7 クロの一日
どたどたと慌ただしい足音が、クロの一日のはじまり。
おぼろげな意識をノックするような足音が続き、彼女は目覚めていく。
そしてすこし硬いベッドに毎朝同じように安堵する。
あぁ、夢ではなかったと。
いつかの柔らかで包み込むような、起き上がることをやんわりと押しとどめて縛り付けるようなベッドとは違うのだと。
すくりと身を起こし、念のために部屋を見渡す。
簡素で、狭く、けれど窓が大きく外の広さをいつでも覗ける。今日も青空が綺麗で、陽光がきらきらと輝いている。
ベッドから起き上がり、その身の軽さに笑みがこぼれそうになる。
はて、こうした疑惑と安堵はいつまで続くのだろうとか他人事のように思いながら、クロは服を着替えていく。
彼女が屋敷から持ってきた服はおよそ寝間着か正装の二種類だった。
そもそもクロは病弱で呪いに寝たきり。
所有する服装自体が寝間着や部屋着ばかりで、外出用のものなど持ち合わせていない。
けれど令嬢として外向けの正装は所持していて、来客や儀礼に際してはそちらを着飾って対応していた。
まあ、それも症状が悪化するに従い頻度は減り、アカが訪ねてくるまではほとんど箪笥の肥やしであったのだが。
なにが言いたいかと言えば、彼女が起き上がって着替える服は、どうしても装飾過多な礼服に近しいものになってしまうのである。
それ以外に、持っていないのだから。
なるだけ中でも軽いもの気安いものをと選んだつもりだが、どうだろう。変でなければいいのだけど。
今度、先生に服を買いに行きたいと言ってみようか。
着替えが終わればすぐに部屋を出て階段をくだる。
一回の洗面所に向かうと、先客がいた。
「…………」
「……アオ」
先ほどの慌てた足音の主が、鏡の前で船をこいでいた。
立ったまま眠りこけることのできる様に妙な感心を覚えつつも、そこに居座られても困る。
呼びかけても答えない姉弟子に、クロは肩を叩いて揺する。
「アオったら、起きてよ」
「っあ、わ……わわ。お、起きてる、起きてるよ!」
跳ね上がるように驚いて、アオはすぐにわかる嘘を咄嗟に吐き出す。
けれど振り返って相手がクロだとわかると、一気にしぼむ。
「なんだ、クロか……。わるい。また寝てたか」
「いいけど、だいじょうぶ?」
「あー、まだ終わってないんだよなー」
言いながら、手元の櫛を指の中で揺らす。
そうえいば、髪を梳いていると眠くなるとかなんとか言っていたか。
じゃあ。
「わたしが梳いてあげようか」
「へ?」
「ほら、自分で梳いてると眠くなるんでしょ? だから、わたしがって」
「いやそれは悪いって……」
「でもまた寝ちゃうよ?」
「う。それは否定できないかも」
こういうところでまごつくアオに、クロもクロでお節介かもしれないと強くでられない。
僅かな硬直に。
「なにやってんのー?」
「キィ」
現れたのキィ。
そして彼女は一目で状況を察し、ため息。
「アオ、また寝ぼけてたの」
「あはは」
笑って誤魔化されはしない。
「急いで急いで。またセンセに叱られるよー?」
「わかってるって。クロ、さっきの話は今度しよう。今日は、自分でやるからさ」
「……わかった」
頷いて、クロはキィとともに一旦、洗面所から離れてダイニングへ向かう。
道すがら、キィがちょっと興味深そうな目をちらと向けてくる。
「さっきの話って、なに?」
「えっと」
言葉を頭の中で整理して。
「アオが、自分で髪を梳くと眠くなっちゃうって言うから、わたしがしようかって提案したの」
「わ、クロやさしー。でも甘やかすのはダメだよ?」
センセにもそう言われていると、案外に厳しいことをいう。
とはいえ、クロとしてはそういう問題ではなくて。
「でもそうでもしないと洗面所が使えないわ」
「それもそうだねー。んん、まあ、朝に余裕があって、互いに承知するなら、いいのかな?」
苦笑しつつ結局は当人たちに任せる。
キィとしても、姉妹弟子が仲良く過ごせるのは歓迎したいこと。
話していれば到着もすぐで。
ドアを開ければ、いつものようにアカが笑って挨拶をくれる。
「おや、おはようごうざいます、クロ」
「ん、おはよ、アカ」
◇
賑やかな朝食が終われば、屋敷は水を打ったように静かになる。
アオとキィがいってきますと言って出ていけば、屋敷にはアカとクロだけになるからだ。
……いや、いちおうシロもいるにはいるが、彼女は本当に部屋から出ない。
クロがここに世話になってから、シロと遭遇できたのは初日だけ。
クロの知らないうちに出歩いてはいるらしいのだけど、どうにもタイミングが噛み合わないようだ。
朝、知らないうちにシロのコップが洗い場に置いてあるのを見たことがある。
夜、眠気眼でお手洗いに起きた時に風呂場で水音がしていたことがある。
たぶんそうだろうという気配はあって、奇妙な同居人といった感覚である。
彼女もまた、アカと同じで眠ってさえいれば食事が不要らしいとのことで、健康面での心配はいらないと言われているので、そういうものだとクロは納得している。
さて、ふたりとひとりとなってしまった屋敷は静かだ。
シロはもちろんとして、アカも物静かでだいたいが書斎に籠っている。
クロのほうもアカの読書の邪魔になってはいけないと思い、自室で魔術の教本を読んだり、魔術の自主練をしたりして過ごしている。
最近は運動不足を憂えて庭先で身体を動かしたりもしているが、それはまあ時間つぶしだ。
ある時間になれば、アカに呼ばれて魔術の授業がはじまる。
◇
アカの授業は楽しい。
彼の発する声は柔らかで優しいし、説明は丁寧でわかりやすい。
知らないことを知るのはわくわくするし、できなかったことができるようになっていくのは単純に嬉しい。
そもそも、クロの主目的はアカへの恩返しで、そのための大事な手段が魔術である。
実際、魔術を極めたとしてどういった恩返しができるのかは未だに考えていないけど、まずは手段を得る必要があるのだ。
……それに、誰にも内緒だけれど。
いちばん楽しい理由は他にあって。
アカとお話できるのが、ただそれだけで喜ばしい。
彼の邪魔をしちゃいけない。自分なんかのために思い悩ませてはいけない。
彼は世界で三番目の魔術師、三天導師なのだから。
とてもすごいひと、クロの恩人。
だからいつもは控えている。
アカに会いに行くのも、話しかけるのも、相応に理由がないと自制するようにしていた。
感情的になるのは嫌だった。
感情論で押し通して我が侭が叶ったとしても、それは納得からではなく譲歩であり諦観だろう。
譲歩をあまりに求めすぎると、不満が蓄積していく。嫌われる。
だからできるだけ理屈の通った要望しかださないようにと心がけている。
たぶん、誰もそんなこと思っていない。
たぶん、無駄な空回り。
わかっていても、クロは遠慮という消極的な後ろめたさを振り切れはしない。
唯一、授業の時だけが、大義名分をもって気兼ねなく話しかけることのできる時間であった。
「では、今日の授業もこれでお仕舞いとなりましたので、いつものようにすこし……いいですか」
楽しい時間はあっという間。
終わりを告げるアカに、クロはすこしだけ残念そうにしながら頷く。
「ええ、お願い」
ただ、授業の終わりとともに定例の作業がひとつ。
しっかりと断りをいれてから、アカがゆっくりと近づく。またもういちど声をかけ、そしてようやくクロの額に控えめに触れた。
その瞬間、指先から花咲くように魔法陣が展開される。
それはクロに刻み込まれた呪詛を解析するための魔術。同じ
こうした解析作業は、およそ毎日おこなっている。
そもそもクロの呪詛を解くことが最初の目的で、そのためには呪詛をよく知ることが大事なのだという。
時折、メモ用紙を取り出しなにか書き留めたり、別の魔術に切り替えたりと、熱心な表情でこちらを見つめるアカの顔が、クロはけっこう好きだった。
◇
授業が終われば、アオとキィが作り置きしてくれた食事をいただく。
身体の弱いクロはたくさん食べて多く栄養を身体に与えるべきだ、とふたりが多めに用意してくれている。
そうした気持ちが嬉しいし、なによりおいしいのでお腹いっぱいになるまで食べてしまい、毎度、食後はしばらく動けなくなる。
そんな様をアカが微笑ましげに見遣りながら、残ったものを全て平らげる。
あの細身でよく食べるものだと感心してしまう。
しばらくするとだいぶ腹の調子も戻って、そのころにアカと散歩をする。
体力のないクロに気遣ってだいぶ遅い歩調は、けれど周囲に目を向ける余裕がある。
未だ、クロは外を歩くことも世界を見渡すことも新鮮だ。拙いながらアカとの会話も楽しい。
ただ恨めしいのは我が身の貧弱さ。
すぐに息が上がって休みを挟まねばならない。
その都度、申し訳なくなって、でもアカは笑って許してくれる。
そんな簡単に許されたら、逆に心苦しい。悪いのはクロなのに。
休み休みで草原をぐるっと回って帰宅する。
ときどきフェント村へハズヴェントの様子を見に行ったりもするが、だいたいは歩き回るだけだ。
用もなく無作為に歩くから散歩なのだとアカは言っていた。
家に帰ったらまずシャワーを浴びる。
アカの魔術と魔道具のお蔭で所定のアイテムに魔力を流し込めば湯が沸き雨のように降らせられる。身を清めることができる。
クロの元住んでいた屋敷にも似たような魔道具はあったが、それは水を作り、暖め、熱量の調節をしと別々の行程が必要となった。
微妙なラグがあり断続的にできず、シャワーとしての運用は難しく、精々お湯を張るくらい。
もちろん、それだってだいぶ高価で貴族の贅沢といえる。
クロは湯船に浸かるのが今も昔も好きだ。
こっちの屋敷でも長湯になってしまうのは愛嬌と思ってほしい。
風呂を上がってすこしの頃に、「ただいま」の声が聞こえてくる。
リビングから廊下に顔をだせば、アオとキィが揃って帰ってきているので
「おかえりなさい」
と告げ、できるだけ笑顔を作る。
ぎこちないかもしれないと危惧していたが、アオもキィもまた「ただいま」と笑う。
ただそれだけのことが、クロはけっこう気に入っていた。
おかえりとただいまの言葉の連なりが、どうしても内外を意識させ、まだ内側の自分が外側に出ている人たちを労う。
それはいずれ外に出る番になって「ただいま」と言える日が来ることを身近にさせ、いつか「おかえり」と言ってもらえることが待ち遠しいのかもしれない。
そこからはふたりの、主にキィが今日あったことなんかを話し始める。
キィは会話が好きだ。だから話も上手で楽しい。
相槌を打ちやすい空白を自然と用意し、小さなことでも盛り上げるし、声音の緩急に聞き入ってしまう。
またこちらの話を引き出すのも巧みで、どうとも思っていないような出来事を掘り起こされては話題に仕立て上げてくれる。
それのお陰で、いつもの一日としか言いようのなかった今日を、ああこんなこともあったなと改めて思いなおすことができて、もはや感心してしまう。
同時にあまり積極的に切り出さないアオも巻き込むため、彼女の話も聞けて助かる。
どうしても、気さくで話しやすいキィとばかり話しこんでしまうことに、最近になってちょっと失敗ではないかと思い始めていた。
楽なほうに逃げて、アオとの仲があまり進んでいないのではないかという懸念である。
べつにアオから嫌われているとは思わない。邪険にされてるとも感じていない。
けど、会話の総量を比較してみると、キィとのほうが圧倒的に多いと言わざるを得ない。
同じ姉弟子。同じ屋根の下で暮らす同居人。同じ、アカに救ってもらった者同士。
クロはキィやアオはもちろん、シロとだって仲良くしたいと思っている。
思っているだけで、あまり行動に移れていないのは自身の消極性と臆病のせいだった。
会話の裏でそんなことを考えていると、アカが書斎からやって来る。
彼もまた帰ったふたりにおかえりと伝え、ただいまと返る。
アカも交えてすこしだけ話し込むけど、すこしするとキィが名残惜しそうに会話を切り上げる。
「ごはん作っちゃうね」
「手伝うよ」
すると自然に料理のできないクロとアカがぽつんと残ることになる。
本当に手伝いすらできない不器用で不慣れな身としてはただただいつも申し訳ない。
アカのほうもそこは同じ感想を抱いているのか、ふとクロと目が合うと誤魔化すように笑った。
アカはなんでもできると思っていた。
だから、そういう笑みはちょっと意外なのだけど。
それを問うと。
「そういう時間も、魔術の鍛錬に費やしておりましたので……」
「あぁ……」
納得せざるをえなかった。
現在、魔術の勉強をはじめて一週間ていどのクロからすると、まだまだ先の長さすら想像つかず、その果ての天はどこにあるのかもわかろうはずもない。
アカの先生は、スパルタだったとも聞くし。
ぽつりぽつりと短い会話を何度かしていると、料理の香りが漂ってきて、キィの呼び声にソファを立つ。
そして四人で食卓を囲んでいただきます。
わいわいと賑やかに食事をしながらいろいろなことを話す。
明日のこと、今日あったこと、いつかのこと。
食事が終わればあとは寝る準備に取り掛かる。
一日を過ごしただけで貧弱な身は悲鳴を上げていて、すぐにでもベッドへ飛び込みたくなるのを堪えてシャワーを浴びる。
髪を乾かして梳かしたり、歯を磨いたり、明日の予習で教本に目を通したり、細々とした作業を終えれば、最後にアカのもとへと赴く。
毎晩、眠る前に挨拶を。
「先生」
「はい、おりますよ」
「えっと、あの……」
「……」
いつもいつも、言葉が途切れる。
滑らかに言えない。
それでもアカはただ静かに言葉を待ってくれる。
それだけで、クロは自らを奮い立たせることができる。
「おやすみなさい!」
「はい、おやすみなさい」
そして今日もよい夢を。
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