第6話 夫人宅へ

 次の日、新聞には遺体の身元が割れたと書かれていた。

 小説家先生の名前も夫人の名前も、あの刑事の名前も掲載されていた。私の名前はどこにもなかった。名前が売れれば食うに困らなくはなるが、忙しいのもごめんだった。だからこれで良かった。


 記事を読み進めていったが、それ以上、事件は進展をみせていなかった。


 私はデスクでタバコをくゆらせながら、殺された先生の小説を読んでいた。『それなり』になった五年前の作品を。遺作となってしまったそれなりの作品を。


 しかしながら、内容は頭に入っていなかった。文字を読んでいてもするすると抜け落ちていった。タバコもくゆらせるだけで、煙を呑むことはなかった。

 私の脳裏には、疲れきった夫人の顔が浮かんでいた。

 そしてあの背中も──


 私は本を閉じ、机に置いた。くわえているタバコを摘み、灰皿に押し付けた。フィルターから灰が溢れ出た。

 引き出しからリボルバーを取り出すと、シリンダーを横に出し弾が入っているか確認した。ちゃんと六発装填されていた。

 シリンダーを戻すと、手に持ったまま寝室に向かった。クローゼットを開けホルスターを取り出すと、ふところにつけた。そこにリボルバーを差し込むと、次に上衣を取り出し羽織った。ふわりと体に馴染むようだった。


 デスクに戻り、帽子たてにあるソフト帽を被ると外に出た。


 私を乗せた辻馬車は、高級住宅街を走っていた。車内はガタガタと揺れ、車輪の音が聞こえる。


 私は窓から外の景色を眺めた。

 どこの家も真新しくて大きく、手入れが行き届いた芝生の前庭を持っていた。家の周りには柵すらもなかった。

 街の中はゴミひとつなく緑に溢れ、とても静かだった。ここだけ緩やかな時間が流れているようだった。

 次に視線を上げ、空を見てみる。水色の中に、渦巻くような雲が浮かんでいた。いつもより、ゆっくりゆっくりと流れていた。

 その空模様は、とてもこの街と合っていた。金持ちが住みたがるわけが解った。


 私が向かっている先は、夫人の家だった。


 それから少しして、老齢の御者が着きましたよと言った。

 扉を開け馬車から降りると、私は御者に金を渡した。金を受け取った御者の手は、皺だらけだった。これまでの苦労を語っているようだった。

 私は自分の手を見てみた。

 まだまだであった。


 御者は縄をしならせ、馬車を走らせた。どこに向かうのかは、解らない。


 私は向けを変え、夫人宅を見た。白の外壁で、屋根はオレンジと焦げ茶のタイルだった。一部の壁にはツタが伝っていた。是非、一度は住んでみたい家だった。我が探偵事務所とは大きな違いである。

 前庭の石畳を歩いていく。隣の家の窓から、子供が覗いていた。目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。


 石の階段を三段上がり、扉をノックした。

 それから七秒後、扉の向こうから足音が聞こえ、扉が開いた。

 若い黒髪の執事が顔を見せた。胸には片眼鏡(モノクル)を下げていた。

 どちら様です? と訊ねられ、職業と名を名乗った。


「ああ、あなたが奥さまがおっしゃっていた……」と執事は言った。

「おそらく私のことだろう。そうそう知り合いに探偵はいまい。約束はしていないが、会えないだろうか?」


 執事は少々お待ちくださいと言うと、頭を下げ扉を閉めた。三十秒ほどして、ふたたび執事は戻ってきた。申し訳なさそうな顔は浮かべていなかった。なので通してくれるのだろう。

 予想は当たり、執事はお入りくださいと言ってくれた。

 私は礼を言い、中に入った。そして執事の全身に目を向けると、私は彼の腕を触った。


 顔色を変えることなく、執事は言った。「どうなさいました」

「──いや、随分と鍛えられていると思ってね」

「それほどではありませんよ」

 執事はそう言うと、こちらですと廊下に手を向けた。

 廊下を歩いていると、洗濯カゴを持ったメイドとすれ違った。メイドは愛らしく少し頭を下げた。私は帽子に手をやり挨拶した。

「こちらでお待ちください」と執事は言い、扉を開けてくれた。


 私は礼を言い、部屋の中に入った。

 部屋の中は家の外壁と同じく白く、床はフローリングだった。

 左手にはカウンターテーブルがあり、真ん中には横長のガラステーブルが置かれ、ソファが並んでいた。正面の壁はガラス戸で、陽の光が差し込んでいた。部屋の隅には、観葉植物やトーテムポールが飾られている。


「コーヒーをお持ちします」と執事は言った。

「ありがとう。砂糖は入れなくていい」

「かしこまりました」


 執事は頭を下げると、扉を閉めた。礼儀もあり人柄の良さもある正しき執事であった。彼みたいな執事を一人、事務所に欲しいところではあったが、そうすると私が食っていけなくなってしまう。


 私はソファに腰掛けると、帽子を脱ぎ膝に置いた。

 私は思った。コーヒーと夫人、さてどちらの方が早くやってくるだろうか。

 答えは、同時にだった。夫人が扉を開け中に入ってくると、その後ろにはコーヒーを持ったメイドがいた。

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