シロ3 夜景


「……?」


 虫の声すらしない夜のこと。

 ぐっすりと眠っていたクロは、なぜだか妙な胸騒ぎを覚えて目が覚めてしまう。


 覚えのない感覚だった。

 似ているものをどうにか探せば、高いところから地面を覗き込んでいる時のような、遠い空の向こうに得体の知れない怪物が羽ばたいているのを見上げたような。

 そんなようなものに近いかもしれない。

 

 半身を起こし、部屋中を探しても異変はなく。

 外だ、と直感した。

 そのままなにかに突き動かされるように起き上っていた。


 瞼をこすりながら部屋のドアを開け、よたよたと危うい歩みで廊下を抜ける。

 降りる階段の段差がいつもよりもずっと高く感じ、一段一段慎重に下っていく。

 長い階段を終え、玄関から出ると――


「おや?」

「ありゃりゃぁー?」

「えっ、アカ……とシロ?」


 そこには先客がいた。

 いつもの白いローブを纏ったアカと、薄手のカーディガンを羽織ったシロだ。

 どうしてこんな夜更けに外に?


 全員ともに驚いていると、まずシロが口火を開いた。


「なんじゃ、クロもあれに気づいたん?」

「え? あれ? ええと……?」

「なにか、言葉にできない胸騒ぎのようなものを感じて目が覚めてしまったのでは?」


 自分で自分の感覚がわからないで困惑するクロに、アカはもしやと具体的に問いを向ける。

 すると懊悩から解放された笑みでクロはこくこくと素早く頷いた。

 言葉にできない胸騒ぎ、それは見事にクロの抱いているものとどんぴしゃだった。


 アカは、苦く笑う。


「まだ魔力感知を覚えて三か月程度だというのに、既にあれに気づきましたか」


 いやはや、本当に恐ろしい才能だ。

 感慨深そうに言われても、まだ意味がつかめない。

 どこか蚊帳の外を覚え、クロはわずかに唇を尖らせる。


「ね、さっきから言ってるあれって、なによ」

「あれじゃー」


 シロは悪戯っぽく笑って遠く遠くを指でさす。

 小さな指先を辿り、クロは指示された方角へと目線を移していく。


 草原を超え、木々を超え、小高い丘のさらに向こう。

 そこには山々があった。

 雄大な自然そのものといった圧巻の様は、遥か遠い場所から見上げても高く高く天を摩する。


 見るべきものはそれではなかった。


 描かれた稜線を跨いで通るなにがしか――それこそが見るべき驚き存在。


「な……によ、あれ」


 


 山を、あの大きな山を、軽々と跨いでいるなにか。

 その巨体は一体どれほどのものだというのか。

 雲を突き抜け、星々にさえ手が届きそうなほどの巨体は真っ黒で、しかし人の形をなしている。


 巨人、というやつなのだろうか。いや、それにしたってでかすぎやしないか。本で読んだ巨人は精々が十メートルと書いてあったように記憶している。というかそもそも巨人はただの創作のはずで。

 では、あれは――


巨影山魔デイダラボッチといいます」

「え」


 惑い恐れる少女に、アカは笑いかける。いつものようにささやかな授業を開く。


「あれの名です。神話魔獣の一種で、巨大な人型をした影です」

「かっ、影?」

「はい。黒いでしょう?」

「そりゃ黒いけど……でも影は地面に映ってるものでしょ」

「彼も陽が出ている間は地面に映り潜んでいますよ。夜になると実体化して闊歩しはじめますが」

「……神話魔獣ってたしか、御伽噺の存在じゃなかったっけ?」


 思い出すように言って、クロは理解を放棄する。


 神話魔獣といえば、天空そらから物語において登場する神話の時代から生きる魔獣。この世に溢れる魔獣の中でも最上位にして知恵をもつ特異な怪物だ。

 巨大にして狂暴、破滅にして害悪。

 出現するだけで国が亡ぶと記載され、それ故に実在するはずがないと断ぜられるほどに恐るべき存在。


 それはたとえば、北に封ぜられた竜であったり。

 それはたとえば、海に潜む八腕の悪魔であったり。

 それはたとえば、山を運ぶ影の巨人であったり。


 長らく恐怖の象徴として語り継がれた正しく神話の怪物たち。


 しかし――御伽噺の上では、彼らはやられ役。


 作中において、神話魔獣は一部を除き全て三天導師が滅ぼしたとされる。そのため現代には存在しないのだと。

 ちなみに赫天カクテンは迷惑だから駆除し、瑠天ルテンは害してくるなら返り討ちにし、翠天スイテンはなんか目つきがムカつくから殺したらしい。


「クロは運がいいねぇ、あんなん見れるんはそうないけぇ」

巨影山魔デイダラボッチは魔力痕跡を残さず移動し、隠蔽能力に優れた生態で発見が困難ですからね、そういう意味では確かに幸運かもしれません」


 巨影山魔デイダラボッチという怪物は世界各地で目撃情報が寄せられはするが、その全てがわずかな偶然のみ。

 昼は大地の影として隠れ潜んで、夜に実体化しても魔力反応が極端に低く通常の感性では掴めない。

 その上、視認できたとしても漆黒の巨体ゆえに夜の闇と判別が困難である。



 ――そうではなく。

 クロは暢気なふたりに声を張り上げ、危機を憂う。


「いや! いや! あれ、危なくないの? あんなにおっきいのよ!?」

「歩いてるだけですし」

「歩いてるだけで迷惑でしょ!」


 踏まれたらまず即死だろうし。

 足音は地鳴りのごとく周囲に轟くだろうし。

 なんなら人とか食いそうだし。


「いえ、彼は本質的に影ですので、触れようとしない限り触れられませんよ? 足跡さえ残りません」

「じゃあ無害なの?」

「いえ無害とも言えないのですが……」

「どっちよ!」


 叫ぶクロに、シロがそれも大丈夫とにへらと軽く笑う。


「前はぁ、ちょっと迷惑なことしちょったけど、せんせーが懲らしめたけぇ大丈夫じゃよ」

「アカなにやってるの!?」


 暢気の原因は自分の師であった。

 頭を抱える少女に、アカは世間話のように――本人の意識ではまさに世間話なのだろう――次々と奇天烈なことを語る。


「いえ、その。彼は山を作るのが好きらしいのですが」

「えぇ……?」


 山を作るのが好きって、なんだそれ。

 趣味にしても壮大すぎるだろう。いやあのスケールからすると丁度良い規模と言えるのだろうか。

 わからない。わかりたくない。


「その際には物質と接触するわけですが――あるとき山作りに人里を巻き込みかけまして、それを止めたことがあります」


 割と御伽噺そのままの話である。

 だが当事者から事の次第を直接聞くのは、書で読み取る時とは盛大に印象が異なる。


「……ちなみにどうやって?」

「それはもちろん、やめてくださるよう頭を下げてお願いしましたよ」

「でも聞き入れてもらえんくって最終的に力づくじゃったよね?」

「シロ、それだと私が乱暴者みたいに聞こえてしまうじゃないですか」

「そこじゃないでしょ!」


 クロは叫んだ。渾身の絶叫だった。


「あのでかいのを力づくで抑え込めるっていう時点でおかしいじゃない! どんな魔王よ! あぁ三天導師だったわね!」

「え、はい、そうですが」


 なにを当たり前のことをとばかり、アカもシロもきょとんとした顔をする。

 常識人はこの場に自分ただひとりなのだという事実に、クロは打ちのめされそうになる。

 だがこの場のマイノリティだからと言って、全世界的なマジョリティなことは不変である。挫けてはいけない。


「はぁー……」


 巨影への恐怖とか焦燥とか、ふたりへの妙な憤りとか呆れとかを重いため息とともに一挙に吐き捨てておく。

 なんかもうこの場で騒ぐだけ無駄であると悟った。


「それで、けっきょく先生とシロはなにしてんのよ、あれが変なことしないか監視してるとか?」

「いえ? 単に世界の広さや雄大さを観賞していると言いますか、大自然ってすごいなぁっていう心地になっているだけと言いますか……」

「珍しい景色があったからせっかくならって眺めとるみたいなもんじゃ」

「あぁそう」


 ことの規模に対しあまりにも感情が陳腐であり、激しく釣り合いがとれていない心地になる。

 壮大なアンバランスに叫び出したい衝動にはそっと蓋をして、ともかく理由がどうでもいいことだと理解するとクロは全部放り出す決断をする。


「じゃあわたしは戻って寝るから、おやすみ!」

「おや、見ていきませんか?」

「けっこうよ!」


 なぜか肩を怒らせて帰っていくクロの心情があまりわからないアカであった。



    ◇



「それにしても、ほんとにクロすごない?」

「はい、本当に」


 クロが去ったあとにも、ふたりはまったりと夜景を眺める。

 主な話題は、今先ほど走り去っていった少女のこと。


 その才気には、このふたりをして苦笑しかない。


 実際の話。

 シロでさえ、巨影山魔デイダラボッチの存在を完ぺきには知覚できていなかった。


 ほんとうに気のせいと流した程度の弱弱しい感覚と、アカが屋敷を出たという事実があってこそ、起き上がることにしたのだ。

 アカが彼の存在を気にせずスルーしていたのなら、シロもまた眠り続けていたことだろう。


「まあ、魔力感知は努力よりも才覚寄りの技能ですからね」

「そいじゃあ、クロのそれはシロよりずっとすごいってことじゃね」


 クロが魔力感知の訓練をはじめて三か月とすこし。

 その短期間で世の百人も探知できないような幻想を見破った。

 幾ら才覚がものを言うと言っても異常なレベルであろう。


 すこし目を伏せるように気落ちするシロに、アカは自然と頭を撫でて。


「ですが、努力がまるで無駄というわけでもありませんし、自分にないのなら鍛錬あるのみですよ?」

「むー、せんせーは厳しいね」

「ちょうどよい教材があるわけですし、やってみましょう」


 笑って指さすのはもちろんあの影の巨人。

 遠く、薄く、隠れているその超常の存在を知覚することは難儀であり、故にこそそれをするのが練習になる。


「……」

「シロ?」

「……ほうじゃね、やるよ」


 不貞腐れていてもしょうがない。

 悩んでいても進まない。

 シロには立ち止まっている暇などない。


 その悲壮なほど不退転の決意に、アカは一瞬口を挟もうとして、言葉をノドで押し殺す。

 ゆっくり言葉を嚥下して、視線を遠く山向こうへと送る。


「では自らの感覚を明確にイメージして、その感覚をもって遠くにいる彼に触れてみましょう」

「む」

「触れて撫でて、感触や形を実感します。手のひらで触れたものを触覚で感じるように、隅々まで六感を這わせて」

「むむぅ……!」


 唸るシロにアカは笑う。窘めるように言ってやる。


「そう無意味に気張らず。ゆっくりと、踏み締めるようにしてやっていきましょう」

「ほうじゃね。夜は長いけぇ、仕舞いまで付き合いんちゃいよ」


 アカのローブの裾を弱く掴んで、傍にいて欲しいと言葉にださずに伝えている。

 返す言葉はないけれど、振りほどかないだけでシロには充分で。


 ふたりの視線は遠く、けれど同じものを一緒に見ている。





    □


 三天導師がこの世に現れるまでの長い時代、神話魔獣は真に最悪の災厄であった。

 しかし三天導師の出現でほぼ全滅の憂き目にあい、現代の認識では御伽噺の存在と思われて実在さえ忘れられた可哀そうな怪物。


 ちなみに巨影山魔デイダラボッチくんはボケ老人のごとく百年周期くらいで言われたことを忘れてしまい、定期的にアカに叱咤とともに魔術でぶっ飛ばされる。

 でも比較的温和な奴なので殺されはしない。

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