終章ー1


 晴れ渡る夕暮れ色の空を、春風が吹き過ぎた。優しい薄紅と淡い紫が戯れるように混じりあい、東へ流れるにつれて、深く濃い、星抱く艶やかな漆黒へと染まり変わっていく。満ちた月がゆるゆると昇り初め、穏やかな夜の訪いを受けて、そっとその柔らかな輝きを増してきていた。

 村の家々にはあたたかな明かりが灯りだし、炊事場からの煙とともにいい香りが漂い出している。深まる春の草木の匂いとそのぬくもりある香りが、そよぐ風の中で楽しげに重なり、心地よく鼻をくすぐる。


 その風の香を吸いこみながら、旅慣れた出で立ちの青年がひとり、子どもふたりに先導されて、村を行き過ぎていく。村の裏手、やや離れた丘の上を彼は目指していた。そこにも家らしきものがひとつ佇んでいて、窓から明かりがこぼれ、夕飯時の煙が立ち上っている。

 近づいてみれば、家の前にはなにやら菜園らしきものがいささか無秩序に広がり、端の方には土の塊がうずたかく積まれていた。いかにも作りかけ、といった風情だ。扉の向こうからは、幼い子ども混じりの話し声が賑やかにもれだしている。


 青年を案内してきた少年と少女は、待っててな、と声をかけて、家への扉を開こうと駆け寄っていった。それが、先に中から盛大に開け放たれる。

「おっそいだろ! 日が暮れたら早く帰ってこないと、笑顔だけはくそ爽やかなたちの悪い邪悪な皇帝に連れ去られるぞって、さんざん言ってん、だ、ろ……」

 中から勢い込んで扉を開けた青年は、そこで、茫然と言葉を飲んだ。切れ長な若葉色のつり目をこれでもかと見開き、子どもらが連れてきた相手を凝視する。いつかは腰を越すほど長かった金糸の髪は、ばっさりと切り落とされていて、いまは髪先がその白い首筋をくすぐっていた。


「それは……心底気をつけないとな」

 突然の来訪者は、ずいぶんと耳に懐かしい低い音色で静かに答えた。そば近く、常に当たり前に隣にあった、短い黒髪と柔らかな夜色の目は、いまも変わらない。見知った重厚な黒の軍衣とは違い、簡素な旅装束に身を包んでいるが、それはお互い様だろう。

「――……あと、人好きするくせに、悪辣な宰相とかね……」

「そうだな。関わりたくないな、もう」

「違うだろ!」

 ぽつりと零した言葉への冷静な感想に、思わず莠は狼狽とともに絶叫した。

「え? ほんと、ちょっと待って。というか、絶対に最初の会話間違えてるだろ、これ。いや待って。ほんと。え? 待って」

「ここにいるのは、場所を探り当てたからだな」

「こわい! いや違う! いや違わないけど、それも聞きたかったけど、待って!」

 動揺のあまり頭を抱えて蹲った長年の相方を、言葉どおり素直に待って玄也は見下ろす。戸惑ったように彼らの間を行き来する幼い視線の気配に、莠は盛大な溜息をついて、顔をあげた。


 黒い髪と瞳の快活な少年と、小麦色の髪と新緑の目をもつ利発な少女。まだあどけないふたりは並び立っても兄妹というには似ておらず、年も近すぎた。だが、互いに繋いでいる手は、知りあって間もない玄也から見ても親密そうだ。こうした幼子たちの様子には、実によく見覚えがある。――孤児であった子どもたちだ。

 莠は屈んだまま、ふたりの肩に手を置き、交互に見やった。

「というかさ、ふたりとも、知らない人を家に呼ぶなよ。いや、知ってたけど。君らは知らないだろ? 危ないって教えてんのに」

「でも、はぐ兄、この兄ちゃんはいいやつだぞ」

「鳥さん助けてくれたの」

「は?」

 首を傾げる莠へ、彼らの代わりに玄也が口を開いた。

「木の根元に額を寄せ合ってたんで、なにかと思って声をかけたら、鳥の雛が落ちてた」


 言われてみれば、ずっと彼は両手になにかを包みこんでいた。差し出された手の中を、莠が立ち上がり覗き込んでみれば、布にくるまれた煤けた茶色の雛が、意外としっかりとした声で鳴いていた。

「翡翠鳥の雛か。落ちてたっていうか、落とされたんじゃん?」

「だろうな。だが、こいつは運がいい。落とされた時の怪我も少ないし、巣が作られていたのが、ちょうど今が花の散り時の樹の上だった。風が吹き寄せ集めた散った花びらに包まれて、寒さも免れた。適切に処置してやれば、まあ、生き延びられるだろ」

「玄也、君、鳥の手当てまで出来んの……」

「本で読んだ」

「どんだけ雑多に読み漁ってたんだよ……」

 もはや呆れ果てた目を玄也に寄越してやって、莠はぼやいた。その足元に抱きついて、案内人の少年と少女が、助けたい、面倒見るから、と口々に騒ぐ。


「いや、もう別にいいけどさ。仲間が一羽増える程度。でも、俺、鳥の世話は出来ないよ?」

「この兄ちゃん出来るって」

 びしっと玄也を指さす少年に、莠は溜息をつき、頭をかきやる。

「そりゃ、出来るだろうけどさ。世話ってなると、まだこの雛の状態じゃ、一日、二日のことじゃないだろ。ってなると、この〈鳥のお世話できるおにーさん〉とやらには、ずいぶんいてもらわないといけないことになるじゃん? さすがにそれは、」

「俺は構わないと、もう言ってある」

「俺抜きで話し進めてたんなら、先にそう言ってくんない? まあ、いいですけどね! それなら!」

 しれっと遮る玄也に、口端ばかりは笑むように引き上げて、莠は刺々しく言い放った。


 しかし子どもらの方は、これで莠も了承済となったと素直に喜び、家の中へとふたりして駆け込んでいく。どうやら、雛を収める空き箱を探すらしい。その元気な後ろ姿をちらっと見やって、莠は玄也を振り返った。

「で、玄也はほんとにいいの? 蓮花さんは?」

「ああ、問題ない。四年前、世界を巡る風が吹いたのは――当然、知ってるな?」

「薄紅花の風、ね。まあ……知ってるよ。で、それが?」

「あれが、蓮花も癒した。おかげで驚くほど、回復が早くなってな。筋力の衰えだけはどうしようもなかったが、努力もあって一、二年もあれば、そこそこ動けるようになった。例のあいつの、献身的な支えもあったしな」

「そいつはよかった」

 色の分かりづらい口元がほのかに笑んだのを見て取って、莠も小さく唇をほころばせた。花の香りを抱いた春風が、ふたりの間を縫って家の中へと通り抜けていく。


「けど、ってことは、これからがいよいよ、いわゆる普通の生活ってやつじゃん? こんなとこに長居していいわけ?」

「莠……お前、恋情が生まれる心の機微というのを知ってるか?」

「は? なに、急に……。ま、いいや。続けて」

 唐突な投げかけにうろんげに翡翠の眼差しを向けつつ、戸口に身をもたせた聞く姿勢で莠は促す。

「蓮花は十年以上ただ寝ていただけだったんで、心はいまだ若いままでな。あとまあ、元から本人が、そこそこそういう方面に興味盛んな性質だった。で、そこへ自身に好意を持つ相手の身を粉にする献身だ。一緒の日々、互いに重ねる努力、縮まる距離」

「おっと、分かりやすい展開」

「そうだな。呆れるほど単純な結末だが、この前の夏に、蓮花は奴と晴れて結婚したわけだ」

「それはおめでとうございます。……え? でも別に君は、それ、構わないよね? そういうんじゃなかったろ?」

 深くつかれた吐息に、よもやこじれたかと莠が一応の確認をすれば、それについてはあっさりと玄也は頷いた。


「そうだな。姉の結婚のようで喜ばしかった。が、それはそれ、これはこれだ。――家が、狭かった」

「はい?」

 思いもかけない言葉に莠が間の抜けた声をあげれば、凄みのある笑みをわずか瞳の端にのぞかせ、玄也が独りごちるように、しかし聞こえよがしに囁いた。

「お前にも味わわせてやりたいところだ、莠。新婚の姉夫妻と寝室が同じだった……俺の、居たたまれなさをな」

「うっわぁ……え、なんか、ごめん……」

 面白がるより先に同情と憐憫が溢れ、莠は思わず、玄也から身を引いた。幼子や少年ではない、いい年をした大の男が、新婚の夫妻と一緒の部屋で毎日寝る――正直、己なら消え入りたいと、容易くその惨状は思い描けてしまった。


「家を新たにしようにも、これからいろいろ入用にもなる。先立つものなく、そう簡単にいく話でもないしな。まあ、それなら、元から区切りがついたら、俺としては家を出るつもりではあった。それを少しばかり早めたという、それだけだ」

「なるほど。蓮花さんとこ出てきた事情は痛いほど分かった。だけど、それでどうしてここにきたかな……探し当ててまで」

「とりあえず……お前の別れ際の態度が相当頭にきてたんで、憂さを晴らしたかった」

「あ~! そういうやつだよね、君! 甘く見てたよ、その負けん気の強さと執念深さ!」


 怒っているだろうとは思っていたが、それで居場所を探し当てる意地をみせられるとは想定外だった。これでも、莠としては注意して身を隠していたのだ。世の脅威であった、いまは亡き雲竜帝国。かつて、そこの悪名高い魔法使いであった者としては。

「ほんとそういうとこだよなぁ! めっちゃ根に持ってるだろ! くそっ、ある意味いちばん面倒なのに見つかった」

 頭をがしがしとかき回して悔しがり叫ぶ姿を、そうと分かる者には分かりやすすぎるほど、どこか満足げに夜の瞳は眺めやる。その口元に、さらに意地の悪い笑みがふと引かれた。


「……ところで、莠、お前、さっきから誤魔化してるが、絶妙に目を合わせないな。文句があるなら目を見て言え、目を」

「うっるさいな! 今生の別れ告げたつもりだった奴に、たかが数年で再会とか、これでわりといま情緒が大混乱なんだよ。最高に気まずいんだよ。察しろよ!」

「そうか。今生の別れ際に、またね、は言わないと思うがな」

「それ、忘れろ、すぐに」

 聞こえていたのかと、低く這った声音に、玄也は肩をすくめた。


 そこへ中から、はぐ兄、と、先の少年とは別の、もう二、三は幼い少年が、とてとてと歩み寄ってきた。くりりとした青い目が、厨房を指さし、言う。

「また鍋、こげそう」

「やっべ! とりあえず、玄也、中入ってて」

 慌ただしく駆け込む莠が言い残すにしたがって、玄也は家へと上がり込んだ。先のふたりが、鳥の家を見つけたと走り寄ってきて、小さな木の空箱を差しだす。そこに雛を入れてやり、あたたかな場所へ大事に置くよう頼むと、わかったと頷いたふたりは、これから使うであろう食卓のど真ん中にそれを据えた。すでに鳥の箱のほかにもごちゃごちゃと物が積まれており、このままではとても食器を置けそうではないが、まあ、いいか、と玄也は放っておくことにした。


 見渡せば、全体的にどうにも物が溢れていて、足の踏み場の方が少ない家だ。この家の主がかつて、ただ広いだけの、ほぼなにもない部屋にいたとはとても思えない。炉にはきちんと火が灯って空気をあたため、散らばった日用品や玩具と、脱ぎ捨てられた小さな服の雑然とした重なりからは、生活の香りしかしない。

 窓辺に並んだ空き瓶には、子どもらが摘んできたのだろう。様々な色の糸で拙く束ねられた雑草の花が生けられていた。名も知られない野辺の草ばかりだったが、白に黄色に薄紅にと、美しく彩りが混じりあい、咲きこぼれている。


「ちょ……! 鳥! それ、どっか別の場所にしてよ! あと、机の上片付けて!」

「え~!」

「え~、じゃないんだよ! 使ったもんは片付けろっていつも言ってんだろ」

 食卓上の惨憺たる有様に、振り向いた莠が眉を釣り上げる。それに玄也は、言うようになったと、少し、笑いたくなってしまった。空虚だった彼の部屋が、たまに一部散らかる時は、主が使った物をそのまま放っておいたのが溜まりにたまった時と、相場が決まっていた。そして、それを当人が片付けたことは、ついぞなかったはずだ。


 その時ふと玄也は、莠と子どもたちがやりあう喧騒の隙間から、歌声が聞こえてくるのに気がついた。ひどく、懐かしい旋律だった。歌詞も音程も微妙に違う、終わりきらない子守歌。同じところをずれた調子で、ずっと繰り返す。澄んだ声の――へたくそな、優しい子守歌だ。


 歌い手は、ちょうど入口からは死角になる、暖炉近くの棚の影に座り込んでいた。そばには使い古された揺り籠がひとつ。動き回れる子らの中では一番幼い金糸の髪の少女が、ゆらゆらとそれを揺らして、歌を紡いでやっていた。火灯りに照らされて、その薄い密色の瞳が金色に溶けている。

 彼女の視線が熱心に注がれる先には、まだ季節のすべてを知らぬだろう赤子が、すやすやと、騒がしいこの室内にあって、図太く寝息を立てていた。この地域では珍しい褐色の肌に、ぽやぽやとまだ綿毛のような黒い髪。順調にふくよかに育っているらしく、首も見えなければ、足首も手首もない。むちむちとした小さな腕の中には、半分頭を寝ぼけた口にはまれながら、白い犬のぬいぐるみが抱きしめられていた。


 そこでにわかに、ぱたぱたと小さな足音が部屋の中を駆けまわりだした。片付けろとの再三の要請が、聞き届けられるにいたったらしい。机上の物を中心に、せっせと小さな手なりに、在るべき場所に収めだしている。

 鍋の心配をしていた子は、その中身を運ぶ手伝いをしているらしい。片付け組とぶつかりそうになりながら机へと並べていく皿の中身は、スープのようだ。そこに彼が、ちょっと指を突っ込んで、幸せそうにそれをぱくっとしたのは見て見ぬふりにし、玄也もそのスープをのぞき込んだ。思いのほか、普通の出来栄えだ。


「お前たちの兄さんの料理は、美味いのか?」

「そうだなぁ……もう前みたいに、こげてないし、火もとおってるし、あとちゃんとしょっぱい味がつくようになった!」

「……――明日の朝には、美味しいを教えてやる」

「そこ!」

 思わず少年の頭をなでた玄也に、背後から声が飛ぶ。盆にのせて莠が持ってきたものを卓上に並べるのを手伝いながら、玄也はぼやいた。


「お前と厨房の相性が、まるでいいと思えなかったんでな……」

「ええ、そうですね。そうですよ。それは俺も思ってた。なんなら、いまも思ってる。でも、君の手を借りなくても、この子らは美味しいは知ってるよ。今日のスープは、村のおば様からの差し入れです!」

「とりあえず、溶け込めてるようでなによりだ」

 結局他人の手か、とは言わずにとどめおいて、玄也は返した。

「まあ、これでも一応、きっかけがきっかけなんで、信用はそこそこあるんだよ」

「聞いたが、村の子をかどわかした人攫いの一味を、殴り倒してきたんだってな」

「あえての暴力的な表現やめてくんない? 捕縛のうえ、子どもの救出をしたんだよ」


 ふたとせは前のことだ。行くあてもなくふらふらとしていた莠は、たまたまこの村に立ち寄り、たまたまそこで子どもが攫われたという事件に遭遇した。大騒ぎを目の前に行き過ぎることも出来ず、助けをかってでることにしたのだ。戦いに慣らした身体は魔法がなくとも万全の働きをし、見つけた賊をことごとくのし、子どもを助けるまでは実に簡単に済ませられた。その後、村の子のほかにも、近場の街などから連れ去られた子がいることも発覚し、彼らをそれぞれの家に帰していったところまではよかった。だが――帰る場所がない子どもたちがいたのだ。


 まだ言葉すらおぼつかない年頃の子もいたが、孤児であるならどうしようもない。元のとおりに路地裏へ――とは、どう考えても莠には出来なかった。それが、いま莠とともにいる四人の幼子であり、人のいい村であったのが幸いして、村の子の恩人だからと、もう使わない、村はずれにあった古い集会所をもらいうけたのだ。

 そうして、なんやかんやとそこを家として過ごしているうちに、もはやすっかり村の一員として馴染んでしまった。


「で、あの赤ん坊は?」

 どう考えても、件の人攫い事件の時分には生まれていなかっただろう存在を問えば、あの子ねぇ、と莠は柔らかに苦笑した。

「いや、俺がここでこの子らといる経緯が経緯なんで、子どもを送り届けた近隣の村や街でも、俺が孤児と暮らしてるってのは知られてるんだよ。で、そしたら、街に用があっていった時に、渡されちゃってさ……」

 宿に泊まっていた女が消えていて、金と赤ん坊が残されていたと、宿の主人に縋られたのだ。どうしようと問われても、こちらもどうしようだと思ったが、褐色の肌に、いやな想像は働いた。


 この地域は、帝国の旧領地からは近くもないが、遠くもない。おまけに四年もの歳月が経てば、零落したかつての帝国の名家が、さすらいついていてもおかしくはなかった。

 だから、褐色の肌などまずいないこの地域で、その色の肌で生まれたということは、そうした落ちぶれた令嬢か、はたまたその血筋と縁をもった者かが、産み落としていったのかもしれないのだ。このあたりは温厚な人々が多く、帝国の隆盛時もつかず離れずの距離を保っていた国が多かったが、いまとなっては帝国貴族への反感を露にする者も目立つ。そこで褐色の肌であっては、己ひとりでも生きていきづらい。それゆえに、捨てて行かれた。


「そういうの――俺、どうも放っておけないんだよねぇ」

 軽やかに肩をすくめて笑いかける翡翠の瞳が、ふいに懐かしく、玄也の胸をついた。先ほど聞いたせいか、遠い日の子守歌を思い出して、玄也はそっと、気づかれぬほどの微笑を唇へ結ぶ。

「変わらないな……」

 そうやってまた彼は、伸ばせるだけ手を伸ばしてしまうのだろう。


「それに、当時のうちの一番のおちびがさ、あ、あの面倒みてる金髪の子なんだけど。あの子が、下が欲しかったのか、絶対、断固として、うちに連れて帰るって聞かなくてさぁ。おちびのくせに、あんま手のかかんない子なんだけど、あん時は、ほんと――根負けって、このことかぁ、みたいな……」

 遠い目で莠は言った。彼としては最初、これ以上子どもを増やしても手が回る気がせず、しかも産まれたばかりではさすがに男手ひとつでは無理だろうと、代わりの親探しをするつもりだったのだ。そこを、ごねにごねにごね抜かれ、莠は折れた。たかが三歳そこらの常軌を逸した猛攻に、腹を括らされたのだ。

「ほんっと、大変だった……。村のみなさま、本当にありがとうございましたって感じ。いやいまもなんだけど。最初の数か月は、もう、あれは……俺ひとりじゃ絶対無理だった。ほんと、無理……」

 記憶を辿るだけで消耗している声音は、よほどの苦労を経験したらしい。


「もうさぁ、いまから言っとくけど、玄也。ここにいることにしたからには、育児労働、家事全般から金稼ぎまで、もろもろキリキリ働けよ」

「まあ、別に、いまさらそれは構わないが、ずっと気になってることを聞いていいか?」

「なに?」

「あれ、なんだ?」

 玄也が指さしたのは、部屋の片隅の一角。棚と椅子で壁を築いて、子どもの侵入を防いだ先だ。そこには謎の鉢植えが並び、袋詰めの土がいくつか押し込まれていた。


「ああ、ちょっと……土とか、種とか、いじってて」

 なにを困ったのか、言い淀んで莠は目を泳がせた。怪訝にする玄也に気まずげな顔で逡巡し、ひとつ溜息をついて続ける。

「なんていうか、土地がやせてるところでも収穫が増えたら、生きていきやすい人が増えるだろ。まあ、そういうのもいいかなって。漠然と、そんなこと考えてた頃に、こうしてひとところに落ち着くことにもなってさ。――……だから、まぁ……実りのいい種とか、質のいい土とかをね、ちょっと作ってみようかな、と」

「……ずいぶん、手間なことをやろうとしてるな。で、出来たら、どうする気なんだ?」

「いやぁ、こう、近場からばらまいていけたらいいなぁ、なんて思ったりはしてね。まあ、喜ばれるよ」


 つまりはすでに、ばらまいているらしい。薄々そんな気はしていたが、売るという発想がありながら、そうしていないのだろう。食卓の椅子が足りないと探しに行く背が、どこか歯切れ悪く話すのは、自分本位を気取りたがる、その性分ゆえだ。

「お前……相変わらず、顧みられない方へいくな」

「そうでもないさ、言ったろ。喜ばれる」

「そうか……。なら、いいがな」

 ささやかに、しかし自慢げには引かれた笑みに、玄也は柔らかに吐息をついた。


「しかし、よくそんなものがつくれるな」

「まあ、要は、植物をよく見て、調べて、疑問を試して、解決していく。そうすると、見えてくる仕組みがある――そこがとっかかりだね。……そういうやり方や考え方はさ、覚えてるから、消えてない」

 なにもない左耳元を、莠は無造作に指先で弾いた。いまさらに思えば、月色の髪は初めて見る短さだ。それが、靡きもせずに玄也を振り返る。


「魔力がないとは――思ってた」

「ああ。俺、どうもあの風で、身体がただの人間になったみたいでさ。魔力も、傷も、必要とする薬も――もう、ないんだ。ただ、そうであったことは、覚えてる」

 哀切とも悲嘆とも違う、だが振り切ったとも異なる曖昧な笑みで、莠は翡翠の色を和らげた。

「なんていうか……あの人が与えた傷のひとつもない身体で、けれど為してきたことはすべて覚えているこの身で、まっさらに放り出されたんだ。やってきたことに後悔はないさ。そう決めたのは俺だから。ただ、そうだな――まだこの先も抱えていくのに、どうすればいいのか、分からなかった」


 ただ、すべてを抱いて終わらせるなんて、そんな都合よく思い描いた最期は、許されなかったということだ。ならば、すべてを背負って、抱えて、這いずってでも――また生きていくしかないではないか。

「そうしたら、思いつかなかったんだよ、俺には。これぐらいしか、やりたいことが。やれる、ことが――」

 淡い薄緑の眼差しが、片付け途中で興を奪われ、騒ぎだしている子どもたちに向かう。


 置き捨てられた子どもたちの手を取り、ともに過ごし、いつかの実りのために土をいじり、作物をつくって日々を重ねる。立ち止まり、昨日を振り向くことすらままならない、騒がしくて忙しい毎日に――……

「これでいいのか、と、思うこともあるけどね。ああ、ほら――もっと泥水すすっといた方がいいんじゃなぁい、みたいな」

「――……いいんじゃないか」

 誤魔化すように笑いながら投げられた言の葉の端。消しきれずに過った翳りに、聞かせるでもなく、深い声が囁いた。

「明日の命を、つくってる」


 虚を突かれたように翡翠の瞳が、玄也を見つめて瞠られる。

 かの人が、命の果てをと、まだ見ぬものに焦がれてそれをつくり、費やしたのとは違い。彼は、子どもたちの歩みゆく先を、生きる糧を多く結べる遠くはない日々を――いとおしみながら、つくっている。

「前よりは、お前がなにをしたいのか、分かりやすい」


 散らかりきった部屋。明るく満ちる騒々しさと、それを生む小さく温かなぬくもりたち。間違えたままの子守歌に、拙く束ねて生けられた雑草の花々――。いま、この狭い家にあるすべてを見渡して、もう一度、今度は莠の目をとらえて、玄也は言った。こっくりとした夜の黒が和らぐ。

「いいんじゃないか」

「――……まあ、君が言うなら、そうなのかもね……」

 薄緑の双眸はしばし固まったあと、困った音色で、くすぐったそうに苦笑した。

 それにどうせもう、手放せといわれても、頷けないところまで来ているのだ。良くても悪くても、もう、仕方がないのだろう。――ただ、抱きしめていくだけだ。

「欲深さは変わらずだ」

 笑って一息つき、見つけた椅子を片手に、莠は食卓へと戻ってそれを据えた。ご飯だご飯、と寄ってきた子どもらに、もう少し片付けとけよ、と小言をもらしつつ、まあ冷める前に食べようと、椅子に座らせていく。


 玄也も、近寄ってきた金糸の少女に、無言で眼前で腕を広げられ、椅子までの抱っこを所望された。それに同じ無言で応えて、彼女を抱え上げ、椅子へと下ろしてやる。

 鳥を拾い上げた時から思っていたが、どうやらここの子どもたちは、目の前に伸べられる手を、疑わずに済む場所を与えられているらしい。雛鳥にも同じ食事を食べさせようとする少年を押さえ込む、家の主に目を向ける。すると、そういや、と唇を引き上げられた。座るよう促しながら、自身も席につき、興味本位まるだしで尋ねる。


「玄也さ、結局どうやってここに辿り着いたの? ちょっとどんな手段使ったのか怖いんだけどさ、知りたくもあるっていうか? 食事中の話の種に聞かせてよ」

「そうだな……」

 いただきますの声がけとともに、さっそく手を滑らせて皿から机へ盛大に転がり出たパンを、嘆く小さな掌に戻してやりつつ、淡々と玄也は言う。

「まあ、ある程度、噂を運ぶ人員を操れても、あてもなく人探しというのも時間がかかるし、骨が折れる。効率もいまひとつだ。だから――」

「だから?」

「風の便りに、少しばかり力を借りた」


「え……?」

 動きを止めた莠の手から、卓上へパンが転がり落ちる。はぐ兄落ちたよ、の声も、さすがにいまは拾っていられないらしい。表情が、笑んだまま引きつっている。

「ちょ、待って。嘘でしょ……?」

「俺がここに辿り着いたと、風の噂にでも聞いたなら、また誰か来るかもしれないな」

「ちょ、ま、え……?」

「憂さ晴らしに来たと言っただろう?」

 優しい夜色の瞳は、嫌味なほどゆるやかに、笑みをたたえた。

「覚悟を決めておけ」

 言葉にならない莠の絶叫が、平穏な食卓に響き渡った。


 家の外を、春を腕いっぱいに含んだ風が、微笑みをたずさえて吹き過ぎていく。すでに柔らかにあたりを包みこんだ、あたたかな晩春の夜の中、月が美しく輝き、空高く昇りかけていた。

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