第五章 風の姫ー17


 ああやはりこれは間違いなく悲鳴なのだ。嘆きの音色なのだ。

 鼓膜の奥の奥まで貫く叫び声に、ピユラは唇を噛んだ。かつて己もこんな悲痛な声で、仇敵と思っていた相手へ挑んでいたのだろうか。

 古にサシュカへ望まぬ爪を振り下ろしていた時と似ている。拒みながら、〈呪珠〉に抗いきれずに、ラクシュミーの影はピユラたちへと際限なく魔法を繰り出した。その秘めている魔力に比して、威力がなんとかピユラたちでも防ぎきれる程度なのは、ラクシュミーなりの抵抗か、もしくは器を傷つけまいという八雨の意向なのかもしれない。


 八雨は、攻撃としての魔法の手段は、剣に込められた術式しかないらしい。ゆえにラクシュミーの魔法が猛威を振るっているのだが、それを辛うじてピユラと蒼珠で防ぎ、透夜とユリアへ八雨へと攻める道を作り上げても、拮抗する剣戟に付け入る隙がなかなか掴めない。

 八雨は倒せない。殺せない。だが、〈呪珠〉からラクシュミーを解放することは出来るのではと思うのだが、その右掌の赤い石が、砕くにはあまりに遠い。


(愛しさを、守りたいのじゃ……)

 纏う風で築き上げた壁の向こう、光の刃を叩き込むラクシュミーを――ディヴァインを、ピユラは苦しく見つめる。

 叶うならば、かきたてられる愛しさのままに、愛する者への想いをただ抱きしめていたいだろう。その大切ないとおしさを、憎しみの糧にするだけの日々は、あまりに辛い。愛しさを辿りたいと願いながら、その身を失い、魔力の塊に費やしてまで憎み続けた仇が、よりにもよって、なおも憎しみに身を焼き切れという。あんまりだ。

 だから、終わりをあげたいと願う。

(そなたに終わりが迎えられるなら、どうかそれは――)

 悲嘆と怨嗟の苦痛を越えた先――果てない愛しさにつながるものであるように――。


 風の守りが、光の斬撃に食い破られる。まずいと次の呪文を唇に滑らせ、風を纏うもままならないうちに、ラクシュミーが眼前、すぐそばまで迫ってきた。唸りをあげて、鋭い爪持つ腕が伸びる。魔力のうねりに、頭が揺らぐほど激しく空気が震えるのを感じた。

 風の網目を破り、くぐり、ラクシュミーの手がピユラの腕に掴みかかる。喉笛に噛みつかんばかりに顔が迫り、青褪めた瞬間。

(えっ……?)

 意味を結ばぬはずの叫びの中に、確かに聞こえた言の葉に、ピユラは目を見開いた。と、同時に、横殴りに雷霆の剣が怒涛の勢いでラクシュミーに叩き込まれ、その光の身体を砕き、散らし、弾き飛ばす。


 蒼珠がピユラ以上に青い顔で、ラクシュミーの腕の中から放り出されたピユラを抱きとめた。ピユラの名を呼ばわりながら、駆けつけたユリアと透夜がその無事を確かめてほっと息をつく。 

 だが、その心配をなだめるより先に、ピユラは茫然と囁いた。

「風、と言った……」

「風?」

 訝しげに首を傾ぐ蒼珠へ、ピユラは深く頷く。出方を見物しているのか、八雨の元へと引き戻されたラクシュミーへ、真っ直ぐにその紫の視線を注ぐ。

「いま接近された時、確かに聞こえた。風、と言っていた」


「――海の向こう、風が吹いたら……」

 はっと何かに気づいてユリアもラクシュミーを振り返り、遠い記憶を辿るように囁いた。ふわりと、ラクシュミーと揃いの形の光の耳が揺れ動く。

「愛しいあなたに、また会えるかしら……」

「それは――消え果てる間際、最期のディヴァインの記憶か」

「そう。会いたいと――サシュカにもう一度と願った、最期の時。ディヴァインが思い出していたこと」

 透夜に頷き、ユリアは悲しげにその眉を曇らせる。恋しさの先に、愛しい友をこそ望んだのに、いま彼女は報復の念ゆえに憎い相手を呪う思いでここにいる。


「――会いたい者は、奴ではない。在りたい場所は、あそこではない。辿り着きたい先は――ここではない。風の向こう、海の果て、愛しい友の隣……そういうことなのかの」

 海の果てへ旅立たされた友を思った。そこから吹き戻る風に、再会を夢見た。神の息吹には程遠い、ピユラの操る風にすら会いたいと想いを馳せずにはいられないのに、八雨への憎しみがそれをなお覆って、ディヴァインをここに引き留めさせるのだ。

「愛しさを、憎しみに繋ぐのがどれほど苦しいのかは……知っておる」

 大きな紫の瞳が柔らかな光を宿したまま、一同を見つめ上げた。

「助けたい。サシュカの元へ、導きたい」

 ともすれば泣きそうに、けれどそれ以上に眩い決意に、蒼珠はみなまで答えるより先に、ぐしゃりと彼女の頭をなでた。


「あのね、少し、思いついたことがあるの」

 ふふっと笑みをこぼして、ユリアがそっと己の胸元へ手をやる。

「ここには〈呪珠〉が埋められてた。いま、その本体はディヴァインの方にいっちゃってるけど、まだ力の残り香みたいなものがあるの。私とディヴァインは、まだ、繋がってるから」

 うっすらと透けた同じ影形の光の尾と耳が、応えるようにふわふわと揺れる。

「八雨の手の〈呪珠〉を砕くのは、ちょっと難しい。いまもなかなか届かない。けど、ここなら、すぐ、届く」

 さざめく湖面の淡い水色が、心を決めきって言った。

「私の胸の〈呪珠〉の欠片を断ち切ったら、一瞬だとしても、繋がってるディヴァインの方の〈呪珠〉の力も切れるかもしれない。そうしたら、その隙に、ピユラちゃんの風魔法でディヴァインを八雨から離して、こっちに引き寄せられないかな?」

 栗色のくせっ毛が微笑む白い頬をくすぐるように、傾ぐ首の動きに合わせて細い肩を滑り降りた。

「〈呪珠〉の力を切って、こっちに引き寄せられたら、もう一度、私の中に戻ってもらうことも出来ると思うの。だって、ディヴァインの声が聞こえたってことは、こっちの声も届くってことだと思うから」


「しかし、とはいえ……!」

 ピユラは返答に窮した。可能性はないとは言えない。実際にラクシュミーと繋がって、彼女を感じているユリアには、勝算を覚える道筋なのかもしれない。けれど、あまりに不確かで、危険が過ぎる。ピユラたちが〈呪珠〉に抗する術として持ってきたのは、解除の魔法や刻めば済む術式ではない。突き立てることで威力を発揮する、サシュカの刃なのだ。

 つまりそれは、ユリアの胸へと剣を突き立てるということだ。

 それに、〈呪珠〉を作ったのであろう紫陽は、透夜へと、昔の方法に対策はしたと言っていた。せっかく振るっても、効力があるとは限らない。命を懸けるにはあまりに無謀と思えても、仕方がない。だが――


「ユリア。お前の胸の左寄り……でいいんだな?」

 透夜が剣を収め、懐から短刀を取り出した。精緻な装飾と紫の石が飾られた白銀の柄。革の鞘をはらりと落とせば、細い銀色の両刃の刀身が煌めく。砂漠の民より託された、サシュカの刃だ。

「うん。そこに感じる。嫌な力が蟠ってる」

「分かった。必ず過たず、そこだけ貫く」

 目を瞠ったピユラに透夜は口端を不敵に引き上げた。

「先にこの部屋の術式を無効化した時も、すぐに打ち破られはしたが、一時的には効いた。対策はしていても、『反撃の発動までどうしても多少間がある』――そう、奴自身も言っていたろう。初めから効かないわけではないはずだ。一瞬とはいえ、機会はあるに違いない」

「私と透夜なら大丈夫」

 透夜の腕を取り、手を繋ぎ、彼を見上げてにこりと笑って、ユリアは変わらぬほころぶ笑顔のままピユラを見た。

「だから、ピユラちゃんも、お願いね」

「出来たとして隙は一瞬だ。しくじるなよ」

 もう、ふたりの決意は翻らないのだろう。賭けると決めた。そして、それはけっして、捨て身の献身ではないのだ。繋がれたふたりの手は、語らずとも、ともに帰るべき場所に帰るのだとピユラに告げていた。


「……心得た」

 ピユラは深い笑みをこぼして、柔らかに頷いた。

「蒼珠、分かっておるな。この間、私たちはなにもできぬ。ゆえに、」

「もちろん、ディヴァインの攻撃も、八雨の攻撃も、俺ひとりで防ぎきってみせますよ、我が主君」

 ことさらおどけて、蒼珠はピユラへ軽く頭を垂れた。だがその隻眼に宿る輝きは、真摯に燃える火花を放つ。

「――いくらでも、時間稼ぎの壁になってやるよ、安心しろ、半分は魔獣だ。絶対に、倒れねぇ」

「ああ、心強い」

 揺るぎない忠節をもって誓う蒼珠へ、ふわりと笑いかけて、ピユラはそっと八雨を睨みやった。


 己を射貫く眼差しに、にこにこと楽しげに八雨が口を開く。

「相談はもういいのかな? 今度はどんな手で来る? 君たちが挑んでくれればくれるほど、ラクシュミーも嬉しいようだ」

 唸るラクシュミーの顎を指先でくすぐり、形のいい唇は笑みに崩れた。

「期待と喜びが高まれば高まるほど、踏み躙り甲斐があるね」

 溶けるように悦楽が流れる、夕闇の底の色。それの放つ恍惚とした悪意を跳ねのけ、ピユラは呪文を叫んだ。

 誘って吹いた風のうねりにラクシュミーが咆え、光の矢じりが空から注ぐ。それを待っていたとばかりに飛び出た蒼珠の雷撃がことごとく撃ち落として閃いた。

 と、ともに。青白く爆ぜる光を受けて、ユリアを抱き寄せた透夜が、真っ直ぐにその胸へとサシュカの刃を振り下ろした。

 服を切り裂き、皮膚を突き破り、赤く血が散った瞬間。その飛び散る真紅の鮮やかささえ奪って、白銀の光がユリアの胸元から迸り、広間を包んで駆け抜けた。


 甲高く耳をつんざく高音の悲鳴とともに、ラクシュミーがぐらりと支えを失ったように頽れる。そこを抱きとめるように優しい風が吹き荒れた。

「なるほど。そういう趣向か。一時のために、随分な無茶を選んだらしい」

 ラクシュミーを抱いて引き寄せる風に、八雨が剣を振り抜いた。輝きの軌跡を描く剣の術式から斬撃が生まれ、空を切り裂き迫る。それを蒼珠の雷が防ぎきり、爪が弾き、蹴散らした。

「ディヴァイン!」

 叫ぶピユラの声に、ぴくりと抱かれた風の渦の中、光の影が動いた。

「こちらに戻れ!」

 吹き荒ぶ風になびく長い黒髪。抱きとめようと腕を広げ、ディヴァインを見上げる――大きな紫の瞳。

 光の腕が恋うようにピユラへと伸びた。


 それを阻んで、胸からディヴァインの体中に這いまわった赤い糸が戒める。

「〈呪珠〉の本体はラクシュミーのうちだ。この程度で断ち切れはしないよ」

 笑み結ぶ八雨の右掌で、ほの暗く赤い光が揺らめく。ぐいっと、風の威力に逆らって、纏わる糸ごとディヴァインの身体が八雨へとまた引かれた。

 だが、それでも、かすかでも力は薄れているはずなのだと、ピユラは懸命に伸びたディヴァインの腕へ、同じように腕を伸ばした。

 指先が掠る。届かなくなりかける――その一手前に、ピユラの手は確かにディヴァインを掴み抱き寄せた。

「戻れ! ディヴァイン!」

 抱きしめて、奪われるものかと、無我夢中でピユラは叫んだ。それに――

『……サシュカ……?』

 悲鳴ではない声が、聞こえた。するりとディヴァインの腕が、ピユラの背に回り、縋るように身を寄せる。

『サシュカ……!』

 確かな音になった名前は、震える響きとともに広間中に染み渡り、呼応するようにあたりに眩い光が放たれた。


 視界がすべて、白色の光の奔流に呑まれて、影も形もなく輝きの中に消し飛ばされる。上も下も、右も左も、己が立っているのか、倒れているのかすらわからない。

 そんな中、確かに己を抱きしめる腕と、寄せられる身の感覚だけは鮮明で、ピユラはなだめるように抱き寄せたままのその背をさすった。

「――私は、そなたのサシュカではない。だが、そなたをサシュカの元へ導きたいと、願う」

『サシュカの元……へ?』

 視界は光の中に失われ、なにも見えない。けれど腕の中から返ってきた鈴の鳴るような声音に、ピユラは頷いた。

「そうじゃ。愛しさの先に、八雨への憎しみではなく、サシュカへの想いを取り戻したいのじゃろう? そなたが辿り着きたい先は、八雨の望むままに奴を憎み、愛しさを燃やす――そんな幻獣の姿ではないはずだ」

 胸が張り裂けるほどに恋い慕う、大切な友の隣のはずだ。そこは、いまのままでは、辿り着けない。


「憎しみを解くのは……難しい。出来ぬかもしれぬ。けれど、それでも、愛しいという気持ちは、ちゃんと辿れるのだ。どうしようもない、憎しみや恨みや悲しさを越えて――これは、そなたがともにいたユリアの言葉じゃ。そなたが、ユリアに教えたことじゃ」

 母を失ったユリアに、その悲しみに、優しい日々のいとおしさを再び灯したのは、ディヴァインのサシュカとの夢だった。だから間違いなく、息づいているのだ。ずっと残っているのだ。ディヴァインの中で、憎しみに覆われながらもなお、消えずに、溢れるばかりの愛しさだけが満ちた時が――。


「八雨に囚われたままでは、サシュカを辿る道行きも、踏み出しづらかろう?」

 だからどうか、いとおしさを憎しみから解いてあげたい。サシュカの隣へ、連れ出してあげたかった。

『……でも、たくさん憎んだ。たくさん殺した』

 ふいに、肩口に額が押し当てられたような感覚がした。しゅんと沈んだ音色が、ピユラの鼓膜を直に震わすように響く。

『恨んだのは、ヤサメだけじゃない……。サシュカの大事にしてた街も、民も、私が、なくした』

 それは急に叱責を怖れだした、幼子のようだった。心もとなげに、不安そうに、ピユラの背に回されているらしい腕が、ぎゅっと服を握りしめる。

『大切だと知ってた。でも、どうしても、ヤサメに復讐したかった。だから、壊した』

 小さく小さく、告白する。その恐れは、そうささやかに口にする以上でも以下でもない、八雨への怨嗟に比べればかすかな棘なのだろう。サシュカを愛しむがゆえに生まれる後悔であって、己が彼方に追いやった者たちへ、直接向けているわけではない。


 それがよいのか悪いのか、ピユラには測りかねた。だが、ただディヴァインが、小さくともその棘をずっと抱えていたのだけは伝わった。八雨への復讐の底で、もうひとつ。ずっと持ち続けたその小さい後悔ゆえに、いまなお愛しい友へ会う道ゆきを踏み惑っていることだけは理解できた。

(ならばそれは、そなたが思っている以上に、苦しい棘かもしれぬのう……)

 素直に、そう感じた。あれほど愛しむ相手に、手放しで会いに行きたいと飛び出せないほどならば、奪ったという罪過は、小さくとも、十分な苦痛をディヴァインに与え続けたのだろう。


『会えたとしても、サシュカ、怒るかもしれない。それに、いまも、だ。私のいまの形、この世の魔力と命を吸ってる。また、全部ぼろぼろにした。ぼろぼろに……させられた。全部、全部――ヤサメのせいだ……』

 ふと、沈んだ声音に暗い怒りが宿った。懊悩と憤りを綯交ぜて、苦しげに唸る。

またそうして、すべてを憎しみの糧に変えてしまう姿が、どこか昔日の自身と重なって、ふと柔らかな苦笑がピユラからこぼれた。

(永遠に、憎み続けられてしまう。この果てない憎悪は――……)

 覚悟を決めて、振り払った方がいいのだ。


「……例え、怒ったとして、それでそなたを嫌うような相手なのかの?」

 ぴくりとピユラの腕の中の身体が跳ねた気がした。

「叱責を怖れるのではなく、嫌悪を怖れるなら、心配はいるまい。そなたが愛したと同じように、サシュカもそなたを愛していた。それは間違いなかろう。私はそなたに記憶を見せてもらったのだから」

 たおやかでいながら強く美しい瞳の人だった。誇り高く、務めに誠実であろうとしていた。だが、その高潔さゆえにディヴァインを怒ったとして、嫌うなどということが、彼女に限ってどうしてあろうか。あのディヴァインを魅せた輝く夜明けの目は、深い慈しみと愛おしさを、ディヴァイン以上に、いつも彼女へ傾けていたのだから。

「再びまみえ、存分に怒られ、存分にしょぼくれ、そのあと、存分に共にいればよい」

 ピユラは柔らかに口元をほころばせた。


「ディヴァイン」

 呼びかけて、その背をまた優しくなでてやる。復讐と憎悪の道に惑った時、誰かが与えてくれる確かな安らぎとぬくもりが、どれほど嬉しいものか、教えてもらっていたから――。それをいま、自分が少しでもディヴァインに分け与えられていればいいと願う。

「簡単な話だ。そなたが心を残したい相手は、ヤサメか? サシュカか?」

『そんなの決まって、』

「ならば、そちらへ残そう」

 勢い込んだ答えを食んで、ピユラは笑い声をたてた。茫然としたような腕の中の存在に、ゆっくりと語りかける。

「残せる。大丈夫だ。悔恨を抱きしめて、憎しみの果てを越えて――愛おしかった者にもう一度、笑って大好きを告げられる。そんな自分に戻ることは、出来る」

 しっかりと噛み締めて、ピユラは紡いだ。そう、出来るのだ。叶えようとすれば、きっと、叶うのだ。

 愛しさを血に染めて、憎しみの業火にくべずに、守っていけるのだ――。


『……――懐かしい、目だ』

 しばし、なにもない静寂が満ちたあと、光に染まる視界の中、ピユラの頬に手の感触がした。ディヴァインには、この眩さの中でも見えているのだろう。遠い日の友に似た――愛しい夜明け色の紫が。

『でも……お前は、風の匂いが、するんだな』

 すんと鼻を寄せられたような気がした。どこか、涙の滲んだような声だった。

『あの時、会いたかった』

「……すまない」

『いい。詮ないことを言った。……そうだな、でも――いまでも、間に合うことも、あるな』

 思わず見えない相手へ首を傾げたピユラへ、くすくすと笑い声がした。


『全部壊したまま、八雨にやらされたままは、気に入らない』

 きっぱりと言い切る声は、急になにかの楔が抜け落ちたように快活に弾んだ。

『それにきっと、こうした方が、サシュカも喜ぶ』

 蕩けるように甘い声音で、友の名を呼ぶ。そこに溢れる愛おしさに、甲高い悲鳴にあった苦痛はなく、我がことのようにほっと、ピユラは胸をなでおろした。

『風の娘。――力を貸してくれないか?』

 耳元で音が動き、そっと乞われて、訳も分からぬままピユラは頷いた。瞬間。光が砕けた。


 あたりが一気に判然とする。戻った視界に見渡してみれば、ピユラの身体は、風の力もないのに中空に浮いていた。慌てて周囲を見回した蒼珠が彼女を仰ぎ、目を見開く。同じように眦を裂きピユラを見上げる透夜の腕の中にはユリアがいて、胸が赤く染まって痛ましくはあるが、肩は荒くとも呼吸に上下し、ピユラを見てなにか嬉しそうに頬をほころばせた。

 それもそのはずだろう。ようやくピユラが眼前を見てみれば、光の影だったディヴァインが、薄く、透けるようではありながら、夢で見たのと同じ姿形になっていた。

 白銀の長い髪、氷雪にも似た白い肌。儚く、あどけない少女の容貌に――金色に輝く、獣の瞳。


「ラクシュミー!」

 喜色をたたえて、ディヴァインの背後から八雨がその背を呼んだ。右掌の〈呪珠〉に力を込めたのか、赤い糸が踊る。それはディヴァインの姿へ絡みつき、包み込んだが――ふっと、途切れた。

 驚きに満ちたのはピユラだけではなったようだ。ディヴァインの後ろをのぞき見下ろせば、八雨が初めて笑み以外の表情を浮かべていた。

 驚愕のまま落とされた夕闇の視線の先。そこで、〈呪珠〉のある右手指先が、ほろほろと崩れ出している。

「まさか……!」

 聞いたことのない引きつる声音で、八雨が叫んだ。


『……ヤサメ……この愛しさで、お前を憎むのは、もう――やめてやる』

 淡々と静かに、背を向けたままディヴァインが告げた。

 瞬間、魔法も効かず、斬られても戻る彼の身体がひび割れて砕けた。復讐の呪いがほどけだす。常に動じぬ笑みを携えていた八雨から、当惑と動揺の悲鳴が上がった。

「駄目だ! ラクシュミー! 君は、僕を憎み続けるんだろう! またあの目で、僕を見てくれるんだろう!」

 縋るように叫ぶ。その声に、ディヴァインは振り向きもしない。

「駄目だ! 君のあの目を! あの美しい憎悪の瞳をもう一度! もう一度、僕に見せるんだ! ラクシュミー!」

 夕闇の紫に絶望が滲みだす。だが、ディヴァインはぴくりとも動かない。彼女を振り向かせようにも、〈呪珠〉が埋め込まれていた掌は、もう跡形もない。両腕も消え果て、どこかに落ちているはずの〈呪珠〉を拾い上げることも叶わない。足も崩れ、下半身が砕けて失せ、床に転がった八雨は、身悶えしながらなおもディヴァインの背を見上げた。

「ラクシュミー! あの憎しみで、僕を――見てくれ!」

 悲痛な絶叫を残して、八雨の身体は跡形もなく、動き出した星霜の彼方へと消え去った。


 彼を一向だにしなかった金色の眼差しが、ふっと張り詰めていた息をひとつつき、柔らかにピユラへと注がれる。

『風の娘――。私のために、あいつがこの世から集めた魔力を、戻す。でも、戻すだけじゃ、壊れたもの、壊れたままだ。だから、お前の力と共に戻してほしい』

 細い指先がピユラの手を壊れ物のように拾い上げ、包み込んだ。眩い金色の双眸が、穏やかに微笑む。

『海の向こう、吹き寄せる命を戻す風――それに似た、お前の癒しの風。それに私の魔力を合わせたなら、壊れたもの、元に戻せるから』

 花のように笑みを開かせた薄紅の唇が、照れたように囁く。

『きっと、それを、私のサシュカなら、選ぶから』

「……分かった。力になろう、ディヴァイン」

『ありがとう……風の娘』

 快く笑って見上げたピユラに、白銀の魔獣は嬉しそうに破顔し、その身を抱きしめた。ぬくもりを分け合うように、その透けていた身体がゆるゆると光の粒に変わっていき、やがて真白に揺蕩う輝きの波となって、ピユラを包み込む。

 その光とともに注がれる心地よい魔力の流れに、ピユラはそっと身を任せた。

 他の誰かから与えられる魔力を行使し、魔法を使ったことはある。それに、いまは――。


 ――『春告げの風とともに舞い飛び踊る雪の花――……〈飛花〉。それが、君の名だ、風の姫』――。


(そなたが告げた、名があったな……)

 いとおしさを隠し通していた若葉の瞳に、ピユラは苦笑した。そっと歌うように口を開く。

「――……汝、風をまといし者たち。我が友なる風の精霊。慈しみて深き傷を癒し、苦痛を取り去りたまえ。我が言の葉が結ぶは古の約束――乞い、願う。風羅が王女――〈飛花〉の名の元に!」


 ピユラを包んで抱きしめて、若葉色の光が溢れかえり、暖かな風が巻き起こった。そこに、ふわりと花びらのようなものが舞う。薄紅の柔らかな花弁。幾重も幾重も零れ落ちるように――癒しの風に戯れて、踊るように飛んでいく。

 淡い紅色の花びらとともに、優しい風が、空を涼やかに駆けて吹き抜けていった。

(ディヴァイン……)

 その身から風の勢いとともに溶けて消えていく魔力に、ピユラは微笑む。

(どうか、そなたが、サシュカと巡り会えるよう……)

 ふわりと瞼が落ちるのを感じて、ピユラは笑みを湛えたまま、ゆるやかに意識を失った。

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