4 まずは朝食を
三天導師という存在がいる。
世間知らずのクロでさえ知っている世界で最も優れた三人の魔術師のことだ。
魔術師の優劣を定めた七つの位階の最上位。
未だかつて史上その三人しか至っていない魔術師の頂点たる者である。
ただその名は有名に過ぎ、かつ遠き過去より語り継がれてきた――もはや御伽話のようなもの。
なにせ云百年以上は前からその名は広まっている。
彼らの物語は有名な書物として出版され世界中で読み継がれているし、それでなくても各地にその足跡が残っている。
知らない者などいないほどの――文字通りの伝説だ。
だからこそ現代に生きる魔術師たちにとって、三天導師というのはただの御伽話という扱いがほとんど。
現存するはずがない不在の位階でしかない。
ゆえにこそ魔術師の七位階――『天上七位階』は現在、六位階目を最高とされてさえいる。
当然だ、その位階制度ができてからたった三人しか到達できていない場所など、廃止されていないほうがおかしいだろう。
そう、奇妙な話だ。
廃止されていないのは、だからその存在が未だに生きているからではないかという話もある。
三天導師という逸脱した魔術の天は、それその通りに人の寿命などあっさり克服しているのではないかと。
そんな馬鹿げた噂話。
◇
「……」
そんな馬鹿げた噂話の三天導師が末席――赫天のアーヴァンウィンクルという青年は今。
「おや、おはようございます、クロ」
キッチンで紅茶を淹れていた。
いつもの白いローブを纏い、微笑みかけてくれる魔術師の手元にはティーポットが握られている。
カップに向けて傾けて、ゆっくりと暖かな液体が注がれていく。
クロの目線に気が付いたのか、アカはああと得心する。
「クロも紅茶を飲みますか? ミルクも用意してありますので、ミルクティーなんてものもできますが……」
「……紅茶をもらうわ」
朝。
クロは目覚めてまず身体の調子の良さに困惑して、次いでいつものベッドでないことに戸惑い、そのあと弟子入りしたことを思い出す。
――御伽話の魔法使いに弟子入り。
夢から醒めたはずなのに、夢見心地の現実だった。
ふわふわとした気分のまま起き上がり、おっかなびっくり階段を降りてリビングへ。
そしてリビングと繋がるダイニングキッチンの方から人の気配を感じて近づけば、アカが朝食の準備をしていたのだった。
「どうぞ」
「ありがと」
食卓に座していると、アカが笑顔でティーカップを渡してくれる。
受け取って、なんとなくその紅茶を見つめる。
美しい琥珀色の液体がカップの中で波紋を広げ、わずかにクロの姿を映している。
両の手にはカップから暖かさを感じ、それがなんだか身体まで温めてくれる気がした。
「朝食は、うちでは基本的にパンですので、そちらをどうぞ」
手で指されたテーブル中央にはバスケットが置かれ、そこにはいくつものパンが入っている。
カップをテーブルに置き、てきとうにひとつとってみる。
ロールパン。すこしだけぼうっと眺めてから齧る。
「ん、おいしい……」
「それはよかった。王都でも有名なパン屋のものらしいですよ?」
「え、王都? そんな遠い場所のものをどうやって……」
ここは辺境のはずで――いや、あれか。
昨日も体験した空間を超越した移動魔術。あれがあれば、どこへなりとも瞬く間に跳べる。
しかしわざわざパンを購入するためだけに王都へ赴いたのだろうか。
パンをもう一口食べながら、心の中で首を傾げていると――ドアの開く音。
「おはよー!」
「おや、キィ、おはようございます」
「あー、クロも起きてたんだ! おはよ!」
「おはよう」
朝から元気を振りまくのはキィだ。
昨日となにも変わらぬ愛らしさと明るさで――昨日とは違う服装だった。
「あ、それって」
「うん、学服ー」
ブレザータイプの学生服だった。
ひらりくるりと一回転、キィは華やかに笑う。
「似合う?」
「うっ、うん似合ってる」
「ありがとー」
言いながらキィはクロの向かいの席に座り、ひょいとパンをとる。
すぐにアカがカップを傍に置いてやる。ミルクだった。
「あ、センセありがと」
「はい。それで、アオは見ましたか? そろそろ起きていないと学園に間に合いませんが」
「洗面所にいたよー。髪の毛まだいじってた」
「そうでしたか、すこし急かして来ましょうかね」
「いってらっしゃーい」
ひらひらと手を振り見送ると、キィはカップに口をつける。
思いのほか、上品な飲み方だと思った。アカの教育だろうか。
見ていると、気づいたのかキィの片目がこちらを向く。
「どうかした、クロ」
「あ、いや、えっと……」
まだ不慣れながら、水を向けてもらった以上はなにか話さねばと思う。
気になっていたことはあるし。
「その、キィ……さん?」
「キィでいいよー」
「あ、うん。キィは、学園に通ってるの?」
「そー。王都のね、ローベル魔術学園ってところ。アオもね」
「……」
学園、と口内でつぶやいている間にもキィは話を進行している。
「どうやってこの辺境から王都まで通ってるかわかる? センセの魔術でね、うちの玄関いろんなところに繋がってるんだよ。クロも一回通ったでしょ?」
「うん、うちからドア一枚でここまで。海を越えてるなんて、びっくりしたわ」
「センセはすごいよねー。
でも一応、ドアから繋がる先は固定してあってセンセが自分で術式を設置しないといけないから、行ったことある場所だけなんだってー」
「行ったことのある場所だけ……?」
「うん、だから王都にある学園近くのアパートを借りてるの。そこに術式を刻んであるから通学に支障ないんだー」
キィはアカのことを嬉しそうに語っては止めどない。
気になるワードも、その多弁に押し流されそうになる。
なんとか口を挟む。会話が得意な相手に話題を戻すという作業は、クロには大分気力を要する。
「あ、いえ、そっちじゃなくて……じゃあ先生は、わたしの故郷近くに来たことがあったのかしら」
「んん、どうかな。センセは世界中旅したって言ってたけど、クロの家に行くのには数日かけてたから行ったことのない地域だったんじゃないかな」
「そう……」
ではクロを探し出すのに苦労したのだろうか。
噂話だけを頼りに行ったことのない場所からひとりの少女を見つけ出すというのはよほどに大儀な話ではないか。
もうすこし見つけてくれるのに手間取っていたら、いや、そもそも探そうとしてくれていなければ、クロは……
「センセが見つけてくれてよかったよね」
心を見透かされたような一言にぎょっとする。
キィはその反応に唐突すぎたかとバツが悪そうな顔になる。
「あっと、ごめん。わたしも似たようなこと考えたことあるから、つい」
「……やっぱり、キィも先生に恩があるのね」
「そりゃあね、たっくさんあるよ。呪いで死に掛けてたわたしを見つけ出して、救ってくれた。弟子にしてくれて、一緒にいてくれる。もう毎日、返せないくらい恩をもらってるよー」
屈託なく笑う。
傍で見ているクロが羨ましく思うほどに、ただ幸せそうな笑顔だった。
だがそこで何故だかキィは眉尻を落とす。困った顔をする。
「でも、だからどうやって恩返しすればいいのかわかんないんだよね」
「あぁ、うん、それはわかるわね……」
弟子入りする際には言いくるめられたが、けれど本当にクロはすごい魔術師とやらになれるのだろうか。
なったとして、それ以上にすごいであろう師になんらかの恩返しを実行できるのだろうか。
妙なところで姉弟子と悩みを共有することになるのだった。
「うー……おはよー」
していると、なんとも眠そうな声がやって来る。
歩きながらも船を漕いでいる、アオだ。
彼女もまたキィと同じ制服を纏っている。
「こら、しゃきっとしなさい」
後ろにはアカが控え、アオが倒れないようにと支えている。
そのままなんとか席に着かせると、アカはまたティーポッドへと向かう。
くすくすと、キィは笑った。
「また鏡の前で寝ぼけてたの、アオ」
「んん。髪を梳いてると、なんか眠くなるんだよなぁ」
「長いもんねー。でも綺麗!」
「ん、ありがとぉ」
欠伸まじりで言いながら、テーブルに顔を突っ伏す。
ため息は横合いから。
「だから、しゃきっとなさいアオ。そろそろ出ないと遅れてしまいますよ?」
言いながら、アオにもカップを差し出す。コーヒーだった。
「もうちょっとだいじょぶだって。って、コーヒーか……」
「目覚ましには丁度いいでしょう」
「でも苦くて苦手だよ」
「ミルクと砂糖をいれなさい」
「ちぇ、横暴だ」
口では文句を言いつつも、アオは言われた通りにミルクと砂糖を多量に突っ込むことでなんとかコーヒーを飲み始める。
それでも苦そうに端正な顔つきを顰めてはいるが。
そうして、ようやくアカもまた食卓につく。
その手にはミルクティのカップがあった。
四人が座して、最初に口を開くのは、やはりというかキィだった。
「センセ、ほんとにミルクティ好きだよねー」
「ええ、これ以上に美味な飲み物を私は知りません」
これのために王都へ通うアオとキィには定期的に茶葉と牛乳の購入を頼むほどである。
紅茶を飲んでいるクロからしても、その茶のおいしさは頷けるものではある。
お金の使いどころは人それぞれだろうけど、だいぶ高価な茶葉だろうなと思う。
一口、紅茶を啜ってからアカが口を開く。
「さて、今日の予定を確認しておきましょうか。アオとキィはいつも通り学園ですね? そのあとはなにかありましたか?」
「特にはないよ」
「あ、わたしは友達と遊んで帰るかも。夕ご飯には戻るから」
「わかりました。私はクロを連れてフェント村に顔を出してきます」
それぞれの予定を朝の内に確認しておくのは習慣だ。
師匠というかここら辺は保護者としての領分であろう。心配性なのだ。
鬱陶しがられるかもしれないと考えていたアカにとって、思ったよりも弟子たちが素直で助かっている。
「クロも、それでいいですか?」
「うっ、うん」
話を振られても頷くしかない。
彼女はまだこの屋敷において右も左もわからない新参者だ。
そして。
「ではその後、帰り次第、魔術の勉強をします。これも、いいですか?」
「うん……!」
魔術師としても無知な初心者。
これから新たにはじまる魔術師の弟子という人生、すこし不安もあったが、それ以上に楽しみにしている自分がいる。
目の前の姉弟子たちは自信に満ちて楽しそう、なによりも幸せそうだ。
自分もそのようになれるだろうか、なれたらいいな。
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