第五章 風の姫ー16


 ピユラは呻きながら、痛みを訴える背を引きずり、起き上がった。訳も分からぬまま光の迸りに身体を弾かれ、強かに壁へと叩きつけられた。それは彼女だけではなかったようで、すぐそばには同じように蒼珠も透夜も、そして、ユリアの姿もあった。

 それにはっとしてピユラは八雨を探して視線を走らせる。


 ユリアの身体を幻獣に乗っ取らせ、ラクシュミーとする。それが八雨の目的とするところであったはずであり、先に彼は確かに、ラクシュミーをもらうと言った。透夜の腕の中、揺すり起こされたユリアの様子に変異したところは見られなかったが、ピユラたちを吹き飛ばしたのは、大きな魔力の脈動によるものだ。なにも起きなかったとは思えない。

 まだ光の残照に、ちかちかと視界に影が舞う。それを瞬きを繰り返し振り払って、ピユラは八雨の姿を捉えた。


 いまだ彼は、悠然と玉座に構えていた。細身に纏う、銀糸で飾られた静謐な青みある紫の衣。その裾が風もなくたなびいた理由に、ピユラは大きく眦を裂いた。

 白銀の光の人影が、傍らにあった。それは魔力の凝縮された塊で、そこにあるだけで空気を揺らがしている。輪郭だけははっきりとしているが、目鼻はなく、ただただ人型に魔力が輝きとなって渦巻いている。ぴんとたつ耳の形は獣のもので、腰下には尾らしき影がある。砂漠の廃墟で垣間見た、記憶の中のラクシュミーに、それはひどく似た姿だった。人ならば心臓に近い位置に赤い石が埋め込まれていて、燻るように放たれる暗い光が、そこからひび割れて胸部を覆って見えた。


「――ディヴァイン……?」

 こぼれたピユラの呼びかけに、ぴくりと光の影の耳が動いた。だが、振り返ろうとした動きが縛られたように止まる。空気を切り裂く高音が、聞く者の耳に痛みをともなって鳴り響いた。手で塞いでなお鼓膜に突き刺さるそれは、泣き声に、聞こえた。

 よくよく見れば、影の胸元から赤い光が細く、蜘蛛の糸のようにふわふわと幾重も伸びて、八雨の右掌へと繋がっている。ひらりとその光の一糸を指先に絡めるようにしながら、八雨が笑った。

「その名を知っているか。まあ、驚きはしないかな。宵鴉亡きあとだと、僕に残っている起点ですぐにできるのは、ここまでってところだね」


「取った、のね……?」

 光の影の喉元をくすぐる八雨へ、荒い呼吸を制しながらユリアの声が飛んだ。胸元を苦しげに押さえて身を起こし、透夜の腕を支えにしている。取った、と振り向き問うピユラへ、八雨とその隣の揺らぐ人影を見据えたままユリアは答えた。

「感覚として、分かる、ことなのだけど――持っていかれたの。私の身体にあった〈呪珠〉を核にして、私の身体のなにかを少しと、幻獣の――ラクシュミーの大元である魔力を」

「ああ、うん。素晴らしい。正解だ。さすがラクシュミーと深く繋がっていただけはある。依り代たるその身体まで届かなかったのが、実に惜しまれるな」

 ユリアの答えに満足げに八雨は相好を崩した。


 紫陽は、ユリアとラクシュミーに関わる術式については、己だけでなく、〈呪珠〉を介して八雨の方にも要を残していたらしい。それを辿って、八雨はラクシュミーを不完全ながらも顕現させたのだ。幻獣の魔力の部分だけ、ユリアの身体を象る一部で人型に繋ぎ止め、〈呪珠〉でその力ごと存在を縛った。

「せっかく各地からこの国に集めている魔力も勿体ないし、これほど気にいってる器もそうそう手に入らないだろうから、やはり君の身体が欲しいな。君もそうだろう? ラクシュミー?」

 傍らの光の人影に――かつてラクシュミーであった、彼女の意志を宿す魔力に、朗らかに八雨は語りかける。返事などあっても聞かぬ体だ。明るい微笑みを浮かべる、どちらかといえば丸みを帯びた輪郭と大きめの瞳は、彼の容貌を幼げに見せるが、そこに無邪気さは欠片もない。


「そうだな。宵鴉が作った術式の道筋はまだ生きているからね。ちょっと起点を組み直せば、僕でもまた元の通りに繋げるさ。それになにより、身体がないと、君のあの目が見られない」

 赤い光の糸を手繰り、無理やりに、八雨は自身の方へとラクシュミーを引き寄せた。唸るように空気を震わす甲高い音に、うっとりと満足げな笑みをのぼらせ、顔かたちのない光だけの面をなぜる。

「――早く僕に、またあの目を見せておくれ」

 掠れて届いた囁き声は、甘やかにピユラの耳朶を溶かして侵した。その恍惚とした優しさが、背筋に言い知れぬ気味悪さで這いあがる。


「さて……じゃあ、その身体、もらおうかな」

 爽やかに、明るい笑顔が一同を見下ろした。

「そうすれば、僕のラクシュミーが完全に蘇る」

 深い宵闇の紫が、柔らかにユリアに絡まった。それを断ち切るように、透夜がふらつく膝でその前にいざり進む。

「できない相談だな」

 虚勢であるのかもしれない。けれど不敵に口端を引き上げて、透夜は剣の切っ先をしかと八雨に定めて向けた。

「ユリアとは、ともに帰ると決めている。髪一筋として渡せるか。むしろ、お前が奪ったもの、返してもらおう」

「そうだな。それに、幻獣も――ラクシュミーも……そんなんじゃあんまりにも痛ましい」

 呪わしい赤い糸に結びつけられた光の影を見やって、蒼珠がその片目を悲しげに眇めた。

「ええ、そうね。泣いてる」

 自身の胸元へと掌を添えて、ユリアが囁いた。幸か不幸か、まだ繋がっている。八雨が引き抜いた幻獣の魔力の中にユリアの片端があるように、ユリアの中にも幻獣の――ラクシュミーの欠片が残っていた。それが、ひどく悲しい声で、ユリアを内から揺さぶるのだ。

「放っておけない」

 強く言い切って、水面の眼差しが八雨を真っ直ぐに捉えた。


「まったく、ユリアを助けたら逃げると決めておいたのにのぅ……」

 引くつもりのない面々に、己もまるでその気のない声で嘯いて、ピユラは笑った。ここにきて笑える自身にかすか驚いたが、それは自然にふわりと、彼女の口に灯ったのだ。

「じゃが、私もまったく賛成じゃ。ユリアは渡せぬし、ラクシュミーは――ディヴァインは、取り戻させてもらおう」

 滅びた街で見せられた、ディヴァインの痛みをすみずみまで覚えている。彼女がいたいのは、辿り着きたいのは、けっしていま在る八雨の隣ではないはずだ。


「ああ、構わない。そうして救いの手を差し伸べてやってくれ」

 八雨の指環のひとつから星明かりのように光が溢れて、美しい剣に変わった。青みを帯びた銀の柄。すっと長い両刃の刀身には、術式が金色に刻まれ精美な文様をなし、隣のラクシュミーが放つ光彩を受けて澄んで煌めいている。

「君たちが頑張ってくれればくれるほど――ラクシュミーも失った時に、より僕を恨めしく思うだろうからね」

 座したまま、にこりと八雨が笑いかけた瞬間、彼の傍らからラクシュミーが跳ねた。その胸元で〈呪珠〉が燃えるように光っている。操られているのだ。彼女が腕を薙ぐとともに迸った白銀の閃光が、宙を切り裂いてピユラたちに降り注ぐ。

 それを蒼珠の咆えた呪文が雷となって迎え撃ち、防いだ。同時に重なったピユラの声が、癒しの風となって透夜を包んで吹き抜ける。


「すまぬ、透夜! この状況ゆえ、完全にすべてを癒しきる魔力を編み切れておらぬが、」

「問題ない! これで十分動ける! 余力を残しておけ!」

 ぐっと剣を握る手に、力を込められるのを感じながら、みなまで言う前に透夜はピユラに叫んだ。そこに、はたと気づいたようにユリアが囁く。

「透夜……私、動ける」

 訝しんで透夜がユリアを振り向いた。瞬間、蒼珠の反撃の雷霆を破り、折り重なった光の刃が背面の隙をつくように空を滑ってきた。避けるには数が多く、逃げきれるべくもない。打ち砕くしかないと透夜が剣に術をのせようとした、とたん――ユリアが透夜を抱き上げて、床を蹴った。

 人には及ばぬ高い跳躍。軽々と透夜を抱いて刃の嵐のはるか彼方へと逃げ、長い裾を花のように広げて揺らぎもせずに着地する。


 あまりのことに完全に呆けてユリアを見上げた透夜は、さらに驚きに目を見開いた。ユリアの本来の人の耳を覆って、ぼんやりと銀色の光の膜が獣の耳の輪郭を描き、背には同じように淡く光りながら揺れる尾がある。

「ユリア、それは……?」

「よくは分からないんだけど、私、いまたぶん、ディヴァインの力が少しある。魔力はぜんぶ持っていかれてるけど、身体の動きみたいなのは、あるの。動けるって分かるの」

 突拍子もない言葉に一瞬顔を顰めながら、しかし、そうか、と透夜は頷き、その細い腕から滑りおりた。つまりは幸か不幸か、術式によりラクシュミーと溶け合いかけていた影響が残っているのだろう。核たる魔力の部分は八雨に持っていかれたが、身体能力の部分はユリアに宿ったままになっているらしい。


「〈呪珠〉の影響は平気か?」

「うん。あんまり感じない。あっちのディヴァインと繋がってるところがあるみたいだから、胸にいやな感覚はあるんだけど、制約を受けるほどの効力は私の方には残ってないみたい」

 案じる透夜にそう答え、だから、とユリアは続けた。

「私が動けるだけ動くから、透夜はその血を使った剣は、無茶して使い過ぎないで」

「なるほど……。ならば、頼んだ」

 ぎゅっと握られた掌を握り返し、透夜は笑みを引いた。紫陽が血に刻んだ術式はまだ消えていない。魔の力を振るえば振るうほど、身体が壊れていくのは、いまは止めようがなかった。だが、それですぐに動けなくなっては、ここで戦う意味がない。なるべく普通に剣を捌き、術に頼るのはここぞという時に限るに越したことはないだろう。


「行くぞ、ユリア」

「ええ、任せて、透夜」

 ユリアは透夜の手を引き寄せ、再び宙を駆った。視界を埋め尽くして撃ち込まれた光の矢の数々を鮮やかに避けて縫い、座したままの八雨に迫る。

 八雨の頭上に軽やかに広がる裾の波間から、透夜が剣ごと飛び降りた。座したまま構えた八雨の剣と刃がぶつかり合って、重い金属音が鳴り響く。ようやく玉座を立った八雨へ流れるように次々に結ばれる斬撃を、熟れた手つきで捌いて受け止めて、八雨が笑う。

「これは想定外だ。面白い。ラクシュミーの力がそうして残って顕現するとは思わなかったな。いい器だ。ぜひとも、もらい受けなければね」

「なにが器だ……! 渡すか!」

 噛みつくように返しながら、余裕すら覗かせる手練れた腕前に、透夜は密かに舌打ちする。玉座から駒を配して遊ぶだけの相手ではなかったらしい。そこはこの男を見くびってしまっていたようだ。


 踏み込んで斬りつけた一太刀をまた、音高く八雨の剣が受け止める。ぎりぎりと押し合う力とともに、擦れ合う鋼の音が耳をつく。その時、八雨の剣に刻まれた術式が鈍く輝いた。

 はっと気づいて透夜が引き退く直前に、火花散るように光の渦が刀身から巻き起こる。それを、飛び込んだユリアが透夜の腕を取り、また床を跳ねて逃れた。刀身から迸った光の刃が舞い踊る裾を切り裂き、空へと突き抜けたが、怯まずに、繋いだ手をそのままに、透夜とユリアは同時に再度八雨へと駆けた。

 そこへ、光の輪が幾重も滑空して注ぎ落ちる。ラクシュミーの魔法だ。だがそれはふたりが避ける前に、床から閃き昇った雷の壁に阻まれた。


「もうちっと、こっちの相手をしててくれよな!」

 透夜たちを仕留めた損ねたラクシュミーの影に、追い縋るように蒼珠の雷霆を纏った拳が叩き込まれた。それを溶けるように形を結び変えて影は躱す。同時に舞い散った星屑のような閃きが、そのままあたりを埋め尽くす矢じりの波となり、蒼珠や透夜たちを目指して飛び交う。重ねて八雨の剣が光を纏ったまま床を貫き、白銀の閃光が迸り、槍と成り代わって足元から彼らを貫きにかかった。

 叫び響いた蒼珠の呪文が空の矢の波、薙いだ透夜の剣舞が床の槍の山を砕き払い、打ち壊す。鮮やかに弾けて散る光のさざめきと魔力のぶつかりあいで震える空気に、八雨が楽しげに笑い声をもらした。


 そこへ、風が吹き荒れた。ラクシュミーとやりあう蒼珠や、透夜とユリアへ興を向けていた八雨へ、無数の風の刃が唸りをあげて斬りかかる。

 いまさらその存在を思い出したとでもいうように、純粋に驚きを湛えて振り向いた八雨を、彼と似て非なる紫の瞳が風の膜の向こうから睨みつける。

「ああ……これは少しばかり、懐かしいな」

 柔らかに、風に吹き散らされる呟きとともに笑みを結んで、八雨は身体ごと吹き飛ばさんばかりの刃の渦へ手を翳した。とたんに、吹き荒れていた風がぱっと飛ぶように掻き消え、霧散する。

 眦を裂くピユラに、にこやかな笑顔は朗らかに告げた。

「魔法は効かなくてね」

「ならば、これはどうだ……!」

 八雨の顔に影が差した。瞬時に距離を詰めたユリアの腕の中から透夜が舞い飛び降りて、一閃。八雨の首筋から、左肩ごと胸を切り裂いて腹へ――魔も術も宿さぬ白銀の刀身が、鮮やかな紅の軌跡を作り上げた。

 ラクシュミーの生む光と、相対する蒼珠の雷の閃光に照らされて、迸る血飛沫が燃え上がる真紅の火の粉のようにあたりに飛び散る。

 それは誰がどう見ても、命を断ち切る一太刀だった。


 しかし――見開かれ、色を失う瞳とともに頽れかけた八雨の動きが、止まる。ははっと、明るくいやに耳につく笑い声が聞こえた。ゆるりと動いた右腕が、いまだその肉が、骨が見通せる傷を、這うようになでる。

「知ってるかと思ってたけどな。僕は、死なないんだ」

 ゆっくりと持ち上がり一同を振りむいた、夕陽飲む闇色が笑みを結んだ。

 傷口の血肉がじわりと蠢いて伸び、ずるずると黒い光を帯びながら結びついていく。臓腑は引っ付き、骨は繋がれ、それを覆う褐色の肌も元の通り――赤く染まり破れた服だけが、そこに傷があったと知らせるばかりだ。


「ラクシュミーの呪いによって、この身に流れる時を止められたようでね。老いも触れず、どんな傷も、元の通りに戻ってしまうんだ。先に、進まない」

 人には長すぎる時間を、まるで平然と歩んできたのだろう男は、そう可笑しそうに言った。

「始終襲う痛みばかりは少々邪魔だったのでね、僕の魔法で消させてもらったが――それは君には不本意だったかな? ラクシュミー」

 くいっと動いた指先が赤い糸を引いた。絡まるそれに上体からそば近くまで引っ張り寄せられて、またあの甲高い音が唸る。足元に蹲るようにして引き込まれた光の影へと屈みこみ、八雨は満足げにその怨嗟の音色に耳を澄ませた。


「うん。不本意そうでなによりだ。君がそうして悔しがって、僕を恨み憎む様を早くちゃんと見たいな。君のいとけない金の瞳にはそういう――どす黒く、どうしようもない苛烈さが、とても綺麗に映える」

 うっとりと光の輪郭を頬からなぜる手の甲は、動きばかりは優しく愛おしげだ。衝動的な激しさで八雨に伸びようとした光の腕が、引きつって止まる。震えるばかりで、空に縛りつけられて動かぬその手の上を、ゆるゆると蛇のように辿った指先が包みこみ、唇を寄せた。

 吸い付くように耳障りに鳴った口づけの音が、身震いする悪寒とともにピユラの背を舐めあげる。空気をつんざく高音は拒絶の音色だろうに、ただ彼は満足げにあの笑い声をこぼして、ゆったりと立ち上がった。


「それで、君たちは次はどうする? 魔法は効かない。そもそも、僕の命はなに者にも奪えない。ま、一応これでも斬られれば痛みはあるんだが……そうだな。さして気にはならないな」

 名残もない、傷痕のあるべき場所を八雨の指が伝う。爽やかに言い切る笑顔は眩いばかりだ。言動さえ取り払えば、夏の涼風のように心地よかったに違いない。だが、彼は間違いなく、おぞましい悪意でそう笑うのだ。他者を薙ぎ払い、蹂躙し、それが与える痛みを知りながら、清々しく笑みを浮かべるのだ。


「僕はね、ラクシュミーに見せてあげたいんだよ。僕が彼女の呪い故にいままで生きて、再び彼女と出会えたという事実をね。すべてをかけてもなにも為せず、また憎い僕と巡り会うだけになったのなら、彼女はどれほどの――あの美しい憎悪の瞳を見せてくれるだろう」

 楽しみだね、と笑う彼の口端が、喜色をたたえて引き上がる。

「それだけが――それこそが、ずっとずっと、なによりも楽しみでね。そのためなら……どんなことだってできた」

 八雨の深く不穏な夕闇色が、陶然と溶けた。永劫を恋うる想いを語るには、その双眸の奥は底知れぬほどに禍々しい。

「あの目で、僕を、見て欲しいんだ」

 足元に伏していたラクシュミーが糸に絡められて、八雨の腕に引き込まれる。華奢な影の輪郭をなぞる手が、やはり最後に、そのなにもない顔の目の位置へと添い、いとおしげに這った。

「……だから、早く完全な彼女に会うために身体が欲しい。もう一度言っておこうか。君たちがどうしようと――それを、もらうよ」

 ユリアを捉えて、八雨は華やかに笑みをこぼした。ピユラが拳を握りしめる。


 八雨は、ラクシュミーが永劫の苦しみを与えるため不死とされた。そう聞いてはいた。知ってはいた。己へ向かうあらゆる魔法を無にするという、ラクシュミーヤの族長の血に宿る魔法のことも、ミザサに教えられはしていた。けれど、魔法を打ち消すその力がいかほど厄介なものかというのは、いま目の前にして、ようやく気づけたのかもしれない。不死ということの意味をまざまざと見せつけられて、ようやく実感となったのかもしれない。


 赤い糸の戒め呪う先、ラクシュミーがまた悲痛な音でなにかを訴え、咆えた。

 ラクシュミーの憎悪の牙すら、八雨の魔法の前には無に帰し、届かなかったのだ。

 八雨は、ラクシュミーを絶望と悔恨に彩ることを望むという。女神とまで謳われながら、友のための復讐ひとつ果たせない――その無力さの中に彼女を沈め、そこから生まれる己への怨嗟を渇望している。そうしてまた、愛しき者への気持ちを弄ばれるとは、あまりに――あまりに、苦しい。

「――反吐が出るとは、このことじゃの……」

 吐き捨て囁いて、ピユラはラクシュミーを――ディヴァインを繋ぐ男を睨み据えた。

「ディヴァインの想いを、愛しいと泣く想いを、これ以上貴様の思うままに遊ばせてなるものか……!」

 ピユラの歌い上げる呪文に導かれて、風がはためいた。


 再び〈呪珠〉の命の元、撃ち放たれたラクシュミーの魔法とピユラの風が軋みあう。そこへ加勢して迸る雷の隙をついて、透夜とユリアがなおも諦めず八雨に挑みかかって床を蹴った。

 誰もがみな、あの砂漠の廃墟で古の夢を見た。だから、灯る思いはひとつなのだ。

『――サシュカ……――』

 最期に、ディヴァインの心の奥深くが囁いた、張り裂けそうな恋しさを味わっている。もう一度と、愛しさを望む気持ちを知っている。

 風を手繰り、呪文を紡ぎ、ピユラはその大きな紫の瞳で眼前の光の獣を見つめた。

(愛しさゆえに辿り着きたい先は――)

 憎悪の果て、復讐の底ではないのだ。

ラクシュミーの放つ甲高い絶叫が、また、空気を震わせた。

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