アオ1 甘え
「ただいまー」
と、今日もまた元気よく帰りを伝えるキィの声が響いて、おやと思った。
彼女らが帰宅したのは、いつものようにクロに授業をしていたところだった。
最近は、夕方授業の場合それを合図として適当に区切りをつけ終わらせることとしていた。
クロもそれを既に察知していて、座ったままで腕を伸ばして身体をほぐし始めていた。
まだなにも言っていないのだが、かと言ってちょうどいい塩梅ではあって、無理に意地悪く続行とするのも大人げない。
アカは「では今日はここまで」と告げ、未だに伸びを続けるクロから視線を切った。
その足で玄関へ向かう。
アカが廊下に顔を出す頃にはドタドタと階段を駆け上がる音が響いてきて、先ほどの不安は的中していたようだと肩を竦めた。
玄関にたどり着けば、キィは待っていたのかそこにいた。
「おかえりなさい」と言えば、「ただいま」とすぐに笑顔で返ってくる。
それから思うところあってじっとキィの目を見つめると、彼女もわかっているとばかりに大きく頷いた。
やはり、そうであるようだった。
キィのただいまに続く声がなく、アカのおかえりを聞かずに部屋に戻って。
つまり、アオが不機嫌ということだ。
こういう時、以前までアカはキィに向かって、今日はなにがあったのかと問うていたのだが。
その問いが十回も続けば、キィのほうから困ったようにこう返された。
「それは、もうアオに聞いたほうがいいと思うなー。だってこれはアオのことだから」
まったく、ぐぅの音もでない正論である。
卑しくも弟子に弟子の不機嫌の理由を先んじて確認しておくというのは、師匠の横暴のようにも思えた。
師にとって軽い頼み事が、弟子にとっては重く断りがたい命令に聞こえてしまうことは、アカにも経験がある。
キィだって毎度聞かれても困るだろうし、なによりもアオがそういう事前の準備に鼻白むであろう。
よって、それから今日まで、アオの不機嫌な日でも、アカは自らアオに聞きに行くことにしている。
キィの「がんばってー」といういつも通りで気の抜けた応援を背に受けながら、アカは階段を上る。
すぐにアオの部屋の前までやって来て、一度だけ深呼吸。
それからノックとともに声をかける。
「アオ? 私です、すこしいいですか?」
「……」
返事はなかった。
けれど、ゆっくりと扉は開き、俯きがちのアオが出迎えてくれた。
とりあえず「おかえりなさい」と伝えても、返答はない。
そうして沈黙のまま、けれどアオは自室へと招き入れてくれた。
アオの部屋は片付いている。
シロほどなにもないわけでもなく、キィほど小物が多いでもない。
身体を動かすようなスペースを作ってあるのを除けば、特筆するところがないとも言える。
アカは勧められるまま、勉強机の椅子に腰かける。
相対するアオはベッドに座り、俯いたままにぽつりと言った。
「ごめん、いつも」
苛立ちと自己嫌悪の混ざった、ざらついた声だった。
「こうして拗ねたら、いっつもアカが来てくれるって、あたし甘えてる」
「構いませんよ」
むしろ頼ってもらえるのはうれしい。
特に、素直じゃないアオのような少女は、いつもぎりぎりまで堪えてしまうから。
わかりやすく不機嫌でいると気遣うタイミングを誤らないで済む。
キィやシロなどはあまり顔に出さずに不満を溜めこむタイプなので、日頃から注意深くしておかねば見逃してしまうのだが……。
弟子らが悲しんでいることに気づけないのは、それこそ、非常に悲しいことだと思う。
「それで、今日はなにがありましたか?」
「…………」
一旦、黙するのは事の再確認か、それとも言い出しづらいのか。
「えっと、笑わないでよ?」
「もちろん」
後者だな、と判じて、苦笑しそうになる頬を引き締める。
「三天導師なんて御伽噺だ」
「?」
「そう言ってた」
別に友達でもなく、むしろ顔も名前も知らなかった通りすがりの学生たちの会話。
一番すぐれた魔術師は誰かというありふれた、そして学生の好みそうな話題で盛り上がっていたグループがアオとキィの傍にいたのだという。
聞き耳を立てていたわけでもないが耳に入ってきたのは、
ふとその中で、気弱そうな少年がこう言った。
「やっぱり三天導師さまなんじゃないかな」
すると、盛んに話していた全員の声が数瞬止まり、すぐに吹き出した。
ありえない、御伽噺だ、馬鹿じゃないのか。
そのようなことを口ぐちに言われ、発言した少年は口を噤むだけだった。
「そんなことない、アカはちゃんといる! 世界一だ!」
代わりに叫びだしたい衝動が駆け巡ったのだとアオは言う。
笑う奴らも腹立たしいが、黙りこくった少年にもまた腹が立っていた。
意志を貫け、挫けるな。お前は正しい。
第三者であり口を挟めない状況下において、その少年だけがアカを擁護しうる唯一の人間で、だからその不甲斐なさは自らの不甲斐なさに通じて気に食わない。
当の少年にとっては、まったくお門違いの不満である。
不機嫌さが上昇していくのが隣のキィに伝わったのか、呆れ混じれの微笑で窘められてしまった。
それで、その場は何事もなく過ぎ去って。
◇
「はぁ、ええと、それは」
そのような話を聞いて、アカがまず思うのは。
――うれしいと気恥ずかしいと、やっぱりうれしいだ。
別段、優れた魔術師という称号に執着があるわけでもなく、人々の評判に興味もないが、弟子に強く信頼されていることがうれしい。
その怒りの根源はアカへの敬意と好意であることは、彼女のその実直さからもたしかだろう。
だが次に抱いたのはそんなことで、という苦笑に近い感情だ。
その人にとって大事なことは、他者にとって理解しがたい時というのはある。
逆鱗の位置が思いもよらないところにあって、不用意に撫でつけてしまうことというのは人間関係においてまま見られる。
そんなことでと軽視した見方がそんなにも怒りを呼ぶ。
それを踏まえた上でも今回の件は本当に、仕方がないとしか言えないのではないか。
それが正しい答えではないとはいえ、自らの尊敬するあの人こそが最も優れていると言い張りたくなる気持ちはわかる。
けれど三天導師という存在は御伽噺の中の架空の魔術師であると、それは現代に生きる大半の者にとっての真実である。
知らないことを責めるのは酷だろう。
無知は自ら恥じ入るもので、他者が責め立てるものではない。
というかアカや他の導師たちが自分で身を隠しているのだから、それを忘れ去られたからと怒るわけにもいくまい。
とはいえ、正論と理屈だけで言い含めるというのは、直情型の少女に対して悪手にしかならない。
なにより、アカのことを思ってこんなにも怒ってくれる少女に、それは無粋に過ぎる。
少女の金色の瞳に宿る怒りの感情はまだ冷めやらぬと告げている。
それに、こちらが理解できないからと、頭ごなしに否定するのは上品ではないだろう。
アオにはアオの、譲れない思いがあるのだから。
はて困った。
なんと言ってやるべきか。
いや、最初はこれか。
「まず、ありがとうございます」
「え……?」
「私のために、怒ってくださったのですよね? それは、とてもうれしかったので」
理由がどうであれ、アオがアカのために怒りを発してくれていること自体が誇らしい。
素直な少女の真っ直ぐな怒りは、裏返し、素直な好意で真っ直ぐな敬意だと思うから。
「ですが、私は自ら姿を隠した者、知人友人を除いて、御伽噺の架空でありたいと願っています。そのほうが、きっと誰にもよいことだと思っています」
それはきっと、アオにとっても。
「私の主張としてはそれが全てで、アオがまた同じような場面に遭遇したら、それを踏まえた上で行動してくだされば」
「……それ、ずるいよ」
怒ってくれたことはうれしい。
けどアカ自身はアオが怒ったことに対して無感動でしかなく、ありていに言ってどうでもいい。
アカのそうした本心を知った状態で、また同じように怒るのならそれでも構わない。それはアオの感情だからだ。
推奨はしないが、止めもしない。自らの心のままに選んでほしい。
そんな風に言われてしまうと、なんだかアオはバツが悪い。
「ちぇ、あたしばっかり空回りってことか」
「いえ? うれしくはありましたよ」
「わかってるよ、何度も言わないでくれ、恥ずかしくなってくる」
にこにこ笑顔の師匠がどうにも面倒くさい。
なんだか今更になって羞恥が湧き上がって、アオは頭を抱えて声を荒らげる。
「あーもう、あたし着替えるから! もう出てって!」
「はい、ではまた夕食にでも」
返答はなく、顔は背けられたまま。
漏れ出そうになる笑みを堪えてドアを開いて立ち去る――その直前で立ち止まり、アカは一度だけ振り返る。
「おかえりなさい、アオ」
「ん……ただいま、アカ」
ようやく返った返答に、アカはとても満足げに微笑むのだった。
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