5 眠りおっさん
「さて、準備はいいですね、クロ」
「問題ないわ」
玄関先、既に出発したくてうずうずとしている少女には、師の確認はまどろっこしいことこの上なくて。
食い気味の返答に、アカは苦笑しながら玄関戸を開く。
外の世界が広がった。
そこはただの庭先。刈り揃えられた芝生と簡素な柵、そしてポストがあるだけ。
けれど踏み出す一歩目はまずはそこだ。
アカが進めば、クロはその後ろをついていく。
あっさりと庭を抜け、柵を通り越し――本当に。
「外……」
「はい」
短いつぶやきに、アカも短く頷いた。
原っぱが無限のように広がっている。木々がまばらに並んでいる。
緑一色の大地に、踏み均されただけの道というにはあんまり粗末な土色が伸びている。
それだけなのに、どうしてだろう胸が一杯になる。
思わずなにも考えないで走り出したくなる。
「わたし」
知らず、言葉が漏れ出ていく。
「わたし、庭から出たの、もしかしたらはじめてかも……」
「……ずっと、辛い思いをしてきたんですね」
「ちがうの。それは、父様や母様のやさしさで、弱いわたしが悪くて……でも、出てみたくて……」
「はい。今なら歩き出せます、私が横にいますよ」
「うん。行こう、先生」
小さな歩幅でゆっくりと、クロは庭を抜けて歩き出す。
殺風景でなにもない原っぱを、それでもクロは興味深そうに見渡しながら行く。
もとより身長の低さに比例して脚は年相応に短く、かつ箱入りの弊害で体力もない。
その歩みは実にスローであり、かつ危なっかしい。
アカはそのあまりに遅々とした歩行にも付き合って、意識して足を鈍く進める。
付き添うように横に並んで、いついつふらついてもフォローできるようにと注意を凝らす。
このペースだと、いつもなら一時間程度で歩いて行ける村にも倍近くかかってしまいそうだ。
アカは目算でそう判ずるが、別にそれで構わない。
彼女のペースで進んでほしいとは、アカの願うところ。
ゆったり、穏やかに、ふたりは道を行く。
◇
しばらくすると、クロの息が乱れ始める。
目に見えて疲労が濃くなっており、立っているのさえ辛そう。
なのに、クロはなにも言わない。
疲れに重くなった足を引きずるように前へ。それすら叶わなくなって足を止めたとしても無言。静かに息を整えようと立ち尽くして膝は折らない。そして亀の歩みを再開する。
果たして幾度の停止と再起動を繰り返しただろうか。
流石に限界と見て、立ち止まったタイミングでアカのほうから。
「疲れましたね、すこし休みましょうか」
「だい……だいじょっ、ぶよ」
「いえ、休みましょう。そう意地を張らなくても、はじめから休憩を挟んで進もうとは思っていましたから」
ただその休憩は、クロのほうから言い出すであろうと思っていた。
彼女のひ弱さは瞭然だ。
寝込み続けていたせいだろう、手足は細く、筋肉などあろうはずもない。
その肉体は直截に言って病人のそれ。
ただ歩くだけで重労働、浴びる日光にさえ眩みそう。
だからこそ弱音ではなく、単に事実としてもう歩けないという一言があると、そう踏んでいた。
彼女の強がりを考慮にいれて、だいぶぎりぎりになるとも思っていたが、思った以上に意地を張る。
だがそれは彼女の強さでもある。
呪いに身をやつしても、その心根の強さが己の惰弱を許さない。
想定よりもずっと、クロは弱くなどなかった。
「こちらへ」
アカは思うところがありながらも、とりあえずは付近の木へと寄り、その木陰にクロを寝かせる。
特に魔術は使わない。
当たり前に時間の経過を待って、クロの体力が回復するのを待つ。
……そろそろ落ち着いた頃合いを見て、アカは上から覗き込むようにして言うべきことを訴える。
「助けを求めることは、恥ずかしいことではありませんよ」
「でも、迷惑をかけるわ」
自分の弱さが許せない。
他人に迷惑を掛けるのが心苦しい。
ひとより不幸な生い立ちで、そうした感情を自然と抱けるのは敬意に値することだと思う。
だから、アカはどうにか彼女の矜持や優しさを否定せずに、けれどこちらの言も認めてほしいと言い募る。
「構いません。
私は、そんな気遣いをしたまま倒れるあなたを見たいとは思いません。もちろん、気遣いはありがたいことです。ですが、それは過ぎれば単なる意固地です。意地を体調より優先するような子を、賢いとは思いません。そして、我が弟子の失態を指摘し反省を促すのは師の務めです」
「ああ、いえ、そうね。わたしが倒れると、そのほうが迷惑ね。ごめんなさい」
「……いえ」
確かに意地を張ってしまったのはクロの失態であろう。
あのままではすぐに倒れてしまって、余計にアカに迷惑をかけると、すこし考えればわかることだろうに。
迷惑をかけまいとして余計に負担を増やしていては本末転倒。
そういう結論に至った少女であるが、アカとしてはちょっと違うと言いたかった。飲み込んだ。
あまり性急に考え方を変えろというは傲慢で、上から押し付けるのは理不尽だ。
そういう師にはなりたくない。
自分を戒めるよう、アカは言う。
「焦らず、ゆっくりと行きましょう」
「うん、先生」
◇
フェント村はのどかさだけが取り柄のような小さな農村だ。
王都から遠く、主要街道から遠く、海にほど近い。
そんな辺境地であって人口は少なく二百人ほど。
つつましく畑を耕し、牧畜を飼育し、海へ漁に赴くこともある。
辺境には珍しいことに、村には大きな屋敷がふたつあった。
唯一舟を保有する村長宅は村一番の大きさの屋敷で。
そして、その次に大きな建物は、意外なことに駐屯基地である。
この辺鄙な村には何故か軍の駐屯地があった。
村は平和そのもので、他国と隣するということもない。
恐ろしい魔獣の住処があるわけでもないし、なんなら軍本部側からはこんなところに基地があるということさえ知られていない。
なのに数年前、突如として建てられた真新しい基地。
似つかわしくない風情で、かつ兵を置く理由が不明瞭。
その内実はたったひとりの男が毎日昼寝をしているだけのハリボテである。
「ハズヴェント、ハズヴェント! いますか? また寝ているのですか? 寝ていますね、このイビキは!」
村の雰囲気とはかけ離れて厳ついその施設は、しかしあまりに無防備に思えた。
当たり前のようにドアが開け放たれており、中からは大きなイビキが外まで届く。
触れた形跡のない真新しい「外出」のプレートが空々しい。
軍基地である。
そのはずである。
外装はその通りであるし、そのような看板も発見できる。
だがどうにも緊張感の足りない空気はいかがなものか。
なによりも堂々と響き渡るイビキ声がもうなにもかも台無しにして憚らない。
「はぁ……」
待てど暮らせどイビキ以外に反応がないことを確認し、アカはため息をひとつ。
それからすぐに呼びかけを諦めて基地へと足を踏み入れる。
「行きましょう、クロ」
「えっ、いいの? その、勝手に入って」
「はい。どうせここには居眠りがひとりいるだけです」
「ひとり? この大きな建物に?」
「建物は立派ですが、主は酷く怠惰な男です」
思った以上に辛辣な言葉に、クロは疑問を膨らませる。
そもそもどうしてこんなところに基地があり、そしてアカが赴くのか。
質問は、せずとも解答を送られる。
「私があの屋敷に住まうようになって七年ほど経ちますが、それはこの国も知っていることでして」
「はあ。それがなにか問題なの?」
「お国にとっては、問題なのでしょう。私のような強い力を持った存在を野放しにしておくのはあまりに危険です」
「……先生が、危険?」
よくわからないという風情である。
昨日知り合ったばかりのクロでさえ、その言葉とこの御仁が結びつかない。
だがそれは知り合ったからこそで。
「私、というよりも私の持つ力がです。私のパーソナリティを削いでその力だけを見た時に、危険性を感じないのは少々楽観的に過ぎるでしょう」
「ん。先生がいい人だって、知らないってことね」
いい人というのも、ちょっと肯定しづらいが、否定しても話がややこしくなるだけ。
歩きながら続けて。
「とはいえ無碍にして私の機嫌を損ねるのもまた問題でしょう。結果、ここに基地を立てて監視を置くことで決着はつきました」
「じゃあ、ここは」
「はい。私の監視のひとがいるだけで、基地というには人員も設備も整っていません。高級な物見やぐらと、彼は喩えていましたか」
静かな廊下をふたりは行く。
足音とふたりの話し声だけが響く。
監視という単語に、クロはすこしだけ不安そうになる。
「彼っていうのは」
「ハズヴェント。私の監視をしている軍人さんですよ」
「……こわいひと?」
「まさか。よいお人です。ただまあ、少々自堕落なのは矯正してほしいものですが」
彼のあまりな怠惰な生活に、村の者たちから当初あった疑念や不安を放り捨てて世話を焼くほどだ。
時折現れる害獣や魔獣の類を斬り払ったり、見回りと称して散歩している時に村人の手伝いをしたり、世話を焼かれる程度の仕事はしているのだから逆にタチが悪い気もする。
迷いなく突き進んでいたアカは、ふと止まる。
そのドアのプレートには仮眠室とある。
やはり遠慮なくノブを握り、部屋へと入る。
そこには簡素なベッドで横になる青年がひとり。
黒髪はぼさぼさ、だらしなく大口を開け、緩み切った顔つきはまるで子供のよう。
かろうじてズボンは履いているが、上はシャツ一枚で腹をだしている始末。
部屋の隅に剣が傾いて放置されているのが、なんとも物悲しい。
やたら雄々しい腹筋に、クロはほんのりと気恥ずかしくて目線を逸らす。
アカは逆に冷めた目つきで近寄り、そして頭をすっ叩く。
冷酷に告げる。
「起きなさい」
「んあ……?」
叩かれてようやく、男は気だるげに目を開く。
未だ寝ぼけた顔つきで、アカの姿を見つめる。
よくわかっていないようで、目を凝らしてそのままアカの顔を見つめ――
「……おお。旦那!」
不意に全てを悟ったのか見開いて、バネのごとく身を跳ね上げ立ち上がる。
寝起きとは思えないほど軽やかな動き。身のこなしからして只ならないものが垣間見える。
だが表情は締まりなく緩んでいて、どうにも凄味は感じられない。
不思議な青年だと、クロは思った。
彼――ハズヴェントは破顔して。
「どうしたよ旦那、こっちに来るなんて珍しいじゃないの」
「それよりもハズヴェント、あなたこんな時間まで寝こけているのはいかにも怠惰でしょうが」
「それは違うぞ旦那。こんな時間までじゃなくて、こんな時間からお昼寝してたんだ」
朝に一度は目覚めて、日課をこなして朝食を済ませて、そしてまた眠ったのだ。
決して朝からずっと寝ていたわけではない。
胸を張るハズヴェントに、アカは頭を抱えたくなる。
「なにを自慢げに。そちらのほうがよほどよくない……まったく、うちのシロといいあなたといい、どうしてこうも居眠りばかりなのでしょうか」
「居眠りの心地よさを知らないなんて人生損してるぞ、旦那」
悪びれもしない。
なんて男だ。果てしなく教育に悪い。
とはいえ、アカも小言を言いに来たわけではない。
こみ上げる感情を押し殺して、改めて冷静に。
「報告があります」
「報告ぅ? なんだよ、もう一眠りしたいから手短にな」
「新しく弟子をとりました」
「眠気が吹き飛んだ!」
ようやく、ハズヴェントはクロの存在に気付いた。同時にたまげてもいた。
「……そっちの子か?」
「はい。クロと名付けました」
言われて、クロは一歩前へ。
相手が大人の男性であるほうが、家柄むしろ挨拶には慣れている。
屋敷の時とは違い落ち着いた態度でスカートを摘まんで
「クロと言います」
「……」
見るからに楚々とした態度。
隅々まで躾けられた仕草。
幼くも凛とした風情。
ハズヴェントは震え愕然とする。
これはもしや。
「おい、旦那……この子、貴族だろ……」
「よくわかりましたね、その通りですよ」
「問題に問題を上乗せすんなー!」
ただでさえ三天導師の弟子というセンセーショナルな存在が、その上で貴族という面倒極まる地位であると。
そういう厄介ごとを持ち込んだくせに平然と、アカは笑う。
「そこは問題ありません。彼女は離れた国の貴族ですから、こちらにはなんら影響ありませんよ」
「他国の貴族を拉致って来たって?」
「言い方が最悪でしょう」
「そういう捉え方もできるってこと!」
どうしてこうおっとりとした態度なのか。
事のマズさに切迫しているのは自分だけなのか。
ハズヴェントはちょっと泣きたくなる。
マイペースというか浮世離れというか。これだからアカという人物は目が離せないのだと、監視役としての自身の必要性を再認識する。
「はぁ。まあ流石に? ご両親には話通してあるんだよな?」
「……」
「……」
「あれ? なに? マズった?」
沈黙の質感からなにやら失敗を感じ取る。
一言、アカは告げる。
「デリカシー」
「あっ、そういう感じ? ごめん!」
それだけで察し、ハズヴェントはそちらへの言及を早急に取りやめる。
すぐに話を切り替えて。
「というか、どうしてまた弟子にしたんだよ。呪いか?」
「はい。それも、未だに彼女の呪いは解けていません。私が傍にいて抑えているだけです」
「……は? 旦那が解呪できない? マジで?」
「ええ、力不足で申し訳ないのですが……」
力不足。
三天導師が?
笑い話にもならない。
ともあれアカが解呪できない呪いとなると、それだけで事情は察せられる。
ハズヴェントは非常に沈痛な面立ちで名を絞り出す。
「もしかして……翠色の方の呪いで?」
「はい」
「あー、それなら、弟子入りもやむかたないのかー」
同時にハズヴェントは戦慄とともに哀れみに苛まされる。
こんなにも幼い少女がありえざるほどの恐ろしい呪いを受け、一体どれほどの不幸を味わったというのか。
少女への同情心が沸き上がり、それ以上の文句は口からでそうもない。
ハズヴェントは諦めたようにひとつため息を。
「なんていうか、まあ、もう弟子入りが済んでるんなら文句言っても仕方ねーけど、旦那、ほんとこれ以上はやめてくれな」
「考えておきましょう」
「おれが怒られるんだからな!」
赫天のアーヴァンウィンクルという魔法使いの監視役とは、つまり彼の突飛な行動を上司に報告して怒られる理不尽な役回りである。
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