シロ1 夜中


 とっぷりと夜が更け、屋敷中で寝息以外に音がなくなったころ。


「…………」


 ふとアカはそれに気が付いて目を覚ます。


 もともと、アカの領域にまで達すると睡眠は不要となっている。

 けれどまあ、弟子たちに生活習慣を合わせて夜には眠るようにしている。睡眠は、心地よいので。


 けれどかと言って不要なものであることは変わらず、そのため屋敷に敷いてある術式によってこうして目覚めることはある。


 侵入者などこの辺境の屋敷にはほとんどありえないが――ほとんどである以上は警戒をしておくべき。

 そのため屋敷に異変があれば、アカは自動で目覚めるように仕掛けが施してある。


 たとえば、深夜において一階のリビングで誰かが座っているような異変とか。


 すぐに部屋で眠る弟子たちの無事を確認しようとして――不在の者がひとり。

 それが下の階でミルクを啜っている者だと気が付けば、安堵のため息が漏れる。


 とはいえ、捨て置くわけにもいかない。

 ここの子らは皆、過去に拭いがたい傷跡を隠している。四人が四人とも、夜、悪夢に魘されることがある。

 そんな眠れない時に、傍らにいてあげるのは師の務めであろう。


 アカはとりあえず起き上がり、部屋を出て階段をくだる。

 廊下を渡りリビングへと辿り着けば。


「おお、せんせー、やっと来たんじゃねぇ」

「……シロ」


 アカの気配に椅子から振り返ったのは、マグカップを両手で持ったシロであった。

 夜の中、小さな灯りだけが照らす少女はどこか儚げで、しかしにへらと笑う姿は風船のように軽い。


「せんせーもこっちに座りんちゃいよ」

「ええ、まあ、そうしましょうか」

「ミルク、飲むー?」


 言いながら、テーブルの上にはアカのカップが置いてある。覗けば既にミルクが注がれており、断られることなど考慮もされていないようだ。


 ありがとうございますと隣に座りと手を伸ばすと、シロはぱちんと指を鳴らす。

 術式が構築され、魔術が行使される。

 アカの掴んだカップが熱を帯び、冷えていた牛乳はホットミルクへと変化する。


 その術の精度に感心しながらアカは暖かなミルクを一口いだたく。


「おいしいじゃろー」

「ええ、おいしいです」


 この屋敷には牛乳が常備されている。

 アカが紅茶好きで、アオやキィに学園帰りのついでで購入を頼んでいるからだ。

 そしてそういうところにお金を惜しまないため、ちょっとお高い牛乳であり、だからそれを温めたホットミルクがおいしいことに異論はない。


 ただそこでシロが胸を張るのはちょっとわからないアカである。


 カップを置いて。


「私が来ると、わかっていたんですか?」

「屋敷に刻まれた術式、もう半分くらいは読めるようになったけぇね」

「半分、それはすごい」


 これでも術式は大分に複雑にしたつもりだ。

 変に読み取られては防犯の意味がないため、アカにできうる最大限上級の術を編んだのだが。


「じゃろー? シロはせんせーの一番弟子じゃけぇ」


 胸を張って誇らしげに、シロは言った。

 今度のそれは、誇示して誰憚ることはないレベルの功績であろう。


 しかし直後にシロはぽつりと漏らす。


「まぁ……今代の、じゃけど」

「……以前にも言いましたが、シロは私の見てきた子らで一番才能がありますよ」


 妙なところに拘るな。

 アカなどはそう思うのだが、シロはそうは思わない。


「聞いたねぇ。けど、いまはどうじゃろ? クロが来てからは、まだその評価は聞いちょらんよ」

「そうですね。じつは、クロも相当の才能があります」

「じゃろうね。シロでもわかるくらいじゃけぇ。けど、あんまし比較はできんよ」


 随分と細かく問いが並ぶ。いつもの言葉の緩さに反して、よほどに気になっているようだ。


 正直に言って才能なんて不定形極まる流動的なものを数値化するのは難儀で、まして比較するとなると悩むものだ。

 わかりやすく誰かを基準にして考えれば、まあ。


「だいたい、あなたと同じくらいです」

「そうなんじゃ。じゃあ、クロもぎりぎり人間なんじゃね」

「……ええ。そうなります」

「無理すれば、人を超えられるってことじゃね」

「無理はしないでいて欲しいのですが」

「いやじゃ。シロは絶対、ひとの枠を超えるけぇ」


 眠そうで、気だるげで、けれどそれは決意表明。

 その内実にある確固たる意志は不屈である。 


「そのためなら、いま、せんせーとあんまり話せんのも触れ合えんのも、我慢するけぇね」


 一抹の寂しささえもミルクとともに飲み込んで、少女はまだまだ強くなる。

 どこまでも、天に等しき師へとたどり着くまで。


「きっと、百年後くらいにはシロ、せんせーにべったりじゃと思うんよ。そうなるといいって、思うんよ」

「そうなれば、素敵ですね」

「せんせー、信じちょらんね?」

「そういうわけではないのですが、やはり、難しいと言わざるを得ません」


 シロのやりたいこと。目指している場所。

 それはどうしようもなく困難で、なによりも不可能に近しい。


 天位に到達した存在は、史上三人のみ。

 

 アカはゆるやかに首を振る。

 弟子の邁進を止めたいわけではない。否定ばかり差し向けられても不快だろう。

 話を変える。


「それで、どうしましたかこんな夜更けに」

「それがじゃねぇ……ちぃと言いづらいんじゃけど」


 天に挑みかからんとする少女は、恥ずかしげに。


「怖い夢、見たんよ」

「怖い夢、ですか」


 頷いて、シロは手元のミルクに視線を移す。


「シロがしわしわのおばあちゃんになっちょってね」

「はい」

「でも、せんせーが今と変わらない姿でシロを介護しちょるの」

「介護ですか」

「怖ない? シロはすっごい怖かったんよ」


 本当に本当に恐怖して、珍しいことにシロは震えていた。

 なににも動じず自らを貫けるような少女であったが、それでも、恐れることはある。


「せんせーを、独りにしてまう」

「…………」

「シロのがんばりが足らんで、シロの気持ちが足らんで、せんせーを独りにしてまう。そんなのはイヤじゃ、そんなシロはシロが嫌いじゃ」


 シロの最も恐れることとは、アカを独り残して死ぬことだと。

 自らの死ではなく、その後に残った師の心をこそ思い遣っての恐怖。


 アカは、なにも言えなかった。

 赫天のアーヴァンウィンクルという存在がひとりの少女の人生にこうまで影響を与えてしまったことを後悔すればいいのか。

 弟子にこうまで慕われていることを喜べばいいのか。

 それとも、あなたならできると励ましてやるべきなのか。


 巡る思いに結論がだせず無言でいると、シロは小さく笑って。


「シロだけが知っちょることって、けっこうあるねぇ」

「……はい、そうですね」


 かろうじて返答はできた。


「夜、眠れない時に起きてたら絶対なぐさめに来てくれるって、シロしか知らん」

「ええ」

「せんせーが弟子を作りたがらない理由も、シロしか知らん」

「はい」

「せんせーがなんで寂しいのかも、シロしか知らん」

「寂しくなど、ありませんよ」

「ほうじゃね、今は寂しくなかろーね。けど、ひとりになって、ふとした時に寂しいって思うちょる。わかるよー?」

「…………」


 シロは他の子らよりも多くのことを知っている。それは付き合いの長さというやつで。

 だから、他の子らよりも、簡単にやり込められてしまう。


 そして彼女の言葉は間違ってはおらず、だから、アカはシロの無茶を強く制止できずにいる。

 シロは本当に、もしかしたらではあるが――アカと同じ領域に届きうる逸材だから。


「はー、せんせーと話してたら元気もでたし、シロもう寝るー」

「……シロ」


 マグカップを洗い場に置く背中に、アカは声をかける。

 んー? と振り返る少女に、なにを言いたかったのか自分でもわからない。

 けれど、なにかを言わねばと強く急かされて声を絞り出す。


「私は、あなたの人生を歪めてしまったのかもしれない」

「せんせーに会わんかったら、シロ、死んじょったよ?」

「それでも、私の教えが誤っていたかもしれません。そこは、もはや答えのでない問いかけでしかありません」


 親が子を育てるように、師とは弟子を教え導くもの。

 教えるというのが厄介で、その成否を判断してくれるものなど存在しない。


 アカは常に自問自答している、自身の教えてきたことが本当に正しかったのかどうか。

 特にシロは幼い頃から共に過ごしていた子で、ずっと傍にいたから、なににもアカのことを念頭に置いて考えてしまう。

 そういう風にしてしまったのは、アカなのではないか。


「ですが、あなたががんばりたいというのなら、それを応援して助力するのが師の務め」

「せんせー……」


 かと言って、今更それはもうどうしようもなく、過去は変えられない。

 今までの選択を間違っていなかったと祈るのが精々。

 

 だから謝ったり、諭したりもしない。

 もはや終わったことで、今の彼女を思い遣って言葉を選ぶべきだと思う。


 ――言いたい言葉は、その時になってようやく見つかった気がした。


「今のあなたはここにしかいません。そして、そんなあなたの師も、この私だけです。

 だから、その……」

「?」

「私はシロが好きですよ。がんばっている時も、そうでない時も」


 いつも眠たげなシロの瞳が大きく見開いて、だけどすぐに目を細めて笑った。


「えへへ、シロも! シロもせんせーのこと、いつも大好きじゃよ」


 言うだけ言うと、シロは珍しく駆け足で部屋を去っていく。

 階段を駆け上がる足音には深夜の遠慮もなくて、困った子だなぁと思いながら、アカはカップに残ったミルクを飲み干してしまう。


 暖まった心は、きっと少女の淹れてくれたホットミルクのお陰だろう。

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