第7話 夫人

 夫人はお辞儀をすると、ソファに座った。メイドもお辞儀をすると、テーブルにコーヒーを置いていった。夫人のぶんはなかった。コーヒーカップからは、天井に向かってゆらゆらと湯気が揺れていた。

 夫人は空虚を見つめ、遊び疲れて静かになった子供のような表情をしていた。


 こちらに顔を向けると、

「昨日はどうもありがとうございました。おかげさまで主人と会うことができました」

 私は首を左右に振った。「礼には及びません。警察はなにかを掴んだようでしたか?」

「いえ、これといったものは、まだらしいです」

「そうですか」

 私はそう言うと、コーヒーを手に取り口にふくんでいった。できるだけ音を立てずに、二度飲んだ。どうやら、砂糖は一つだけでも入れるべきだった。


 コーヒーを置くと、足を組んだ。すると夫人は目を見ながら言った。

「それで今日はどうなさいました……?」

「個人的に、この事件を調べたいと思いましてね。警察はいい顔をしないだろうが。ご迷惑ですかね?」

「いえ、そんなことは。ですが、よろしいのですか?」

 私は膝の上に、両手を置いた。「構いません。もちろん、報酬なんて要求しませんのでご安心ください」


 夫人は少し笑った。私も笑ってみせた。


「それで、お訊ねしたいことがあるんですがね──」私はそこまで言うと、ポケットからシガーレットケースを取り出した。蓋にはお洒落な字体で、『LongGoodbye』と書かれていた。

「すいません、タバコは遠慮していだだけませんか」と夫人は言った。「私も主人もタバコが嫌いで、この家は禁煙にしているんです。申し訳ありません」

「それは失敬。失礼しました」確かに小説家先生の持ち物を探ったとき、煙の類はなかった。

「すいません」と夫人は言った。

「謝られることじゃありませんよ」


 私は開けかけた蓋を閉めた。蓋には、これみよがしに、『LongGoodbye』と刻まれていた。だが、長いお別れではなく、外に出るまでのほんの少しのお別れである。残念なことに禁煙にまでは至らない。


 ポケットにしまい込むと、

「それでお訊ねしたいことというのはですね、旦那さんのことなんです。あなたに暴力を振るい、人の悪口もよく言っていたようですが、昔はそうではなかったんですね?」

「はい、その通りです」と夫人は頷いた。「でも、ここ数年は自堕落な生活を送っていました。苦しみや悲しみを酒で紛らわせようとし、自分に余裕がないから他の人を傷つけていました……。先日言ったように、いつかこんな日がくるんじゃないかと……、昔は優しい人だったのに……」

「しかし変わってしまった。それは遺作となった本を発刊した五年前から?」

「はい、その通りです……。よろしければ、ひと通りお話しますわ」

「お願いします」と私は言った。

 夫人は小さく息つくと、話し出した。

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