第2話
旅支度が整った三日後の朝、太陽はまだ地平線の下から這い上がろうとしている時間帯だった。オルヒデアは鼾を掻いているニービスを無理やり起こし、出発の準備に取り掛かる。とはいっても、荷物は前日までに完璧に済ませていたため、身支度を整えるだけで充分だった。
「ふぁあ……やっぱり朝から動くのは辛いものだな」
「自分で計画立てといて言わないでください」
店のドアに張り紙を貼り、二週間程度、店を空けることを明確にした。
「目的地はサングイ・フラトゥリス海沿いの山脈を越えた東国だ。順調にいけば五日で着くはずだが、多く見積もって一週間ってとこだろう。基本は歩きだから、体力は温存しておくように」
「はい、師匠」
「最初は隣街を目指す。ここより交通の利便性は良いだろうから、その先は馬車を使おう」
一週間分の着替えが入ったリュックを背負い、水筒を首から下げ、ニービスは箱庭の入った包みを持ってようやくこの街を出る。平坦な道は隣街までの一本で繋がれている。たまに首の長い動物が樹木の葉を貪る様子が見られた。
「師匠、どうしてその箱庭を届けなければいけないんですか? 普通なら取りに来ますよね?」
ニービスはその答えに、淡々と昔話を語り始める。ニービスは昔話を武勇伝のように語るので、いつも長くなる。
「この箱庭の持ち主は、人間とエルフの間に生まれた特別な人でな。もう十五年くらい昔になるかな? 水脈の土壌汚染調査の仕事をしていた時に知り合ったんだ。あの時は本当に災難だった。洞窟内で調査をしていた時の足場が脆く、彼が私を助けようとしたが真っ逆さま。まあ幸い、そこが水脈の最終地点だったから、水の中に落ちたんだけどな。落下した時に片足を岩にぶつけて怪我をしたが、彼は治癒の才能があった。だが治癒は想起術の中では高度な技術が必要で、特に脈読虹彩が長けている人でないと扱えない代物だ。彼は想起術は使えるが、全てを解読するには通常、私たちエルフが解読する三倍は時間を有した。私の怪我を治してくれた時なんか一時間は掛かったかな? だから変だと思った。そこで問い詰めた結果、彼は片目だけ脈読虹彩を有する、ハーフエルフなのだという事実を知ったのだ」
「脈読虹彩って、本来エルフの体にしか存在せず、万物の脈を読む特別な目の機能、ですよね? どうして彼にも片目だけあったんですか?」
「彼の両親は、父がエルフ、母が人間だから、遺伝的に父の血が多いのだろう。だから術に関しても、時間は掛かるが問題無く使えるというわけだ」
「なるほど。で、その箱庭は何で?」
「おっと、本題を忘れるところだった。私から何かお礼がしたいと申し出た時に、この箱庭を修理してほしいと頼まれたんだ。修理に一〇年は掛かってしまったが、これでようやく返せる」
「師匠なりの恩返しってことですね」
「そんなところだな」
だらだらと話しているうちに、昼前には隣町の【オリガ・テラ】に到着した。貿易が盛んなこの街では、品物を乗せた馬車が、港には取引用の木箱を乗せた他国籍船が行き交っていた。活気溢れる景色は、オリガ・クアとは違った明るさを放っている。
「まずは昼食を取ろう。腹が減っては戦はできぬ、というしな」
「いつの時代の言葉ですか……」
「古き良き時代と言うだろう? なっはっはっ!」
そこに偶然にも通り掛かった馬車から、がたいの良い男性がニービスの笑い声に反応した。
「お! 誰かと思えば、修理屋の嬢ちゃんじゃねーか、久しいな!」
「久しぶりだな。どうだ? 修理した手持ちランプの使い心地は」
男は頭の横にあるランプを手の甲で二回叩き、調子が良いことを伝える。
「ああ、絶好調さ! こいつのおかげで夜の道も安心して走らせてるよ」
「結構結構! いやーやりがいがあっていいねー。……あ、そうだ。この男を見掛けてないか?」
ポケットから一枚の写真を取り出し、男に見せる。写っていたのは、長い髪を肩の下で一つに結っている男性とニービス。着ているマントの紋章から、水脈調査隊の頃の写真であることは一目で理解できた。
「調査隊のあんちゃんか。ここ最近は見ないな。――噂で聞いたんだが、サングイ・フラトゥリス海沿いの山脈で汚染報告があったらしい。もしかしたら、そこに行ってんじゃねーかな?」
「そうか、情報ありがとう。感謝する」
「おう。達者でな」
男は馬車を再び走らせて、街の喧騒に溶けていった。
「僕にも見せてくださいよ」
オルヒデアは写真を覗くようにニービスに近づくが、すぐにポケットに仕舞われた。
「食堂でじっくり見せてやる」
「ちぇー」
再び街中を散策する。港に近い市場では様々な交易品が売られていた。この辺じゃ取れない果物や茶葉、東国独特の模様を施した織物、北国の技術を生かした装飾物、その他にも珍しいものがたくさん並んでいた。オルヒデアは目を輝かせながら、それらを横目に食堂を探す。
「オルヒデア、ここはどうだ?」
市場のすぐ外れた場所に、魚の形をした看板が主張するパイン材の建物がある。そこから漂う匂いで腹の虫は騒ぎ出した。
「いいですね!」
早速入って中を確認すると、大まかに満席と伺えた。さすがは大衆食堂。昼休憩の賑わいは市場に負けないくらいの活気はあった。案内してくれたフロアサーバーのおかげで丸テーブルに座ることができた。丁度三つの椅子で、一つはリュックを置き、ニービスとオルヒデアは席に着いた。ニービスは手渡されたメニューを端から端まで凝視し、適当に注文した。
「ここには詳しいんですか?」
「いや、むしろ初めてだ。最近できたばかりなんだろう。当たり障りのないものを頼んだまでさ」
「はぁ……」
オルヒデアはニービスのいい加減さに飽き飽きしていた。こういう時に限って外れることがあったりするものだ。オルヒデアは割と好き嫌いが激しく、特に香りが強いものはてんで駄目である。料理は次々と運ばれ、テーブルはすぐに皿で埋まった。まず運ばれてきたのは、サラダと頭足類の詰め飯、次に鳥団子とナッツの甘辛炒め、最後はメインは大魚の香味姿揚げ。割とバランスの摂れたチョイスではある。しかしオルヒデアは大魚を見て遠慮したいように苦虫を噛み潰していた。
「お前も少しは好き嫌いせずに食え。そんなんだから、いつまでも進歩しないんだ」
「余計なお世話です。それに食べれない物が一つ二つあったところで、進歩しないとは言えませんから!」
「えー? ここの名産品で涎が止まらないほど美味しいのにー」
少しふざけた口調でオルヒデアを煽る。気付けば取り皿にはすでに食べやすいサイズに切り取られた魚の切り身が乗っていた。ニービスはなるべく香味のついていない部分を選び、行け行けと手を差し出す。恐る恐る口に運ぶオルヒデア。すると先程までの苦虫はどこかへ消え、とても美味しそうに口をむしゃむしゃと動かす。
「これ……美味しいです! でも、どうして香りは強いのに、味はしっかりと魚の味がするんですか?」
「香草のロスマリヌスとマザラという魚は、とても相性がいいんだ。ロスマリヌスがマザラ特有の臭みを消した上で旨味を引き出し、植物性油で揚げて閉じ込めることによって、こういう風に仕上がる。少しは勉強になっただろう」
ニービスは鼻を高くしたような態度でオルヒデアを見ていた。
「料理って奥が深いんですね」
しかしそんなことは気にせず、オルヒデアの手が止まることはなかった。
テーブルの皿を綺麗に浚ったところで、ニービスは先程の写真をオルヒデアに見せた。改めて見るその顔は、とても綺麗な顔立ちで、切れ目が印象的だった。
「この人が、師匠の言っていたハーフエルフの人ですか? 見た目はエルフと変わらないですね」
「だろ? 私も最初は驚いたものだ。親御さんも相当苦労されただろうな」
「そうですよね。だってまだ一部の地域では人間との衝突は続いていますし、そもそも人間とエルフの間に子供が生まれること自体が珍しい。どうやって過ごしてきたんでしょうね?」
「そんなに気になるなら、本人に直接聞いてみればいい。話してくれるかは知らないが」
「そこまでひとでなし、もとい、エルフでなしではないですよ」
写真を返すと、一杯水をもらって一息吐き、再び目的地へと目指す。外は太陽の照り具合がより強く、一〇分もいれば汗で服が濡れていた。ニービスはマトゥラック海を通る馬車を見つけると、すぐに駆け寄って商人に声を掛ける。
「ちょっといいか」
「はい、なんでしょう」
「マトゥラック海を経由してヴェティに行きたいのだが、乗せてもらえるだろうか」
「構いませんが、もうすぐ出発しますので、準備なさるならお早めに……」
「構わない。これでよろしく頼む」
ポシェットから皮袋を取り出して商人に手渡す。そして二人はそのまま荷台に乗り込んだ。ヴェティという街は【オリガ・ヴェティ】というのが正式名称で、そこは森に囲まれた変わった地形をしており、お伽話に出てくるような街と言われる程女児には人気の高い街だ。
馬車に揺られている間もオルヒデアは休むことを知らず、ニービスへの質問攻めが続く。
「師匠はどうして調査隊を辞めたんですか? お国仕事でかなりの予算が掛けられているって、どっかの噂で聞いたことあります」
「理由は簡単だ。『犬』になりたくなかったから」
「犬、ですか?」
「たしかに国仕事は、優秀な学力や高度な想起術を発動させることができる者のみ携われる立派な仕事だ。ただ実際は言われたことだけを淡々と熟すだけのつまらん雑用ばかり。それに、これは定かではないが、人間との抗争をさらに悪化させて大規模な戦争にまで発展させようとしていたのではないかと、大きな尾ひれまで付いていてな。それで調査隊を辞めた。今探している彼も、きっと今頃は何処にも所属しない調査隊でもやっているだろう。彼も私と似たような性格で、一度熱が入ると止まらないからな」
「だから自由の利く、あの修理屋を営んでいるわけなんですね」
「よく分かっているじゃないか」
「そういえば、その人の名前を聞いていなかったですね」
「蘭舞だ」
その名前が出てきた瞬間、年寄りの商人がニービスに話を振った。
「あんた、蘭舞さんを知ってるんか?」
「ああ。昔の仕事仲間だ」
「あの人にはついこの間、大変世話になってな。もし会うことがあれば、礼の品を届けてもらえんかね?」
「私も丁度、届け物があるんだ。一緒に届けるよ」
「すまんね。さっき頂戴した代金は返すよ。それでチャラだ。今頃はサングイ・フラトゥリス海の鍾乳洞に向かっているんじゃないかな?」
年寄りの商人は鞄から、掌サイズの小包みと皮袋をニービスに渡した。それからはマトゥラック海に到着するまで、仮眠を取ることにした。
日が暮れきる前にはマトゥラック海に到着した。商人たちも焦っていたのか、物資や取引品を馬車に詰め込んでいく。その間にニービスはオルヒデアを連れて浜辺の前に立つ。ニービスは手に持っている包みから箱庭を取り出して、オルヒデアに指示を出す。
「オルヒデア、ここの海水を約十五立方センチ程切り取って、箱庭に入れてみろ。私の見込みではそろそろ『脈の切り取り』ができる頃合いだと思うんだが」
「やってみます」
オルヒデアは左腕を伸ばし、掌を海に向ける。外界の音が聞こえなくなる程に集中し、脈を読む。脈は切り取る場所によって大きな損壊を与えかねないので、普段の修行よりも慎重かつ丁寧に作業する。正方形に切り取られた水が宙に浮き、そのままニービスの持つ箱庭へと移動させる。箱の真上に止まったところでゆっくりと注いだ。
「よくやったな。あとは切り取った部分の脈を繋ぎ合わせたら終わりだ」
「はい」
陽は段々と暮れていく。切り取られた部分に掌を向け、もう一度集中する。見る見るうちに水が繋がっていき、切り取られた部分が無かったかのように元に戻っていく。オルヒデアの後方にいた商人たちは、その不思議な光景をまじまじと見ていた。
「お疲れ」
終わったことを確認するまでもなく、ニービスは労いの言葉を贈った。集中力が切れたと同時に、オルヒデアはその場に座り込んだ。
「こんな高度な技、師匠は、簡単そうに、やって、みせます、よね……」
「いや、これは中級者が扱う技だ。切り取り、結びの技術は水脈調査や歴史学者が使うようなものだから、普段の生活には特段必要は無い。だが使えるようになって損は無い」
ニービスはそう話しながら、箱庭に入った水を固めてさらに続けた。
「こうやって脈を固定させるのもな」
箱庭を包みに戻し、商人に食料を要求した。商人の指さした先には、少し離れたところで下っ端たちが焚火を施し、人数分の魚を木の枝に刺して焼いている様子が伺える。ニービスはオルヒデアを立たせて焚火の傍まで手を引く。陽が暮れた砂浜は冷え切った風を運んでくるため、昼間よりも寒く感じられた。
「ふうー。やっぱり火の傍はあったかいねー」
両手を前に出して温まっていると、下っ端の一人が二人に焼き上がった魚をもてなした。海水が滲みた肉厚の身は少し塩辛いが、捨てる程のものでもなかった。オルヒデアは余程腹が減っていたのか、すぐに平らげてしまった。
「昼の魚も美味しかったですが、この魚はお肉のようにがっつりいけますね!」
「箱入り育ちのお前には、なかなか経験できない味だろ?」
そこに商人も混ざって、その日の夜は心行くまで楽しい野宿となった。
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