに、むつの円環を鳴らす錫杖を携えた白髪長身の青年。

 しかし最大の特徴は全身の白を忘れさせるほどに燃え盛った赫炎の瞳をもつ。


「へぇ、案外そのままなのね」


 とはいえ白いローブに杖、白髪長身、赤い目……それらの一個一個ならどれも珍しいものではないし、複数兼ね備えてもまあいないこともない。

 アカが王都でほっつき歩いていても、それで三天導師だと気づかれる心配はほとんどない。


「あ、そうだ」


 アカの外見があるのなら、もしかして他の三天導師の外見描写があるのだろうか。

 思いついてページをめくっていると、


「「天空そらから物語」って、まさかそんな古臭い御伽話を読んでる学生がいるの、この学園は」

「……なによ」


 不意に声がした。

 座するテーブルの、その正面から。


 書から顔を上げれば、目の前に座る不満げな少女がいた。

 顔かたちは美人に値するのに、その碧眼は退屈ばかりを物語っている。

 茶色の髪は波打つように揺れていて、それは身体のどこかが必ず動いているがため。じっとはしていられない性質なのだと、なんともなしに判断できる。

 

 クロのほうも不機嫌を隠すこともなく誰何すいかを。


「あなただれよ」

「あら、名前を聞くなら先に名乗るのが礼儀じゃない?」


 礼儀と言われると弱い。

 それを過つことは躾けて育ててくれた人への侮辱になるから。


「……クロよ」

「クロ!?」名前を聞いた途端に腹を抱えて「あはは! もしかしてそれ魔術師名? 師匠がいるわけだ。それでそんな適当な名前もらっちゃったんだ、随分といい加減な師なのね」

「先生のことをばかにするのは許さないわ」


 馬鹿にされたことを理解すれば、クロの敵意は鋭く尖る。

 特に、その矛先がアカに向いているというのなら、許すことはできない。


 けれどそこは素直に謝罪が返った。


「それはごめんなさい。アタシの名前はミーティよ。塊坤カイコンのバルカイナの弟子をしている」

「? だれよ、それ」

「はぁ? 塊坤カイコンのバルカイナを知らないの? 月位ゲツイ九曜クヨウの一角よ?」


 今度はミーティのほうが苛立ったように指を顎もとに添え問いを並べる。

 彼のことを知らない魔術師がいるわけないと、そう信じきっているかのようだった。


 クロにとっては知ったことではなく。


月位ゲツイは、たしか位階で二番目だったかしら」

「一番よ、御伽噺を混ぜないでくれる?」

「……そうだったわね。それで、月位ゲツイはわかるしすごいけど、クヨウってなによ」

「そんなことも知らないなんて、あなた本当にここの生徒?」

「ちがうわよ。ただの見学」


 ようやく根本的な勘違いについて言及がなされ、ミーティは理解とともにゆらゆらと指を振る。

 とはいえ悪びれた風もない。


「あら、そうなの? そういえば一般開放もしてるんだったわね、ここ。勘違いしちゃったわ」

「……でも」

「なによ」


 そのへらへらした態度が、やはりクロには癪に障る。

 だって、こいつはおそらく。


「でもここにはわたしの姉弟子が通ってる。あまり見下したようなことを言わないで」

「へぇ、そうなんだ」


 どこか嗜虐的に、少女は笑う。

 狙いを誤ったと思われた矢が、思わぬ的に命中していた奇妙が面白い。


「こんな学園なんて箱庭で、その姉弟子ちゃんとやらは本当に強くなったのかしら?」

「……どういう意味よ」

「師がいるんでしょ? じゃあその師に教わればいい。なのに学園にまで通って、それって時間の無駄じゃないの? 学園こんなところで学べることなんかたかが知れてるでしょ」


 明らかな学園という教育機関への蔑み。

 師への信奉だけではなく、なにか嫌悪感を滲ませた言い方に思えた。


「それは、先生が、自分からは教えられないこともあるからって……」


 先ほど自分が訊いたこと。

 先ほど自分が答えてもらったこと。

 けれどクロの発言は受け売りでしかなく、その言葉の真意について深く理解しているわけではなかった。

 だから言葉は弱く、問いただすミーティの口を止めることはできない。


「なにそれダサくない? たしかに一個人じゃ教えることに限界はあるかもしれないけど、だから他の師に頼るって、それ負けの宣言じゃないの?」


 自分ひとりではこの弟子を育て上げられませんと、そう宣言することとなにが違う?

 かと言って、ミーティがそれを侮蔑するわけではない。徒弟制を軽んじることはなく、単に師にも優劣があるというだけのこと。


「べつに、あなたの先生とやらがそこまでの師であったというだけの話だけどね」

「先生を侮辱するなと言ったはずよ!」

「なによ、アタシ間違ったこと言ったかしら?」


 静かな図書館で、ふたりの少女が立ち上がって睨み合う。


 机を挟んでいるから手を伸ばしても届かない。

 だが、ふたりは高名な魔術師の弟子、この距離は既に間合いの内。

 ぴりぴりと緊張感が高まって、魔力が膨れ上がっていく。今にもぶつかりあって弾けそうな危機感が周囲に敷かれていく。

 けれど引けを取らないようにと強がるクロは、おそらくミーティがその気になれば容易く敗れる。

 クロは魔術師といっても、未だ足元の低みにしかいない花のごとくにか弱いのだから。


 それでも退かない。

 勝てないからと意見を翻すような不様は絶対にしない。


「正しいも間違いもないでしょ。ただ大事なひとを貶されたら腹が立つって、それだけよ……あなたは違うの?」

「……当然アタシも怒るけどね、分を弁えずに誰彼かまわず突っかかってると痛い目見るわよ」

「それは警告かしら。それとも」


 これからそうしてやろうという、宣告か?

 言外の問いに、ミーティは唇の端を吊り上げて――


「失礼」


「っ!?」

「せんせい!」


 ふたりの予想外の方角から声が割り込む。

 両者まるで気づけなかった。

 ここまで接近され声をかけられるまで、存在していなかったように知覚の外。

 しかし忽然ながら確かにそこには白いローブを纏った青年――アカがいる。


「図書館ではお静かに。他の方々の迷惑になりますよ」


 神妙な雰囲気を和らげるように冗談めかしてアカは言った。

 

「あまりうるさくすると、怖い先生がたが集まってきて怒られてしまいます」

「っ」


 ミーティはそこで熱くなり過ぎたことを自覚し、自らの人差し指をかじる。

 それで落ち着いたのか、二秒も待たずにできるだけ優雅に肩を竦めた。


「そうね。騒がしくしたのは謝るわ……けど、クロと言ったわね」

「なによ」

「覚えておくわ、小生意気な子ってね」

「わたしも覚えておいてあげるミーティ、嫌味なやつって」


 言い返すだけ言い返すと、クロはさっさと踵を返してしまう。

 アカが来たのなら、こんなのと言い争いをするだけ無駄だ。師の手をとって、早足に出口へ向かう。


「アカ、行きましょ」

「はいはい」


 ミーティもまたなにか言いたげにしつつも反対方向に足を向けて、この場を辞した。


 ふたりの少女の心に巡る思いを残して、この奇縁の邂逅は終わりを告げる。


    ◇


「あ。そうだ、アカ」

「わりと先ほどの少女となにを言い争っていたのか気になるのですが……ともあれ、どうしました?」

九曜クヨウってなによ」

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