無能子息と補色なる絵画
見夜沢時子
第1話 仮面オークション
罪を犯すにあたって、高らかに宣言する人はそういないのではないかと思う。
病気の子どものためにパンを盗むのも。
ひびわれた壁の隙間から着替え中の婦女子を覗き見るのも。
馬車で怨敵を轢いてしまうのも。
やる前に叫ぶなどしていたら何も起こらずに済んだだろう。「私はやります! これからやります!」――そうしたら病気の子どもは死に、婦女子は自宅の壁に鋏を打ち付け、被害者の親族は駆けつけて慰謝料をたっぷり脅し取るのだ。
だからまあ、罪は発作的に、衝動的に、偶発的に、爆発的な情熱をもって行われる。
ある種の絵を描くことにおいては、それに執念が加わるのだろう。
「次、五枚目の出品はこちら! 送り手は『黒ムクドリ』!」
所有者不明の廃劇場、栄光も久しいその舞台の上に立つのは今は人ではなく堂々たるイーゼルだ。載せられるのは例外なく額縁に入った絵画で、人の掌に収まるものから玄関扉くらいある怪作までと幅広い。
舞台上にある動かないものを人々はただ固唾を飲んで凝視している。
蒼を帯びた宵闇と月。その下で屈託なく踊る妖精のような少女の裸体。青と黄色と白を混ぜ込んだ月明かりを受けて淡く輝き、頬に灯るのは秘めやかな薔薇色。
「あの鮮やかな蒼色は」
「黒ムクドリというと宮廷画家の」
「しっ。名は出しちゃ駄目よ。宮廷画家が自分のために絵を描いたなんて知られたら何が起きるか。それもあんな裸婦画を」
「しかし美しい」
中央列隅の座席で男女が頭を寄せ合って囁きあっている。紳士はフロックコート、婦人は格調高いドレスを身にまとい、装飾品と帽子と仮面で富裕を示していた。
資産を持っているようなのは何も彼らだけではない。光源の絞られた劇場内でありながら、歯抜けた座席のあちこちで金銀輝石の光が反射している。
出入り扉のかたわらに立っていたキルティカが思わず溜息をつくと、革靴の甲を二度ステッキで突かれた。
「よそ見なさらず職務をまっとうなさいませ、警備員さん」
「サボってないよ。ご着席願えますか、ご婦人」
「少々お花を摘みに行っていたのよ」
赤毛のアンティシャは仮面の下の碧眼を細めてころころと笑う。柔らかで洗練されていない顎とすんなりとした肩の線によって、彼女の年頃を類推するのは易しいだろう。正確には十六歳、キルティカのひとつ下にあたる。
「従者も連れずに? ちょっと無防備じゃありませんか、公爵令」
「しっ。そういうのが無防備というのよ、キル。あと敬語はやめてくださるかしら」
「……失敬」
「闇オークションに従者を連れていくなんて品の良い大人の作法だわ、そうではなくて? こういうものはコソコソと来る楽しみがあるものよ」
アンティシャが詭弁をささやくそのあいだに、オークショニアが象牙のハンマーを叩いたようだった。落札されたらしい。
キルティカは改めて舞台上を振り返った。競り落とされたものではなく、次に運ばれてくる絵画を待っている。もうこれで六枚目になる。
「アン。今回のオークションに【絵画卿】の魔術絵が入ったって、本当?」
「本当よ。伯父様がそう言っていたもの。だからわたくしも意気揚々とあなたに
「感謝します、女神様。願わくばあと何時間突っ立っていたらいいのかも教えてください」
「女神の叡智でも知り得ないことはあるものだわ」
「最後の出品となります」
オークショニアのその宣言で、場がぴりとした空気をまとう。
どうやら多くの参加者にとっては周知の情報らしい、とキルティカは思った。
同じく布がかけられた額縁が運ばれてくる。ただその布は闇を吸い込むような漆黒で、イーゼルの上に載せられてからも誰かの手によってめくられる気配がなかった。そして何より異様なのはその処遇だ。布の上から銀色の鎖を厳重に巻かれ、
「【絵画卿】の作品です」
どよめきが高まる。早く見せて、見せろ、との声が端々から聞こえている。
「静粛に――静粛に! この作品はとある一般市民へ絵画卿から贈られた【補色】となります。落札された方には、贈られた当人宛の手紙の写しと合わせてのお渡しになります! ただし! 絵を見ることができるのは落札者のみとなります」
紳士淑女の集まりだ。暴動にはならない。ワインもパンも腐った卵も飛んでくるわけではない。だが暴言はあちこちで落ちていた。キルティカとて例外ではない。
「【補色】だって? 風景画や裸婦画を通り越してあの魔術絵を? で、見せてくれないって? なんてこった、ケチの極みじゃないか! 金持ちの集まりなのに」
「キル。お口を慎みなさいな」
「だってアン! 私はこのためにこんな日雇い仕事を」
「ふふん。であれば落札してきましょうか?」
「女神様!」
キルティカの小さな歓声と同時に響いた入札の声、その額に、アンティシャの不敵な唇は反転したように噤まれた。
「やっぱり今のは無しで」
キルティカは無言で頷く。異議はない。自分の生家が何軒買えるのか分からない額が秒読みで積まれていっており、誰しもが絵画卿の魔術絵に希少価値と魅力を感じているのがよく分かる。
オークショニアに自分宛の【補色】を売却したそのとある一般市民なる人物も、本当なら手放したくはなかったのかもしれない。それと同時に、その次元の金額が手に入るのなら引き換えたい気持ちもキルティカには痛いほど分かる。没落貴族の生まれとして。
うず高く上がっていく眩むほどの額に気が遠くなりかけた頃。
二人からそう遠くない距離でよく通る声が上がり、人々が大いにどよめいた。アンティシャも大きな目を見開いている。
「倍? 今倍額つけた? わたくしの聞き間違い?」
声の主を探すのは容易だった。客席のすべてがそこへ注目しているからだ。
その席に座っていたのはまだ年若い青年だった。細いリボンで結んだ銀髪も、流行りの衣服を少し着崩した装いにも遊惰な印象があるが、不思議と下品ではない。白と金で作られた仮面の下の目鼻立ちは見えないが、妖精や魔性、そういったモチーフのモデルとしてとらえたならきっとしっくり来るだろうとキルティカは思った。当然、うなるほどの金を持つぎらぎらとした実業家にも見えない。
オークション会場は水を打ったように静まり返っている。
ハンマーが打ち鳴らされても、誰一人申し立てる者はいなかった。
「では、十四番の方が落札です」
「本物かどうか確認しても?」
「かしこまりました。お手数ですがどうぞこちらへ」
「その手紙を見せてくれるだけで良い。本来の持ち主宛の」
十四番氏は座席から立ち上がり、観客席の階段を降りて舞台へと向かう。「まただ」と誰かが言う声がキルティカの耳に届いた。「あいつが来てるなんて」と歯噛みするような響き。
夜会服のオークショニアが舞台へ上がった銀髪の青年へと一枚の封筒を渡す。しかし落札者は中身を取り出すどころか、封筒の表と裏を一瞥するだけで気安く顎を引くに終えた。
「確かに」
「では、今宵のオークションはこれにて終幕と致します! お足元にお気をつけて、皆様の善良な秘匿と奇跡たる審美眼に再びお会いできる日を楽しみにしております」
場に湛えた不満を箒で掃き払うような、有無を言わせぬ閉幕の声だった。銀髪の青年は観客席へ降り、キルティカとアンティシャがいる通路へと歩いてくる。オークションの担当者がその後ろから影のようについてきて、落札品と金の受け渡しについての案内を囁いていた。日雇いとはいえ上司に当たるその人物の視線に圧され、キルティカは受け持ちの扉を開けて二人を通す。
このあとどこに運ばれて、どこで取引をするのか。末端たる自分は知らない。つまりあの魔術絵を見る機会は二度とないだろう。本来ならば。
「困ったものだわ。本当に見せてくれないのね。――あ、ちょっとキル? 待ちなさいキルったらっ」
アンティシャの声も構わず、キルティカは廊下へと飛び出した。
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