高校受験まで半年を切り、放課後の教室で友達と受験勉強をするようになった。

 勉強と言っても、おしゃべりをしていて、ほとんど進まない。そのうち午後五時になって、施錠のために校内を回っている先生に「暗くなる前に帰れ」と校舎を追い出される。


「じゃあね、杏奈!」

「バイバイー」

「また明日ね」


 正門の前で友達と別れ、オレンジ色の夕陽に照らされた通学路を一人で帰る。

 人も車の通りも多い賑やかな大通りを曲がると、住宅街の道は途端に細くなり、静かになる。どこからか、美味しそうな匂いが漂ってくるその道を、ゆっくり歩いて帰る。


「申し訳ございません。こちらは、タナカ様のお宅でよろしいでしょうか?」


 近くには、わたし以外誰もいないと思っていたけれど、背後から聞き取りづらい、ボソボソとした声が聞こえた。

 振り返ると、黒い着物姿の女性が立っていた。縦長の、黒い包みを両手で大切そうに持っている。

 ふわり、と線香の匂いが鼻先をかすめた。

 太陽は沈み始めているけれど、まだ十分明るく、逆光にもなっていない。しっかり見えていいはずなのに、その人の顔はよく分からない。ぼんやりとしか見えなかった。

 その姿に、すっかり忘れていた、子供のころの出来事を思い出す。

 痛いくらいに心臓が大きく高鳴った。

 息をすることすら苦しく、全身の毛が逆立ち、背中に冷たいものが流れる。

 迎え女の薄い左肩の後ろには『田中』と書かれた白い表札がある。

 この辺りは、近所と言えるほど近くないし興味もなかったから、わたしは今日初めてこの家が『田中』さんの家だということを知った。

 だから、この家のことは何も知らない。

 下唇を噛みしめて悲鳴をこらえ、わたしはおばあちゃんから言われたとおり、何も言わず、迎え女から逃げるように、足早にその場を離れた。

 怖くてしょうがないはずなのに、数メートル離れてから、つい少しだけ振り返ってしまった。

 あの時とは違い、迎え女はわたしを追うかのように、首だけをこちらに向けていた。



 あのボソボソした声と、線香の匂いが忘れられなくて、その日の夜はよく眠れなかった。

 翌朝、お母さんの怒鳴り声で目が覚めると、いつも家を出る時間の十五分前だった。

 お母さんに文句を言いながら、飲み込むように朝ご飯を食べ、大慌てで準備をして家を出た。

 昨日、迎え女がいた道で足が止まりかけたけど、犬の散歩をしている人がいたから、その人と犬だけを気にするようにして通り抜ける。

 右手でスカートを押さえ、大通りにかかる横断歩道橋の階段を一段ずつ抜かしながら上る。学校と、登校中の生徒の姿が見えたことに安心して走るのを止め、階段を下りようとしたところで、背後から声がした。


「……申し訳ございません。あなたは、ヤマシタアンナ様でよろしいでしょうか?」


 急いでいるのに、と苛立ちながらも振り返ると、黒い着物姿の女性が立っていた。

 両手には黒い包みを持っている。むせかえりそうなほど濃い、線香の匂いがした。


「……な、んで?」


 どうしてここに迎え女がいるのか分からず、わたしは立ち尽くした。

 体中が凍りついたように冷たく感じ、指先は動かすことすらできなかった。

 今日の天気はあまり良くない。それなのに、迎え女の顔がはっきり見えた。

 細い目は白目がほとんど見えないほど真っ黒で、青白い肌とリップグロスを塗りたくったかのような、ツヤツヤした赤黒い唇の対比が不気味だった。


「迎えに参りました」


 はっきりした声で迎え女は言い、唇の両端をきゅっと吊り上げた。

 誰も触れていないのに、黒い包みの結び目が解け、白っぽい板が姿を現した。板の真ん中には、私の名前が書かれている。

 位牌という文字が脳裏に浮かぶ。


〈嘘をついたら、迎え女が迎えにくる〉


 私は嘘をついてない。

 田中さんの家のことだって、迎え女に尋ねられるまで知らなかったのに。

 すっ、と迎え女が一歩踏み出した。


「こ……来ないで!」


 迎え女から逃げようと後ずさり、左足が階段を踏み外す。咄嗟に迎え女に伸ばした右手は何も掴まず、その体を通り抜けた。

 バランスを崩したわたしの体は宙に浮き、迎え女の姿が遠くなっていった。

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迎え女 みこも祭 @utage_2

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