第8話 夫人の話
「主人とは、若い頃からの付き合いで、小説家になる前からの始まりでした。その時はまだ、結婚はしていませんでした。
彼は絵に書いたような好青年で、とても熱意のある人でした。とても、とても。私も、彼のために一生懸命に尽くしていました。なかなか芽が出ず、苦しんでいる時は支え、二人三脚で進んで行きましたわ。
彼も私のために色々と工夫して、楽しませてくれました。お金がないからなにも上げることはできないけどと言って、私を主人公にした小説を書いてくれました。彼は、とても恥ずかしそうに笑っていましたが、私は嬉しくて、涙を流しそうになりました。読んでみますと、それはもう赤面してしまうような内容でしたけど、彼からの愛がたくさん詰まっていました。ああ、こんなにも私を愛してくれているんだなと。それが、嬉しかったんです。その時にもらった小説は、今でも保管してあります。
贅沢はできなかったけど、あの時は街を歩いているだけで楽しかった。家に帰ると、彼の夢の話を聞きながら、レモンを搾ったライウイスキーを二人で飲みました。その酒は、ことある事に二人で飲んでいました。主人も私も大好きで、夜中のロウソクの灯りしかない部屋で、酒を飲みながら夢と私への愛を熱く語ってくれるのです。それが一番楽しい時間でした。
あの頃は、お互い無我夢中でした。私もパン屋で働きながら、料理の勉強に勤しんでいました。あの人に美味しいものを食べてもらい、元気になってもらいたかったから。彼が料理を食べて、なんだかいいものが書けそうだよなんて言ってくれると、私は無垢な少女のように喜びました。実際、あの頃は若かった……。
ある日、私がキッチンで料理をしていると、彼が大はしゃぎしながらやって来ました。腕をぶんぶんと振り、やった! やった! と私に言ってきます。どうしたのと訊くと、彼は、とある出版社に送った小説が気に入られ、掲載されると言いました。
私も思わずびっくりしてしまい、包丁を足元に落としてしまいました。彼が抱きついてくると、私も彼を抱きしめてあげました。私と彼の夢が一つ、叶ったのです。私は涙を流しました。泣いている私を見て、あの人は笑っていました。それくらい嬉しかったんです。
その日、私たちはレモンを搾ったライウイスキーを飲みました。やはり、夜中のロウソクの灯りしかない部屋で、これからの夢を語りながら。
それから、私たちは結婚しました。もともと、小説家になれたら結婚しようと言われておりました。まだまだ収入はなかったけど、若さもあって二人とも怖いものはありませんでした。結婚指輪は、身の丈にあっていないダイヤの指輪を送ってくれました。とても高価なものですが、これが僕の本当の気持ちだからと、彼は言いました。こんな指輪くらい、いくらでもプレゼントできるようになってみせると。
主人はそれからも必死になって物語を書いていきました。自分が面白いと思う作品を、どんどん出していきました。ですが、なかなか収入は増えていきません。つまり、あまり売れなかったのです。主人は段々と怒りっぽくなり、酒もそれまで以上に飲むようになりました。けど、私はそんなこともあるよねと理解していました。辛い思いをしているのを、知っているからです。
そして、若向けに書いた恋愛小説がたいへん売れました。五年前に出したあの本です。主人はその作品で、いちやく有名になりました。お金も、かなりの額が入りましたわ。
でもその代わりに、主人の自信はなくなってしまいました。その小説は書きたくて書いたわけじゃなく、編集者に言われて仕方なく書いた産物でした。本人は、クソみたいな小説だと評していました。ですが、それが世に受けたんです。編集者からは、その手の小説書いてくれと言われ、自分が書きたいものを書かせてもらえなくなりました。
それを切っ掛けに、主人は変わってしまった。小説を書くこともなくなり、酒ばかりの日々になってしまいました。
主人は病んでしまったんです。生きがいであった小説が書けなくなったという理由もあるでしょう。本人も気分を変えようと思い、こんな豪華な家に住み、使用人も雇ってみましたが、駄目でした。主人はますます酒に溺れ、他の女性にも手を出すようになりました。酒場では粗暴な振る舞いをして、友達もいなくなりました。私にも暴力を振るうように。ライウイスキーも、もう一緒に飲まなくなりました。
主人はいつか、自殺してしまうんじゃないかと思いました。夜中、一人で声を押し殺し泣いていることもありました。私に弱いとこを見せまいとしているんです。そんな主人を見ていると、暴力なんてほんの些細なことだと思えました。妻として、主人を支えようと。
ですが主人は、数日前に殺されました。悲しいけど、もしかしたらこれで、主人は救われたのかも知れません。全てから解き放たれたのです」
夫人は話し終えると、また空虚を見つめた。全てに疲れ果てた様子だった。
私はひと通り話を聞くと、鹿爪らしい顔をして頷いてみせた。
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