第3話 音楽

「あら、これは珍しい日本人で初のビルボードをおとりになったミュージシャンの奥方ではありませんか」



タチアイ人、日和見タイカ(ひよりみ たいか)がいる雑居ビル2階の部屋に現れたのは、日本人で初のビルボードの賞を総なめにしたミュージシャン、尾藤哲夫(びとう てつお)の妻、尾藤時子(びとう ときこ)だ。


タイカが、ブラウンの小さなテーブルの前にある1脚のパイプ椅子を勧める。


尾藤時子は、年齢50になるころか。日見和タイカは、人とのタチアイ(裁ち会い)にしか興味ない。


タイカの目の前に座った尾藤時子は、ずいぶんやつれ、疲れきって、下を見てうつむいて小さな水色のカバンを、まるで自分の気持ちが落ちていかないように、きつく握りしめている。


「確か、旦那様の尾藤哲夫さんは10年前に病気で亡くなられたのでは?」

タイカは、目の前にある獏をいつものように、白い長い人差し指で撫でる。


「世間には、知られていませんが、7年前に離婚しておりました」

疲れきった表情とは別に、顔を上げた時子の瞳は憎しみと哀しみに満ちていた。


「ほう、何せ私は世間知らずなものなので、失礼」

タイカは、小さな窓の外を一瞥した。


「旦那様にお会いしたいのなら、10万程の報酬と旦那様の記憶を忘れる対価がございますが」

タイカの言葉に尾藤時子は、動じる事はなかった。


「私はあの人に、会いたいんじゃないんです。あの人の記憶を消したいんです」

タイカの仕事のポリシーとして、相手の事情を聴くことはしない。


「あの人の、あの人が死んでも街で流れる歌も音楽も、いまだに追いかけてくるマスコミも、あの人の女達も、全部忘れたいんです」

尾藤時子の「あの人の女達」に気持ちがこもっていた。


表には出なかったが、離婚のきっかけはそこか。タイカは無言で時子から差し出された10万を無言で受け取った。


時子が、少し怯えた顔をした。


「奥方、怖いことは何もありませんよ。再会と言えど、私もいるこの場所に現れるだけですから、何かありましたら、私が奥方をお守り致します。その分込みの報酬です」


尾藤時子は、拍子抜けした顔をした。

「三途の川とか、花畑とかじゃないんですか?」

タイカは、嘲笑した。


「奥方、それは映画や小説でのお話です。死者はそこらじゅうにいるんですよ?私はその人と依頼人を再会させるだけです。時間も奥方が決めればいい、ただし、半日までです。それ以上だと、あなたがあの世に引っ張られてしまうので、この世界に引き戻すには、私でも骨がおれる仕事なのです」

面倒くさそうに、日和見タイカは一気に説明した。



数分で、いいです。

冷たく、尾藤時子は呟いた。


「では、獏、目の前の置物に2回呟いて下さい、私の悪夢を食べて下さい、と」


それだけですか?と言った後に、尾藤時子は呟いた。



動かないはずの手のひらサイズの獏のつぶらな瞳が、時子を見た。


次の瞬間、時子の隣に尾藤哲夫が立っていた。相変わらず目の前には、日和見タイカが座り、雑居ビルの中だ。


ただ、夫が立っていた。

「時子、すまない、売れてから自分を見失って、女も、、、時子が後から大切だと気がついたんだ。死ぬときに、金や名声目当ての女達だった。時子は違うのに、、、」


タイカは、冷たい視線を送る。こうした感情に訴える死者は、たちが悪い。

生きている人間の心を揺らし、あの世に引っ張りこむ。


タイカは、獏を無言で時子の方に向けた。一瞬、尾藤哲夫が怯えた。


「言い訳はいらないわ、貴方の歌でも散々、私への懺悔を街やテレビで聞かされたわ、私は、貴方と出逢えて幸せだったけど、不幸だったわ」

尾藤時子は、それだけ言うと、日和見タイカを見た。


「待ってくれ、俺は本当に、悪かったと、、、時子!」

タイカが、

長い白い指を獏の上で、パチンと鳴らすと、動かないはずの獏の置物の小さな口が、象のように開き、同時に尾藤哲夫は消え、時子は一瞬、うつむいて、目を覚ます。


「あれ、私は?」


きょとんとした時子が、日和見タイカを見た。タイカの手元にはスマホがあり、音楽が流れ出した。


「あら、素敵な音楽。確か、日本人初のビルボードの賞を総なめにした方の歌でしょ?」

時子は、他人事だ。


「私の仕事は、終わりました。新しい人生をお送り下さい。7年間は忘れて」

タイカは、冷ややかに笑いながら言った。


時子は、何の事かも分からず品の良い会釈をして、日和見タイカの元を去った。


「ずいぶん、汚い男をみた。よく食べてくれた、まずい夢だったろ?」

日和見タイカが、また長い白い人差し指で獏の置物を撫でると、動かないはずの獏が小さな食後のあくびをした。


それを知るのは、日和見タイカ(ひよりみ たいか)だけだ。


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