第五章 風の姫ー20
ひどく懐かしく、穏やかな風に頭をなでられた心地がした。柔らかく優しい眼差しに、もう大丈夫と見送られた気がした。それにほんのり笑みを誘われて、ピユラは口端をゆるめる。
ぼんやりと瞼を持ち上げると、どうやら彼女はふわふわとしたベッドの上に横になっていたようだ。そば近くの窓から差し込む陽射しは、淡く金色の滲んだ朝焼けの色。邸の作りを見るに、砂漠の建物の中のようだった。
そこまで、まだはっきりとしない意識のままに見回して、ふと、視線を感じてピユラは寝台脇を見やった。どこか涙に蕩けたような、金の隻眼がぶつかる。
「よぉ、やぁっと、起きたか」
瞬くピユラに、そっと囁いて蒼珠は笑った。その気配に、もぞりと蒼珠の後ろで影が動いた。絹織物が落ちる軽やかな音とともに、長椅子で寝ていたらしい人物が、立ち上がって駆け寄ってくる。
「ピユラちゃん! 目が覚めたの? 良かった~」
栗色の髪が、抱きつかれたはずみでピユラの鼻先をくすぐった。もうその姿に獣の耳も尾もなく、胸をつかれた傷は大丈夫なのか、声も張りがあり、生き生きとしている。
「ユリア、落ち着け。離れろ。障るところがあったらどうする」
すりすりとピユラに頬を寄せるユリアの肩を、頭を抱えながら透夜が引いた。ユリアが横になっていた長椅子の真向かいにも椅子がある。彼はそこに腰掛けて仮眠をとっていたようだ。一見したところ、傷も身体の内の損傷もなく、動きに不自由もないように見える。
寝台脇に控えていた蒼珠はもちろん、ユリアも透夜も、同じ部屋でピユラの目覚めを待っていてくれていたらしい。不自然にベッド近くに寄せられた椅子の位置からも、彼らの態度からも、早朝にうち揃っているところからも、端々からそれは分かり過ぎるほどに理解できた。
それがなんだか大仰なようにも、こそばゆくも思えて、ピユラはもぞもぞと、かけられていた織物を口元まで引き寄せた。
「みなで待っているとは、ありがたいが、その……いささか心配が過ぎるのではないか?」
「あのなぁ……。心配があったのももちろんだが――そばで待ちたいもんだろ、誰だって」
がしがしと無遠慮に優しく蒼珠の手が頭をなでてくる。それを素振りばかり振り払うピユラに、そうそう、とベッド脇に腰かけたユリアから声が飛んだ。
「目が覚めた瞬間に、ピユラちゃんのそばにいたかったの。それに、誰がどう考えても今回いちばんの功労者だもの。いまを逃すと隣を取られちゃいそう」
またぎゅっと腕を回されて、ふわりと柔らかい胸の内に抱き込まれる。相変わらずユリアからはいい香りがして、取り戻せたその落ち着く匂いに素直に鼻をよせながら、ピユラは首を傾げた。
「功労者? 取られる?」
「ヤサメが消えた後のこと、まるで覚えてないのか?」
「いや、覚えてはおるぞ。ディヴァインに頼まれて、その力を借りて癒しの魔法を使ったところまでは記憶にある。そのあとは――まあ、ちと、曖昧じゃが……」
透夜の言葉に答えながら、そういえば、とピユラは思い巡らせた。後頭部をなんとはなしにさする。寝ている間に、誰かにここをぽこりとされた気がするのだが、蒼珠だったのだろうか。
(むぅ……金色の目を見たような……。いや、海の色、じゃったか……?)
記憶の残り香を辿ろうにも、朦朧と霞の向こうに溶けてしまう。だがひとまず、己が移動にも気づかず、随分と眠っていたのは確かなようだ。
(――まだまだ未熟ということじゃのぅ……)
真名を得てなお、魔法の負荷に倒れてしまうとは情けない。そう、ピユラは小さく溜息をこぼした。だが、それをかき消すように――
「まだまだ未熟だなぁ……とか、思ってんだろ」
はかったように蒼珠が言った。やれやれと、いやに大仰に肩をすくめられる。
「その謙虚さはいいけどな……。まあ、そうなると本当に、自分がなにやったか分かってねぇな?」
「だからなんじゃ? もったいぶらずに話すがよい」
図星を誤魔化して口を尖らせるピユラを、はいはいと笑って流し、蒼珠は口を開いた。
いわく、ピユラがディヴァインの力によって放った、完成された癒しの魔法。それは、絶大な力を持って、世界を駆け抜けたらしい。
蒼珠たちも砂漠に戻ってミザサに聞いて知ったそうなのだが、帝国へと魔力を収集する術式が動き出し、力を発揮している間は、大変な騒ぎだったのだという。魔力の集まる地として直接帝国に術式の核を施されたザクトの跡地のような場所はもちろん、そこから離れた各地でも、大地は揺れてひび割れ、夜空には不気味な赤い光がたなびき流れて、苦痛に倒れる者が続出したとのことだった。この世の終わりの様相だったと、ミザサは語ったらしい。
「そこへ、風が吹いたんだよ。滅びかけた世界に吹く、薄紅の花を抱いた春風――それが、あっという間にすべてを癒して、元に戻していった。そんな感じだったらしいぜ?」
砂漠以外の地も同じような状況だったことは想像に難くない。だからまさしく、ピユラが放った風羅の風は、世界を救ったのだ。
ぱちりとピユラは大きな瞳を瞬かせた。少し、頭が理解に追いつかない。
「私たちの傷も、ピユラちゃんの風のおかげですぐに治ったしね」
「ああ。傷どころか、俺の場合は血に残っていた紫陽の術式も、きれいさっぱり消えたようだ」
胸元にそっと指先をやり微笑みかけるユリアに、透夜も頷いた。それに蒼珠が声を重ねる。
「親父もおかげで助かったって、感謝しきりだったしな。起きたら礼を伝えておいてくれって言われたぜ」
ハーシュは、倒れ込んだピユラに呼吸がないことに気づき青褪めている蒼珠たちのところへ、大丈夫大丈夫と、軽い調子でひょっこり顔を見せたという。どこが大丈夫なのかと蒼珠が食ってかかろうとした、ちょうどその時、ピユラに息が戻り、行き場のない拳を持て余す蒼珠に笑いながら、あとは疲れて寝てるだけ、休ませろ、と告げたそうだ。
彼らが帝国へ渡ったミザサの術式は、中庭で散々暴れて使い物にならなくしたとのことだったので、お詫びとしてハーシュが作った転移の術式で、蒼珠たちは眠るピユラとともに砂漠まで戻ったのだ。
「で、戻ったとたんに、だ。大変な騒ぎで出迎えられてな」
帝国による襲撃事件の際に、ピユラがカイルの力を借りて癒しの魔法を使っていたのが、ある意味良くなかった。民たちの多くが、癒しの風はピユラによるものだと察してしまえたのだ。そのため、感謝を、一目お顔を、との大歓迎で、それをテサウたちに捌いてもらって、ようやくなんとか、いまこの邸で静かに身を落ち着けているのだという。
「っつうことで、いま外に不用意に出ると、お前は女神様扱いだ」
「な……」
「俺のおすすめは、別れの挨拶は、ミザサ殿やテサウ殿、カイルやルイーゼくらいにとどめておいて、ひっそりと、とっととここを去る、だな」
絶句するピユラにそう提案する蒼珠に、ユリアも頬に手をやり、ため息交じりに言う。
「そうしないと、ふた月、み月は、ピユラちゃん、あちこちに引っ張られて、こうしてゆっくり過ごせなさそう……」
「とりあえず、兄さんたちがスティルに戻る手配をしてくれている。それに同道しよう」
「別にここから旅立ったって、永劫来られなくなるわけじゃねぇんだ。なんなら、興奮おさまったぐらいで、また顔出そうぜ」
「う、うむ。それがよい。そうしよう!」
ピユラは慌てて力強く、首を縦にいくども振った。砂漠の民には世話になったが、女神扱いをされては困る。あれは、それこそ女神であったディヴァインの力を借りたからこそのものだ。それでもてはやされてしまうのは、なにかが違う気がした。
「しかし――すべてがすべて私の力ではない、が……」
ぽつりと呟いて、ピユラは己の手へ視線を落とした。二年前、あの吹雪の中で、すべてを取りこぼして落として、守れなかった手。だからこそ、復讐に染めようとした手。憧れた父には遠く及ばぬ手――そう、思っていたのだが――
「少しでも助けになったのなら……私に流れる風羅の風が、この世を、人を、民を、救えたというのなら――……」
いちばん守りたかったものを守りたい時には、とうてい力及ばなかった。そのはがゆさと虚しさは消えないのだろう。けれど、己が為せたことを、いまさら遅いと卑屈に思うことも、いまのピユラにはなかった。
「私は、やったのだな……」
ぐっとピユラは細く小さな手を確かに握りしめた。
思えば、目覚めに感じた頭をなでた風は、父の掌のようだった。褒められた、ようだった。
守れたことを誇り思う。いつかこの誇りと愛しさを抱き締めて、歩みゆく先。時が尽きた果てに、風の向こう、海の彼方で出会えた時に――
「父上に、胸を張って、飛び込んでいけるな」
それこそ淡い花のつぼみが、春に誘われ可憐に鮮やかにほころび開くように、ピユラは破顔した。その嬉しそうな咲きこぼれる花の笑みに、蒼珠はかすか苦笑を口端に宿す。
「――まあ、そうだけど、いまはそんなこと言ってくれるなよ」
甘い金色が、だいぶ明るくなってきた陽射しにけぶるように溶けた。
「大丈夫と言われてても、本当にお前が起きるまで、心配だったんだぜ? 俺たち」
ぎゅっとピユラの手を取った大きな掌。それに、ふとピユラは唇を柔らかにゆるめた。
「安心しろ」
掌を握り返し、彼女を見つめる隻眼をそっと見返す。
「私がそうやすやすと、愛しい者を置いていくか、ばかもの」
夜明けの瞳は、晴れやかに笑いかけた。
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