第2話 卵と令嬢

 下階に向かう階段の終端にその人物をとらえ、キルティカは躊躇なく手すりに乗り上がって滑り降りようとした。何者かに首根っこを引っ掴まれて引き戻される。

「おい日雇い! 何をしている、場に戻れ」

「待ってください、五分いや三分! 私はどうしても!」

「お客をお見送りしたらな! ――ああ、失敬。お足元にお気をつけて、お嬢様」

 警備統括者の声がすましたものへと変わる。その声に軽い会釈をして令嬢たるアンティシャが一歩一歩階段を降りていくさなか、仮面の下の左目でキルティカへとウインクしてみせた。

 頼もしいが、頼りにしていいとは思えない。しかしキルティカは居住まいを正して粛々と従うことにした。大丈夫だ。顔も姿かたちも、髪の質感や顎の造形も装飾品も。あとでアンティシャと答え合わせをすればどこの誰かは

「【絵画卿】の魔術絵が見られないのは残念だったな」

「もちろんです」

 キルティカが食い気味に答えると、警備統括者は苦く笑った。オークション運営側は皆一律で顔の上半分を覆う黒い仮面をつけているが、口元というのはとても個性的だ。

「日雇い、おまえ【絵筆】か」

「父はそうです。私はまだ、ただの見習いです」

「ほう。となるとご禁制の絵が描き放題というわけだ」

「べ、べつに無名だからって描き散らかしていいわけでも、……絵筆だからって描いちゃいけないわけでもありませんよ」

「どうかな」彼は浅く笑う。「『ありもしない幻想』をそこらの絵描きが描くのは禁じられてる。もちろん表の市場で売るなんてのはもってのほかだ。だからこのオークションここがあるんだろう?」

 そうですね、といいかねてキルティカは難しい顔で顎を引き、彼の後を追う。

 この国では『幻想を視覚化する』のが禁じられている。職業画家のほとんどを指して『絵筆』と呼ぶとおり、描いて売って良いのはそれを望む買い手のためだけで、肖像や実在する風景などの実物をもとにした写し絵だけに限られている。ついでに、人ひとりの実物大より大きい絵を描いてもいけない。

 趣味画家ならそれなりにいるが、どこにも飾れないぶん金にならない。金にならなければ画材も買えない。幻想を追い求めて戯曲家になる者や、描ければなんでもいいと絵筆になる者、どちらにも妥協できずパン屋や洗濯屋や配達員などに就く者で分かれていく。――ちなみに、見たものをそのままきれいに写して伝える技術はこの世において絵だけだ。貴族から庶民、時に旅人にも需要があるため、華々しい職業であることは間違いない。

 規制をまぬかれられるのは、王によって認められた一握りの画家だけだ。【画聖】と呼ばれる彼ら彼女らだけはあらゆる幻想をキャンバスに広げることを許されている。その上でそれらは国の管理下に置かれ、貴族たちに嗜まれ、一般市民の目に公開されることはない。

 ――それの何が楽しいのか、キルティカには分からない。父だって分からないだろう。

 ただ、それでも、絵画卿は別格だ。画聖の中でも飛び抜けた才能を持つただ一人。『彩爵さいしゃく』の爵位を与えられた画家。その筆致は凄まじく、アンティシャの導きでキルティカが数度だけ見せてもらった肖像画や風景画はいずれも確かにいた。

 魂に接吻し奪っていく、神のごとき技法と技巧。超越した感性と色彩感覚。

 絵画卿はまた、『魔術師』の二つ名をも持っている。その根拠として挙げられるのが【補色】と呼ばれる魔術絵なのだ。

 噂に聞く限りなら、その絵は動く。その絵は歌う。踊り、夢を見せ、異なる世界を覗かせる。

 王家のために描かれ展示された絵画でさえあの凄絶さであったのに、絵画卿本人の衝動でもってのみ描かれたという絵画なればいかほどのものなのか。想像するだけで震えが走る。

 今日こそは一目見ることができると思ったのに。

 上等な油を用いたランプが廊下のあちこちに点々と灯り、闇に橙色の光を投じている。壁を這う長くいびつな影はまばらに歩く仮面の人々のものだ。外へと誘導しながら不審な動きがないかをめざとく観察し、時々意図的に道を外れて廃劇場内を探索しようとする居残りを呼び止める。

 その間もキルティカの内心は穏やかならなかった。

 頂いた給与を燕尾服ごとまとめてカバンにしまうと、シャツとサスペンダー、その上にベスト、丈の長いズボンといった服装へと着替える。襟下のリボンを結わえて帽子を被ってしまえば、上流階級の使用人と例えるのが一番近しかった。

 速やかに撤収していくオークション運営側へ丁重に礼を述べ、階段を駆け下りて飛び出す。廃劇場の裏手に点在している馬車のひとつひとつを横目に走り、よく知った紋章を認めてようやく足を止めた。

「アン」

「しっ! ほら、お手をお貸しなさいな」

「大丈夫だよ、それで?」

 上等な馬車はキルティカが飛び乗ってもさほども揺るがなかった。分厚いクッションのきいたシートに座ると、待機していた従者の手によって外から扉が閉められる。

「出していただける? 少し寄り道をしたいの、三日月通りの方へ」

 有無も言わさぬ声で投げかけると、アンティシャは御者側に面した小窓を閉じるようキルティカへ指示を出した。つつましくも品のある真緋のドレスの裾を優雅に整え、窓が閉まったのを確認してから、彼女はようやく仮面を外す。

 いつ見ても鮮やかな緑の瞳だ。ぱっちりと大きく黒目がちで、長い睫毛の下の潤んだような質感が勝ち気で向こう見ずな子猫を思わせる。きっと両目がそうであれば彼女はこんなところで夜遊びをしてはいないのだろう。雪のように白濁した右目ごと瞬きをして、アンティシャはキルティカを見た。その眉間が寄っている。

「いいえ、言わないで。答え合わせをしなくてもすぐに分かったわ。フェリオ・アークよ」

「誰って?」

「あっきれた! 一部じゃ有名人の画商よ、いいえ、もっと分かりやすい説明をしてあげる。絵画卿のご子息よ」

 キルティカは軽く目を見開く。馬車は滑り出すように動き出していた。

「あんな大金積まなくても自分ちでもらえばいいじゃないか」

「本当にそうよね。お母様と複雑なご関係なのね」

「えっ、絵画卿って女性なの?」

「絵ばかのキル。絵以外なんにも興味ないんだから」

 アンティシャはあからさまに眉間に皺を作り、ドレスの裾からレースがたっぷりついた手巾を取り出してキルティカの頬へと伸ばした。令嬢の手首には香水でもついているのだろう、柔らかな薔薇の香が所作に漂う。

「ランプを素手で持ったのでしょう? 頬に煤つけて。そんな格好もして」

「燕尾服はかっこいいって言ってくれたじゃないか」

「粋な服装とそうじゃない服装があるのよ、キルティカ・オーレル。それくらい分かりなさいな。仮にもアトレット子爵の傍系でしょう? いちど鏡でごらんなさい。滑らかな黒髪に夜明けのような蒼色の瞳、白い肌。あなたのお母様のように髪を伸ばせとは言わないわ」

「アンが言葉を選んでるのはよく分かるよ、ありがとう。私は本当にいい友達を持ってる」

 アンティシャの頬にぱっと火の粉が飛んだようになる。ぼそぼそと言いながら手巾をキルティカの掌へと押し込むと、咳払いをして彼女は続けた。

「年齢は二十一歳。画商なんておじさまばかりだと思っていたから意外よね? 銀色の髪に灰色の瞳で整った顔立ちで、社交界に顔を出すたびご婦人やら芸術家やらと一緒にいるのを見かけるわ。それで。三日月通りにアーク氏の経営する画廊があるから、今から行くのよ」

「こんな時間に? そりゃ今すぐ行きたいのは確かだけど、居るものなの?」

「自宅も兼ねていたはずだから大丈夫。勝利の美酒をひとり静かに味わいたい派であることを祈りつつ、ご就寝中であればご起床いただくわ」

 つんと鼻先を持ち上げて公爵令嬢は言った。

「自宅が分かってるんなら日を改めたほうが心象がいいんじゃないかなと」

「まあ! 絵ばかのあなたにしては殊勝なことを言うのね、キル! でもね、フェリオ・アークには少し不穏な噂があるのよ」

「噂?」

 アンティシャは少し複雑な顔をして、自分の顎に指を添え、それからいくらか声を潜めた。

「耳を貸して、キルティカ。大声は出さないって約束できる? そう、お願いね。実は……」

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