第五章 風の姫ー18


 ぱちりと目を開けて、ピユラは首をひねった。

(ここは――……どこじゃ?)

 周りには誰もいない。透夜も、ユリアも、蒼珠も、影もない。ただ、どこまでもどこまでも――果てのない澄んだ青空が広がっている。

 起き上がり、立ち上がろうとすると、ぴしゃりと水が跳ねた。見れば足元は一面の水面だ。空と同じように際限なく続いて伸びて、遠くでひとつに溶けあっていた。

 鏡のように透明な蒼の水面は、空の色を映して取り込んでいる。立ち上がれることから水深は深くなさそうなのに、どこまでも潜り込めるようにも見えた。


(そういえば……)

 ピユラはくるくると己の背を回り込むように見やりながら、衣服を確認した。この水の上に倒れていたはずなのに、濡れていない。不思議なこともあるものだと腕を組んだ瞬間。ぽこりと背後から何者かに後頭部を小突かれた。

『誰じゃ……!』

 振り返って、ピユラは驚愕する。白銀の長い髪、白い肌に、獣の耳と金色の瞳――。

『ディヴァイン……?』

 どこか不服げに唇を尖らせ、ぎゅっと眉間に皺を寄せているのが気にかかったが、それは間違うことなくディヴァインだった。先ほどまでと違い、向こうの風景が透けて見えることもなく、確かな肉体を持ってそこに立っている。


「風の娘……魔力を共にしたとはいえ、ついてきてしまうとは聞いてないぞ」

 腕を組み、ふんと鼻をならしてディヴァインは言う。

「おかげでサシュカに、返して来いと追いやられた。もっともっと、話したいことがあったのに、だ!」

『そ、それは、その……よく分からぬが、すまぬ』

 憤懣やるかたなしと迫る気迫に、ピユラが訳も分からぬままたじろげば、まだまだ不満そうに顔を顰めながらも、ディヴァインは溜息をついた。

「いい。特別に許してやる。お前には恩があるからな」


 尻尾をふよふよと揺らしながら、ディヴァインは頭の上から足の爪先まで、まじまじとピユラを眺めやった。その無言の圧に、居心地悪くピユラが身じろぎした時、よし、とディヴァインはなにかを決めたらしく、声をあげた。

「お前、このままでも帰れるが、道を間違ってまたこっちに戻られても困る。おっちょこちょいみたいだから、送りの者をつけよう」

『送りの者?』

 ディヴァインの意図がピユラにはまるで掴めなった。そもそも、ここがどこなのかも知らない。なにがなにやら理解できないまま、深まる疑問に首を捻り続けるピユラへ、得意げにディヴァインは胸を張った。

「お前の風の力と私の残した魔力で叶う、たった一度の魔法以上の特別だ」

 ぱたぱたと耳を動かしながら、特にピユラに聞かせるでもない様子でディヴァインは続けた。

「あの時願ったことを、こんな形で実現させることがあるとは思わなかったけれどな。まあ、サシュカにはこっちで出会えたから、私にはもういらない。さすがに身体も向こうにないしな」


『すまぬ、ディヴァイン。その、分かるように話してもらいたいのじゃが……?』

「分からないか? 大丈夫だ。お前も知ってる奴だし、気にかけてはいただろ? 当人の希望は知らないが、ま、適任だろ。それに、思うままにさせるのは癪だものな。私もそれは分かる」

 こくこくと、答えになっていない答えとともに深く頷くディヴァインに、ピユラは頭を抱えた。きっと彼女は、ピユラの疑問に丁寧に応じる気などなく、早くここですべきことを終えて、追いやられたというサシュカの元に戻りたいといったところなのだろう。

『ん? サシュカの元……?』

 その引っかかりに気づいて、ピユラは改めてあたりを見渡した。なにもない、ただただ続く、空の果て、水面の地平。それはまるで――海の彼方に立っているような光景だった。


『ディヴァイン、ここは、』

「いいから、戻れ。風の娘」

 ピユラを遮って、ディヴァインが命じて笑った。

「まだあちらに残る、愛しい者たちの元に」

 ディヴァインの手から、淡い輝きがこぼれた。それがぱっと花のように散ると、そこから一羽の小鳥が空へと羽ばたく。

「あの鳥についていけ。――いつかみたいに、安全なところまで、お前をちゃんと案内するだろ」

 ふっと小鳥が、ピユラを誘うように空から滑り降り、目の前を横切ってまた上空へと舞い飛んだ。淡い翡翠色の小鳥だった。慣れ親しんだ愛おしい、若葉の色だ。

 どこからか、柔らかな風が吹き寄せて、ピユラの背を押した。黒髪の頭を優しくなでていく。懐かしい、あたたかな香りがした気がした。


「もし、また、ここから風が吹くことがあったなら――再び会おう、風の娘」

 白銀の髪を靡かせて、青く青く澄んだ空の元、水面に佇む魔獣が、幸せそうに笑った。

「ありがとう」

 ディヴァインの姿が、突然霞むように見えなくなる。でも不思議と驚きはなくて、ピユラは空を見上げた。

 羽ばたいていく薄緑の鳥を追いかけて、走る。追い抜いていく風に手を引かれ、連れていかれるように、足が軽くなり、やがて浮かび上がり――空を飛んだようだった。

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