ファティマと普賢菩薩

 初対面の人や酒の席で話題にしてはいけない物に「政治、宗教、野球」がよくあげられる。政治や野球は熱くなりすぎるから後々問題になるかもしれない。宗教は繊細な問題だ。ちょっとのことで人を傷つけることもある。


 これから書くことは誰かの考えを否定したり貶めたりしたいわけじゃない。でも嫌な思いをしたときのために先に謝っておきます。ごめんなさい。


 ファティマの預言をご存じだろうか。私は4,5年前に概要を知って2年くらい前に『オカルト・クロニクル』(松閣オルタ・著)で詳細を読んだ。

 ざっくり言うとファティマという町に住む子供3人の前に聖母マリアが出現し、預言を授けたというのだ。マリアは何度か出現し、話を聞きつけ集まったマスコミもその出現を目撃している。預言は3つ。それは厳重に保管されていてすでに2つまで起こっているという。

 

 さて、この話を知ったとき既視感があった。『オカルト・クロニクル』で詳細を読むにつれ「あれ?これってあれに似てるな・・・・・・」と既視感の正体に気づいた。

 それが小泉八雲の「常識」という作品だ。これはある寺の僧侶のもとに普賢菩薩が毎夜現れるという話だ。その寺の小僧もその普賢菩薩を一緒に拝んでいると言う。それを聞いた猟師がお寺に泊まり僧侶と一緒に普賢菩薩を待つ。確かに普賢菩薩が現れたがそれを猟師が矢で撃つとたちまち消え、後には大きな古狸がいたという。猟師は「徳の高いお坊さんが見えるのは分かるが、小僧や動物を殺して生計を立てている自分が見えるのはおかしい」と思ったらしい。


 ファティマに現れた聖母。それを見に来た人々はのべ7万人にも及ぶそうだ。信心深い者や3人の子供を信頼している者も居れば、半信半疑だったり面白半分の野次馬もいただろう。なぜ全員に見えたのか。これ以上は言うまい。

 

こういう話は聞く手の礼儀として「見たと言ったら見たんだろう」とそれ以上は言及しないものだと心得ている。見たといった人が見たのなら「見てない、見てるはずない、見ることが出来るはずない」なんて言うのはナンセンスだ。だが見たものが見たままの姿のモノかどうかは定かではない。



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