第5話 絵ばかの憂鬱

 おまえも十七になったんだ、そろそろ嫁でも貰っておかないと。

 リントン公爵お抱え絵筆である父が笑いながらそう言うと、没落したアトレット子爵家の令嬢だった母は大抵難しい顔でキルティカに人生のなんたるかを説く。

 いわく、キルティカにとって何が幸福であるかとか。年齢相応の振る舞いをしなさいとか。良いご縁はないのだとか。じゃあ用意してあげるわねとか。


 満月通りに面した邸宅の中庭で、白亜のテーブルセットに頬杖をついて公爵令嬢はころころと笑っている。

「それでお見合い相手を朝一でぶん殴って帰ってきたって? あらまぁ」

「お嬢様」

 そばに控えていたメイドにやんわりと指摘され、アンティシャは首を傾げる。

「あら失礼。お殴りあそばして?」

「だって本当にひどかったんだ。私は本当に我慢した。よく頑張った。自分で自分を褒めてやりたい」

「そう。お茶のおかわりは?」

「ください」

 と、キルティカは対面に座るアンティシャではなく側仕えのメイドへとティーカップを差し出す。両手で包んでうやうやしく捧げるように。亜麻色の髪のメイドはワゴンに載せていたポットを持ち上げてそれに応じた。深みのある香気をまとう湯気が立つ。

「どうぞ。お菓子のおかわりは?」

「ください。いただいていいんなら。このお菓子すごく美味しい。お嬢様と一緒に食べてるからに違いない」

「だそうよ」

 メイドは裾を軽く持つお辞儀カーテシーをしてその場から離れる。

「まさか、本気にしてない?」

「いいえ」

 キルティカが怪訝もあらわに問いかけると、アンティシャはすました顔で首を振った。それから挑発するように笑う。

「七年も前からずっと、わたくしなどと好き好んで時間を共有してくれる変わり者はあなたくらいよ。いまだにその気持ちを嘘だと疑っている、そんな心の狭い卑しい女だともし今あなたが思っているのなら、この席で友情について改めて考え直す余地があるかもしれないけれど」

「ない! 私は君が好きだ!」

 ばん、と机を叩いて立ち上がる。アンティシャは優雅に嬉しそうに笑んだ。

「オトコオンナだとか、髪を伸ばせやら服装を見直せやら言わないし」

「服装に関してはどうかしら」

 もっと似合う服装がきっとあるとアンティシャは常々思っている。例えば先日の燕尾服はキルティカのシャープな顔立ちと上から下までスマートな身体つきにとてもしっくり来ていたと。

「それに私は君の眼が好きだ」

「ふふ。ありがとう」

「両目とも。信じてくれないかもしれないけど本当だから、私はいつまでも言うよ」

「うん。いつまでも言ってね」

 アンティシャはじっとキルティカを見つめて言う。

 緑と白の瞳。その奥に見えた感情になだめられたような心地になり、キルティカはひとつ息をついて座り直した。

「貿易商人の子だか知らないけど。顔を合わせるなり腰を抱いてきた」

「あら大胆ね」

「『大丈夫。君のようなのも俺のタイプだ』だって。私には全然タイプじゃないのに。……だいたいなんだよ『君のようなの』って! 今気づいたよ!」

「お菓子が来たわよ」

「ありがとうございます! わあ砂糖入りのワッフル!」

 メイドは微笑ましいものを見るような眼差しで後ろに下がった。

 件の商人令息はバートラムと言った。バートラム・ハウラ=ヴィレ。可能な限り迅速に忘れたいが、苦い思い出と共にしばらく忘れることはできないだろう。年齢は十八だったか十九だったか。金髪にはしばみの眼をした背の高い男。

 キルティカはワッフルを咥え、足元に置いていた肩掛けカバンからスケッチブックを取り出した。目の荒い紙を重ねて木の板で綴じたものだ。所狭しとスケッチで埋め尽くされたページが多い。何枚もめくってかろうじて片隅にスカーフのひだを模写しているだけのページを見つけて開き、鉛筆を走らせていく。アンティシャは頬杖をついてその様子を興味深く眺めていた。

「アンも描く? あるよ、紙」

「わたくしはいいわ」

「そう? 君も描いたらいいのに。絵を描くのは楽しいよ、終わりがないんだ」

「続かないもの」

 令嬢は微笑む。紅茶を傾け、続く言葉は特にないようだった。

 ほどなくして紙面に生まれたのは整った顔立ちの青年だ。やや大きな愛嬌のある目に通った鼻筋、口許はかすかに軽そうだが洒脱な雰囲気もある。覗き込むまでもなく描き手から堂々と見せられたそれに、アンティシャは軽くため息をついた。

「相変わらず本人をこの目で見ているかのような鮮明さね。あなたの腕もそうだけれど、眼はどうなっているのかしら」

「見たものを見たまま覚える、それだけだよ。それよりこんな顔だった。感想は?」

「美男子だわ」

「それ以外は?」

「直に話してみない限りは。滅多なことは言わないようにしているの」

「そうだよね」

 わかりきっていた答えだと言うように、キルティカは息をついて素直にスケッチブックを引っ込めた。悪口を期待したのではない。アンティシャが顔だけで相手の悪口を言うような子ならそもそも訊いてもいなかっただろう。ただ、自分よりは様々な人間を社交界で見てきたはずで、人相占いよろしく似顔絵からなにか感じ取れるものがないだろうかと考えただけなのだ。

「どう見ても遊び人を結婚相手として私に紹介する母さんのことが信用できなくなってきた」

「在庫がなくなってきたんじゃないかしら。だってキル、お見合い何回目?」

「ちょっと数えてない。三年目くらいだと思う」

 アトレット子爵家令嬢として生まれた母は庶民と少し感覚がずれている。

 女の結婚は早ければ早いほど良い、と常から力強く主張している。それが単なる押し付けや思い込みであったならキルティカももう少しやさぐれていたかもしれないが、没落貴族として苦しみ抜き画家と恋愛結婚して幸福を掴んだ上での経験則として語るのだから難しい。

 二番目にお見合いした伯爵家四男とか、五番目にお見合いした子爵家次男とかを今も「惜しかったかな」と思い出す程度で、それ以降は正直なところぐだぐだになっている。故にこそ「早ければ早いほど」という言葉に信憑性を感じてしまわなくもないのだ。とはいえキルティカ側がお断りしたのは半分未満で、あとは先方から先にお断りいただいてしまったのだが。

 そもそも「惜しい」と思う根拠についても自分の中にはない。貴族夫人としてすましている自分の姿を思い描くだけで胃の据わりが悪くなる。

 女として佇む自分に違和感がある。かといって、いつだったか男の装いをしてそう振る舞ってみてもうつろでうすら寒かった。見合い相手達への感情は好感と敬遠の間でグラデーションのように散らばっており、バートラムには不快感があり、アンティシャは可愛い。昨夜会ったフェリオにはまた会って話を聴いてみたいと思う。そのいずれにおいても、恋愛感情かと問われれば大きく首をかしげる。

「だいたい、商人の子がハウラ=ヴィレ? 爵位持ちの貿易商人、ってことはきっと男爵で、男爵は一代限りだから都度爵位を買わなくちゃいけなくて、その上であの年齢で爵位持ちってことはとんだ成金すねかじりじゃないか。あー言ってやればよかった! 成金すねかじり!」

「泥沼だと思うわよ」

「だってアン、――そうだアン、度重なる狼藉に思わず手が出た私がなんて言われたと思う? 『君みたいなのが』『の』『というんだ』『このめ』!」

「あらずいぶんと効率の良い罵倒ね。五秒で禁句を三つだなんて、気が合うのではなくて?」

「気が合うなんておぞましいことを言わないでほしい、今度会ったら鼻を折ってやる!」

 怒りのあまりに頭を掻きむしるキルティカに、アンティシャは紅茶をひとくち飲んでからのんびりと投げかけた。

「ところでおひさまが高いわ、キル。今日のお散歩はよろしいの?」

「はっ」

 キルティカははたと我に返る。令嬢はにこりと微笑んでティーカップを置く。

「少しおくつろぎになっていて。帽子トークを持ってくるわ。靴も履き替えなくちゃ」

 でも、と言い募ろうとしたキルティカの唇に自分の人差し指を押し当て、赤髪の令嬢はうきうきと邸内に入っていった。

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