第4話 掃除夫の補色

 天鵞絨の布を取り払う。

 見積もる限りキャンバスサイズはF20号。額縁に入れられたそれを見て、しばし誰も言葉を発さなかった。

 まんまるに目を見開いてため息のように呟いたのはアンティシャだ。

「まっしろ」

 フェリオは布をたたんでデスクに置き、その上に鋏を乗せるあいだも無言で絵を睨んでいる。

 キャンバスは白かった。ただし麻の目地も見えない。白の塗料がまだらに塗り重なり、俯瞰した丘陵地帯のような陰影が折り重なって見えている。白いペンキが入ったバケツを何度も投げつけた、喩えではなくそういうものだと捉えたほうが把握に易い。

 しかしながら、白一色というのもまた正しくない。まばらにひょろひょろと紫の花が群れて浮いている。画聖の筆致は細部に宿り「子供が描いたらくがき」でこそないが、さりとて感動する余地は微塵もなかった。紫色は濃淡の意識疑わしくただ薄く、凹凸ばかりの下地で線はいびつにねじれ、そこに技巧の息吹はない。

 アンティシャが気遣わしげに視線を向けるのとほぼ同時、キルティカが膝から崩れ落ちる。その顔をちらと一瞥し、フェリオが喉奥で笑った。

「なるほど人を狂わせる。僕もおかしくなりそうだ、寝ぼけて描いたようなものに大金を支払ったつもりはない。せめて切り裂く前に絵画卿に売りつけてみるしかないな」

「アーク卿っ」

 アンティシャの窘めにフェリオは肩を竦めてみせる。

 魂が抜けたように座り込んでいたキルティカが、膝で這うようにして『絵画』と距離を詰める。腕を伸ばして軟弱な指先で表面に触れるのを止める者はなかった。ただ気遣わしげに眺めていたアンティシャが、フェリオへと顔を向ける。

「オークショニアに差し替えられたのではなくて?」

「本物だよ。現地では中身を見ずにサインだけ確認した、『マリス,ルシュタットヅァット』。絵画卿はいつも【補色】に自分の名と意味のない文字列からなる絵の題名を並べて残す。ついでに手紙の封蝋に捺された印章も微細確かめて本物だった」

「ではアーク卿、【補色】とはいったい何なの? 絵画卿ともなる方が貴族も一般市民も問わずモチーフにして絵を贈り続けるのはなぜ?」

「僕が知りたいな、稀代の芸術家のやることは僕みたいな凡人には分からない。そしてそれよりも申し上げたいのは、公爵令嬢、僕は『卿』なんかじゃない。僕に爵位はない。母は確かに彩爵の爵位を戴く画聖だけど、彩爵は一代限りの爵位だ。母が築いた莫大な財産のひとかけらを元手に、優れた審美眼と優秀なコネクションと最善の七光りを武器に画商なんてやってるだけの商売人だよ。ま、そのうち男爵位でも買おうかと思ってはいるけど――母の存命中はないな」

「なぜ?」

「時々こうしてバカでかい買い物をするからに決まってる」

「それはなぜ?」

 重ねられた問いかけにフェリオは眉間を寄せて笑った。返事はない。

 代わりにキルティカへと視線を投げかけ、

「さあ、そろそろ帰ってもらおうか。僕は眠いし疲れた。それにこの中で一番ショックが大きいと声高に主張できる。関係者各位にはいたわってもらいたい」

「これって」

 何事か言いかけながら振り返ったキルティカの右腕を掴んで絵から引き離し、フェリオは重ねて投げかける。

「絵にべたべた触るもんじゃない、そうだろ? これが絵って言うんならの話だけど」

「キル、これ以上非礼を重ねてはいけないわ。帰りましょう」

「破いちゃだめだ」

 アンティシャに腕を引かれて立ち上がりながら、キルティカは訴える。

「ミスタ、また明日来るから、明日だけでもいいから置いておいてくれないか。もう一度見に来る。もう一度だけ。何時でも構わない」

「明日は無理だな。上弦通りで商談があるんでね」

「じゃあ明後日!」

「僕がそれを確約する必要はどこに?」

「上弦通りのどなたと?」

 アンティシャの割り込みにフェリオが口端を歪める。このどこか敏い公爵令嬢に手を出されることも、沈黙して機嫌を損ねる口実を作ることも、不都合の気配しかしない。

 フェリオはため息をつき、先ほど開いた絵画卿の手紙を封筒ごとキルティカへと差し出した。

「交換条件だ。この『絵画』を贈られた掃除夫とコンタクトを取ってきてくれ。知りたいのは人となり、可能なら犯罪歴。更に可能なら似顔絵。似顔絵を作るために絵筆が必要なら僕が紹介する」

「私が描く」

 と、キルティカはフェリオの手から躊躇なく封筒を抜き取って言った。

「ふうん? 絵筆の子は絵筆か」

「違う、私は絵筆じゃない、絵筆にはなれない。私は私の描きたいものしか描けないから。だけど『誰を描いた絵なのか』が分かる程度の腕ではあると思う」

「知らない掃除夫の顔は描きたいものなの?」

 揶揄に満ちたフェリオの物言いに対し、キルティカはすんなりと頷いた。

「絵画卿から【補色】を贈られた人なんだ。興味が湧かないわけがない」

「どうかな、いつもの気まぐれだと思うけど。まあいいよ。じゃあよろしく」

 フェリオは犬を追い払うような手振りをし、二人を部屋から追い出す。

 そのまま一階へ降り、画廊を通って出入り口をくぐると、目の前でリントン公爵の紋章がついた馬車と御者が我慢強く待っていた。

 キルティカが手を貸し、アンティシャが先に馬車に乗る。最低限の礼儀としてそれをぼんやりと見ていたフェリオは、振り返ったキルティカと目が合った。

「絵画卿はここにはいらっしゃらないんですか?」

「あの人はいつもどこにいるのか分からない。多分この街のどこかにアトリエがあるんだろうけど、陛下すら把握してないに違いないね」

「あなたも?」

「もし分かったらご一報を。絵を配る前に差し押さえて、盛大にダメ出しできる」

「破棄する、とかじゃなくてダメ出しを……?」

「絵描きに絵を描くななんて言って止まってくれた試しはないよ。絵画卿に限らない」

 少し笑うような悩むような複雑な顔で頷いてから、キルティカが頭を下げる。

「おやすみなさい、ミスタ。色々とありがとう」

 フェリオがなにか言う前に二人が馬車に乗り、扉は閉められ、しつけの行き届いた馬が石畳の路地をゆるゆると歩き出したのだった。

 青年画商は画廊の前で夜空を仰ぐ。

 そうなのだ。――絵画卿の筆は決して止まらない。

 己のうちから湧き出るものを絵として映し出す、そうしなければならない。そういう風にできていて、技術、能力、知識、衝動、情熱、すべてが彼女に随順する。たとえ腕や手指を折ったところで足の指があり、足をなくしたところで咥える口があるのなら彼女は止まらない。

 ただ彼女の血肉の中で、彼女に恭順しない無能無益の細胞があり。それを本体から引き剥がすためにフェリオ・アークは産まれ落ちたのかもしれない。

 稀代の情熱と血肉の塊を勤勉に裁断する。

 自分はそういうものだ。いまさら躊躇も感慨もない。

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