第2話

気がつけば、暗い空間にいた。右を見ても左を見ても壁らしきものはなく、ただ空間がある。そして足元が闇に溶けるほど暗く、それと微かに紫の煙が充満していた。呼吸をするほどに苦しく、手足が麻痺してくる。逃げようにも何も目印もない、何歩歩いても景色が変わらない。目の前が霞むほど疲弊し、煙のせいで身体が動かなくなってその場に倒れこんだ。すると、幻のように声が聞こえて来る。


「サリー」


私を呼んでいるのだろうか。私は紗理奈だけど、サリーとは私のことだろうか。頭もぼんやりしているけれど、声だけはクリアに聞こえる。少しハスキーな低めの男性の声、だと思う。聞き覚えがあるようなないような、けれど聞いてて少し安心する。


「サリー、忘れるな」


身体が重い。苦しい。だけど不思議な浮遊感がある。心臓の音と、あの声だけが私に入ってくる。


「お前は俺様から逃げられない」


ここで目が覚めた。



「おはよう、紗理奈」


視界にはいつもの天井、そしてウイングの声。夢か。…不気味な夢だった。


「…紗理奈?」


そう。私は紗理奈。誰からも『サリー』なんて呼ばれた覚えはない。…はず。でもどうしてか微かにデジャヴを感じる。心臓の中から何かが出たがっているかのようにバクバク言っている。

ゆっくりと起き上がって、カーテンを開ける。朝日を浴びたら少し落ち着いた。


「今日は寝起きがいいんだな」

「…たまにはね」


そして何故か、この夢のことはウイングに言わない方がいい気がした。




覗いた三島紗理奈の夢は、お世辞にも気持ちの良いものではなかった。泥のように濁った空間に、彼女を1人置いて、疲れ果てさせる。その後、声でメッセージを彼女に流し込んでいた。隔絶、鬱化、刷込…。洗脳の手本のような流れだ。まだ彼女の中には潜在的に"奴"が残っている。やはり記憶を消すだけでは足りなかったか…。

ソウダルフォンは焦りを感じていた。ウイングはああ言っていたし、その後も彼女の精神に入り込んでアフターケア、…もとい、監視をしているから大丈夫だと高を括っていたが。精神にいるウイングも彼女の夢にまでは干渉できない。中々の策士だ、敵ながら。


「姐さん?」

「…、ああ、ワセダブリューか」


早稲田戦士のいつもの会議室。今日は定例会の日だった。といっても、特に何もなければ顔を合わせた少し話すくらいの緩いものである。


「早いっすね、姐さん」

「少し…な」

「あれ、姐さんもなんかありました?じゃあ今日の例会は長引くなぁ」


例の一件は、今のところウイングとソウダルフォン2人しか知らない。このことを後輩に話すべきかソウダルフォンは決めかねていた。そもそも上級生の案件を現役である後輩に持ち込むことに抵抗があるし、それに、できればこの件は後輩に知られたくなかった。仕方なかったとはいえ、罪のない在学生の記憶を一部無理やり消したのだ。その決断を後輩から責められるのが、余りにも怖かった。


「2人ともはやーい!」

「待たせたか」


会議室の扉が開き、スピカとセリオンが入ってくる。いつものメンツが揃った。ソウダルフォンは今の今も揺れていた。


「んじゃ、定例会始めます。まず俺から、上から調査依頼のあった紫の煙の件の報告からー」






「ねえ、カゲロウ。私に手伝えることはなくて?」


湾岸のコンテナの上に座るカゲロウを見上げた。カゲロウは傀儡子ちゃんの姿に気づくと「げっ」と小さく声を漏らした。


「ンで此処に居んだよ」


カゲロウの左手には火がついた煙草。外だからあまり臭いは気にならないが、そもそもどうやって吸っているのだろうか。


「安心して、骸鬼殿には言いませんわ」

「…お前こそ安心しな。アイツにバラすなんて言ってたら即座に殺してたぜ」

「それはそれは物騒だこと」


カゲロウが煙草を足で踏み潰し、コンテナから飛び降りてくる。


「あとお前に手伝えることは無えよ」

「残念。でも"何か"なさってるのね」

「…お前いつからそんな性格になったんだよ」


カゲロウは溜息をついた。傀儡子ちゃんが首をかしげるのを見て、肩をすくめる。


「…"種"は蒔いた。花が咲いたらお前に花弁の一枚でもくれてやるよ」

「あら!それは嬉しいですわ」

「だから邪魔すんな。俺と、アーグネットの、な。」


傀儡子ちゃんは仮面の下で笑った。ベティちゃんを抱く手に力を込めて。

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