第12話 事務所に刑事

 私は事務所に戻ってくると、サイフォンでコーヒーを沸かした。私はつねにコーヒーかタバコか酒をやっていなければ落ち着かなかった。ダメ人間だと言われれば、否定する気はなかった。


 デスクに座ると、足を組み夕刊を開いた。相変わらず、殺人事件や強盗の記事がびっしりと載っていた。休むことを知らないらしい。記事が一つも載っていない新聞を見てみたいものだが、それはニキビ面の男にニキビがなくなった姿を想像するのと同じくらい難しいことだろう。つまりは有り得ないのだ。


 扉がノックされた。部屋中に鳴り響く強いノックだった。金はあるが女に逃げられてばかりの男や、麻薬とセックスに溺れわけも分からず事務所にやってきた十五の少女よりも、強いノックだった。

 扉の先に誰がいるのかは分からないが、あまりお通ししたくはなかった。


 もう一度ノックされた。先刻よりも強かった。

 私は立ち上がると、扉に近づき開けた。そこにいたのは、バーにやってきたあの刑事だった。


「よお」と刑事は言った。

 左手はポケットに突っ込み、右手には砂糖と油でゴテゴテになった、色の悪い食いかけのドーナツを持っていた。

 これを作ったのが細君ならば、夫に早く死んでもらいたいのかも知れない。


 私は入ってくれと言った。刑事は邪魔するぜと言い事務所に足を踏み入れた。

 刑事は、私が言う前に依頼人用の椅子に座った。背もたれに体重を預け深く座り、椅子を右斜めに向けると、左手を肘掛に乗せ顎に手をやった。もちろん、右手にはドーナッツだ。子供なら可愛らしいと思えるが、この刑事ならもちろん話は別だ。


 刑事の視線の先にはコーヒーサイフォンがあった。

「ほう、気が利くな。俺のためにわざわざ沸かしておいてくれたのか」と刑事は言った。

 私は自分の椅子に肘を乗せると、

「ああ、あんたのために沸かしておいたんだ。砂糖はいらないだろ? 手に持ってるやつで充分足りるはずだ」

 初めは意味が解らず刑事は眉を寄せていたが、次の瞬間には気がついたらしく、頬を緩めた。酔っ払いのような屈託ない笑顔だった。私も一応、笑っておいた。


「これは妻が作ってくれたんだ」と刑事は言った。「あまり茶化さないでくれ」

「奥さんが。いい話じゃないか。思っていた通りだよ」


 刑事はまた笑った。私ももう一度笑っておいた。愛想笑いというのはどうしてこんなにも疲れるのだろうと思った。


 私はコーヒーカップを取ってくると、コーヒーを二つ入れた。香ばしいにおいと湯気が立ちのぼった。

 そのあいだに刑事はドーナツを食べ切った。ももに落ちたドーナツのカスを右手で払うと、油で光っている指をズボンに擦り付けた。


「で、刑事さんがこんな平和な事務所に何用で? 不味いコーヒーをわざわざ飲みに来たわけではないだろう」

 私は椅子に座ると言った。刑事はコーヒーカップを掴むと、一口啜り、確かに不味いコーヒーだと言った。

「探偵に礼を言いに来たのだよ」と刑事は言った。その、不味いコーヒーを啜りながら。

「礼?」

「夫人に旦那が殺されたことを教えてくれたんだろ。おかげで遺体の身元が分かった。先に警察に言わなかったのはしゃくにさわるがな。だがまあ、感謝はしておく」

 私が思っているより、この刑事は懐の広い男なのかも知れない。礼を言われるとは思わなかった。


「酒が回っていたからすぐには思い出せなくてね。哀れな夫人に、少しでも早く教えてやりたかったんだ」と私は言った。

「まあ、今更とやかく言っても仕方あるまい」刑事は小さくため息をついた。ふと見せた疲れ切った顔に、公僕の苦労を感じた。


 刑事は音を立てコーヒーを啜ると、

「同僚が言っていた。お前はけっこう頭が切れるらしいな。何人かはお前のことを知っていたよ」

「捜査のプロにそう言ってもらえるなんて光栄だね」

「それは皮肉か? ……まあいい。お前はなにか解ったことがあるか?」

 私は少しのあいだ口を閉じ、考えを言ってしまうか悩んだが、「──いや、なにも」

「そうか」刑事はそう言うと足を組んだ。太い足では綺麗に組めていなかった。

「しかし、どうして私に訊くんだ? 警察は素人の介入を良しとしないはずだ」

「事件が解決するなら構わんさ。利口な探偵(いぬ)になら、意見も聞く」


「警察としてのメンツは」と私は訊いた。

「役に立たんプライドは持たないようにしている」

 私は幾度か頷いた。「なるほど。怖い顔に似合わずいい心構えだな」

「ありがとうよ」と刑事は笑いながら言った。

「警察はなにか掴んでいるのか?」

「いや、決定的なのはまだなにも。あんな短時間な殺人だし、目撃者も少ない。酒癖が悪い小説家先生は嫌われていたらしいが、殺されるほどでもない」


 私はそこで、マフィアに脅されていたことを教えてやった。刑事は興味深そうに頷いていた。


「なるほど。なら俺の考えが当たっているかも知れんな」と刑事は言った。

「考え?」

「ああ、あれは誰かが殺し屋を雇い、殺させたんじゃないかと思ってな。その誰かがマフィアなら、有り得る話だろ?」

「しかし、殺すほどでもないんだ。怨みというまでではない」

「そうか……」


 刑事は腕を組み、顔を上げて天井に向けた。考え事をしているらしく、ブツブツとなにか呟いていた。

 私は飲み忘れていたコーヒーを啜った。既に冷めてしまい、苦味が際立っていた。


 刑事はたっぷり十秒間ブツブツ言ったあと、

「もう一つ、考えがあるんだ」

「考え?」

「ああ、あれは予行演習じゃないかと思ってな。ああやって殺すための練習なんだよ。変装もそのためだ」

「では三発目の銃声が鳴ると?」私はコーヒーカップに口をやりながら言った。

「可能性は否定できんだろ?」

「それもそうだ」私はコーヒーカップを机に置きながら言った。


 しかしながら、その線は薄そうだ。予行演習ならば、ターゲットが別に私でもいいわけだ。だが、明らかあれは小説家先生を狙っていた。それに練習のために人を殺すなんて、普通の神経では考えられないことだろう。刑事が言うように、ないとは言い切れないが。


 そのあと、私たちは事件のことをあれこれと話した。

 刑事は色々な可能性について話した。警察というのは、同時に色んな線から事件を捜査する。どれか一本とはいかない。手繰り寄せた先に魚がいれば良いが、しかし大抵はすかである。


 刑事が帰ったあと、私は彼に出したコーヒーカップを覗いてみた。不味いと言ったわりには全て飲み干していた。あんな砂糖にまみれたドーナッツを食べたあとでは、苦いものが恋しくなるのだろう。

 私は、床に落ちているドーナッツのカスに目を向けた。カスになってもゴテゴテしているのが解った。

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