第3話 突撃アポなしお宅訪問

 ――なあ、フェリオ。

 起きている? そう。いや、残念だな。あんたの寝顔を描いていたのに。起きてしまっちゃあ意味がねえ。

 素晴らしい絵が描けそうだ。あは、いやあ、あんたの寝顔じゃあないよ。それも素晴らしいが、こりゃ箸休め。絵を描く箸休めに別の絵を描く。大事だろそれは。人間息抜きは必要だ。あんたはどうか知らんがね。

 そう、素晴らしい絵が描けそうなんだ。この上なく素晴らしい題材を見つけたからさ。



 おぞましいほどの寒気で目が覚めた。

 うたた寝をしていたらしい。開け放ったままの窓から秋めいた風が奔放に流れ込んできていた。フェリオはデスクからよろめくように立ち上がって雑に窓を閉め、そこでようやく酸素不足に気づいて深呼吸をする。デスクの上に置いたランプの蝋燭を交換し、油を注ぎ足す。灰色の瞳が火の色を赤く映した。

 それから振り返り、自室の片隅に目を向ける。鎖が巻かれた絵画は床の上へ直に立てかけてあるままだった。フェリオはデスクの下に落ちていた封筒を拾い上げ、印章の捺された封蝋を剥がす手間を惜しみペーパーナイフで無造作に口を開き、取り出した便箋を改めて眺める。


 拝啓 Mr.ゼム・ベレン あるいは新月通りの掃除夫ゼム

 これはあなたの【補色】である。

 あなたがあなたの生涯において永遠に手に入らず絶対に手にすることのないものについて、秘匿の深淵に至りて触れ、啓示のままに描いた、私の魂のひとかけらである。

 これをもってあなたは完全な円といえるだろう。

 大切にしていただけると幸甚である。

 彩爵"絵画卿" マリス・アーク=ウェルトリー


「売り払われてるよ、魂のひとかけら。傑作だ」

 フェリオは皮肉げに口角を上げて笑ってから、その痛快さを噛み締め口元を抑えてひとしきり肩を揺らした。数秒してとりやめたのはふと聴覚に触れるものがあったからだ。家政婦の老婆は画廊の正面口も裏口も几帳面に戸締まりしてから出ていってくれるが、二重鍵までは内側からでなければ掛けられない。

 そう治安は悪くないものの表通りからは少し奥まった位置にあり、大きな買い物をした(せざるを得なかった)あとだ。用心するにこしたことはないだろう。フェリオは暗がりの廊下へ出る。その瞬間窓際にいたものと目が合った。この窓もまた開け放したままだった。背の高い木の上にいたそれは月明かりを受ける細い影で、絶叫に似た短く高い悲鳴を上げてフェリオの眼前、板張りの廊下へと飛びうつり、硬直したフェリオの右手首を引っ掴んで凝視する。手紙を開けたきり握ったままのペーパーナイフの刃先に数秒釘付けになっていた。

 すがるような位置関係のもと、ようやく上向けられた侵入者の顔と目が地獄を見たような様相をしている。薄明かりの下なお青白く動かない。

「……ま……」

「……ま……?」

「まじゅつえは……かいがきょうの……、まだ、まだ見せ……私に、……」

 か細く呪詛を帯びて聞こえたその声を断ち切るよう、焦りと強さを含んだ少女の声が窓の下から上がってくる。

「キルー! 降りてらっしゃいはやらないで、さすがに、さすがにそれはわたくしでも!」

 フェリオは止まっていた呼吸を再開した。心臓の鼓動を飼いならしながら、棒立ちのまま侵入者を見下ろす。

 黒髪の少年のように見受ける。服装の質からするとやぶれかぶれになってまで人を襲うような貧困層には見えない。上流階級にも見えなかったが。

 ひそりと息を吸い、ため息を吐き、常通り冷ややかに声を紡ぐ。

「僕には今権利が与えられている。通報の権利と、過剰を含む正当防衛の権利と、慰謝料を請求する権利が」

 『慰謝料』のくだりで我にかえったらしい。至極まっとうな光、つまるところ怯えと後悔のようなものが侵入者の蒼い双眸にさしたのをフェリオはみとめた。

「それとあともうひとつ。どうやら異界の生き物ではなく、常識をわきまえているらしい淑女連れでもある君が、絵画卿の魔術絵に関してどれだけ熱烈な面白い話をしてくれるのかを聞く権利――どれがいい? はじめまして、キル」


 一階に降りて画廊の正面扉を開ける。やってきた淑女の顔にフェリオは見覚えがあった。顔というよりもその右眼にというのが正直なところだが、仮にその深みのある赤毛をひと房見せられても言い当てられただろう。なかなかお目にかかれる色ではない。

「ようこそ、画廊【暁闇オーブ】へ。いらしていただけて光栄ですね、アンティシャ・サリュー=リントン公爵令嬢。それもかようにとびきりの夜分遅くに」

「あらありがとう。とびきり夜分遅くに失礼するわね、ウェルトリー彩爵子息フェリオ・アークさま。わたくしの勇ましい騎士が迷い込んでしまったようで。どうもノックの仕方を忘れてしまったようなの。どちらに?」

「二階で放心してますよ。階段はあちらに」

 フェリオはおざなりに扉を閉めて二重鍵を掛ける。それからアンティシャがステッキをついていることに気付き、手を貸そうと差し伸べた。

「あら、いいわ。別に足が悪いわけじゃないのだもの、ごらんの通りに」

 公爵令嬢は白濁した片目ごと悪戯めかした笑みをフェリオへと振り向ける。

 それから軽やかな足音でずかずかと入り込んで二階へと上がり、

「キール! キルティカ、あらいたわ。驚いたなんて言葉じゃ済まないわ、扉が開かないからって迷わず木に飛びついたあなたを見た時のわたくしの気持ちが分かって? わたくしただの噂だとちゃんと前置きしたわよね? ね、そんなところで座ってないで」

 アンティシャの足元にとりすがり、キルティカなる闖入者は震える手でフェリオの右手をまっすぐ力強く指差した。

「だって魔術絵が! あああ危なかった! 私が数秒遅れていたらかっさばかれてるところだった!」

「まだかっさばく前だよ。さすがに僕だってどんな絵だったかくらいは一応見るさ」

「一応!? いやその前にまだ見てないの!? あれから小一時間は経ってるのに!?」

「ちょっと眠くてね」

 と、軽く目をこすりながらフェリオは言う。

「心の準備とかでもなく!!??」

 フェリオは内心でこの人物に対する印象をこう定めた。すなわち絵画卿に対する熱烈な、限界気味のファン。物理的に距離を置くべく心の内で板床の上に不可視の境界線を引く。

「あら、……あの噂は本当なの。フェリオ・アーク氏は絵画卿の【補色】だけを蒐集していて、手に入れたら一夜も待たず処分してしまうって」

「それはまことに正確だね。どこから回ってきた話なのか大体想像はつくな」

「信じられない」

 と、発作のように口走ったのはキルティカだ。俯き気味の黒い頭とその声が震えていた。かと思うと勢いをつけて立ち上がり、フェリオに詰め寄り食ってかかる。

「信じられない。絵だぞ」

 ぎらぎらとした瞳だった。切れ長の眼に嵌るブルーサファイアは蒼く深く、女のような冷徹さと男のような激情が混ざりあっている。その手は今にもフェリオの胸ぐらを掴もうとしており、すんでのところで堅い拳となって留まっていた。あるいはもしかしたら殴るつもりなのかもしれないが。

「画商なんだろ、それも神筆と誉れ高き彩爵閣下の子息、それがどうして……絵を破棄するだって? 切り裂いて壊して、二目と見られないものにする? 信じられない、絵画卿のものだからってだけの話じゃない!」

「キルティカ、落ち着きなさい」

「止めないでくれアンティシャ、絵には魂が詰まってるんだ、あんたは絵を、すべての画家を侮辱してる!」

 フェリオは薄いため息をついた。

。こと絵画卿の絵に限ってはだ」

 立ち塞がるキルティカの肩を押しやる。予想より薄い肩は多少の抵抗はあったものの難なく道を空けた。敵意と戸惑いとが入り交じった視線を背中に受けながら、フェリオは自室のドアを開く。

「僕は絵は好きだ、そうでなきゃ画商なんかやってない。絵も僕を愛している、そうでなきゃあんなバカみたいな額の落札をする余裕は生まれてない。ただ、

「……どういうことかしら?」

「ご令嬢がた、男の私室に入っても御両親に伏せていただけるなら是非こちらへ。とんでもない価格で競り落としたとある魔術絵をお目にかけよう」

 仰々しく言いながら、フェリオは部屋の片隅に放っていたその絵を持ち上げ、デスクの脇に置いていた空のイーゼルの上へ置いた。

 キルティカとともに部屋に入ってきたアンティシャが、長い睫毛を瞬かせてその絵のものものしい有り様を見つめる。

「どうして絵に鎖なんてしているのかしら」

「陛下は何も仰らなかった?」

「そうね、わたくしは魔術絵についてまではあまり知らないの。陛下とはあまりお話出来る機会もないし――上流階級になればなるほどご禁制については皆さま口がお堅いものだから」

「絵画卿の絵は管理されてるんだ」

 キルティカが言った。視線はひたと、鎖されて黒布をかけられた絵へと据えられている。柔らかさとは縁遠い繊細で危うげな顔貌はある種の熱情に冒されているようですらあった。眉間を顰めるフェリオとは対象的に、アンティシャはそっとキルティカの背へと触れる。

 令嬢のたおやかな手はまばたきをさせて次の言葉を促す程度の効果はあったようだ。一息を置いてキルティカは続けた。

「私からしたら考えられない、そんな無骨なもので縛めるなんて絵が傷ついてしまうのに。だけど【補色】だけが魔術絵とは限らない。絵画卿の描いた絵なら魔術絵じゃない保証はない。そして魔術絵は人を狂わせると言われてる。だから一般の目にはそうそう触れられないようにしてあるんだ」

「そしてオークショニアの方もそれくらいの情報は仕入れて、わきまえて扱ってる。運営側の人間が狂って大事な絵を盗みでもしたら一大事だからね。模範解答だ。そしておまえは狂ってないと言えるのかな、不法侵入者の、何だっけ?」

 フェリオからの揶揄混じりの問いかけを受け、キルティカがぐっと言葉に詰まる。それからしおれた花のように頭を下げてみせた。

「……本当にすみません。キルティカ・オーレルです。ウェルトリー公爵閣下の専属絵筆である、ヨナサン・オーレルの子です」

「ふうん。面白い組み合わせだ」

「そうでしょう」

 公爵令嬢アンティシャはこともなげに、そして自信たっぷりに頷いてみせる。

 フェリオはというとデスクを漁って引き出しから大型の鋏を取り出していた。絵画を戒める鎖の間に差し入れると、ばちんばちんと無造作に切り落とす。

 天鵞絨の布を取り払う。

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